一度きりだ。
これっきり。

そう思った葵の予想に反して馬場との関係はその後も続いた。飲み友達、時々セフレ、とでもいうのだろうか。ベタベタするでなく離れるでない距離は飲み友達だった時同様、あたたかい夢のような居心地だった。

そのお陰なのかどうか意外な変化も兆した。かたくなだった周囲の態度が少しずつ軟化してくる。急に愛想がよくなるとか話しかけられるのではないにしろ、冷たかった視線が柔らかくなるのを感じた。

他人の態度は自分自身を映す鏡に似ている。そうなってみると葵にも反省はあった。直哉のことや望まぬ異動で、そのつもりはなくても周囲を拒否していたのかも知れないと。

馬場は葵に、もっと外を見ろと盛んに勧めたりもした。
「秘書のキャリアもあって経理もできて英会話もだろう？　うちにこだわらなくてもいいんじゃないのか。世の中広いんだぞ」

眠っていた夢が目をさました。秘書になりたい。キャリアは途絶えてしまったけれど諦めるのは早すぎるんじゃないのか。自分で勉強して、そうだ検定だって受ければいい。うまくすればもう一度、秘書課に戻ることだってできるかもしれない。

馬場と夜を過ごすようになって一年。寝物語にそんなことを話したら、どんどんやれ、さっさとやれと煽られる。
「なんでぼーっとしてたんだよ勿体ない」
「そんな」
「葵ちゃんならとびきりの秘書になれる。いろんなことができるぞ」
何をそんなに興奮してるのと笑いながらも親身な言葉が嬉しかった。

「なあやっぱり他のとこも探してみたら」
「ブランクがあるから無理よ。勉強し直して検定受けて」
「だってさ」
「なんか馬場さんて今の会社からあたしを追い出したがってるみたい」
「ば、馬鹿。何で俺が！」

驚くほどの剣幕はすぐ消えた。馬場は葵を抱きしめてベッドに倒れ込む。髪をなでられ彼の肩口に顔を埋めてうっとりする。
「……馬鹿は四つ木だな。ほんと馬鹿だ」
「なに、急に」
「実感してるのさ。視界が狭いのも考えものだって。大事なもの見失う」

「夢は誰だってあるわ。彼は今や課長で美人の奥さんもいて。誰だって羨むでしょ」
「俺はごめんだ。若菜なんてわがままで甘ったれでおまけに」
「わか、な？」

ひゅうっと息を吸い込んだのは無意識だった。いまだに葵のことを「ちゃん」づけで呼ぶ馬場が、呼び捨てにした名前。抱きしめていた馬場の身体も強ばった。

こんな時に限って第六感が走る。狼狽えた彼の発する一音一音に。
「や、その、総務だったろよく伝票切りにいってしゃべってそれで」
「馬場さんがふられたひとって、まさか」
答えを聞かなくてもわかった。


ぱちんと割れた空夢。落ちれば現実。
素裸で身体を重ねているのに、出会った時より遠くなる心。

終わりはどうしていつも突然なんだろう。
彼の眼にあるのは狼狽？　呵責？

静かに身体を離して葵はベッドを下りた。服を着て、それから理由を問いただす。それしか頭になかった。

そう、理由を。





焼酎もチューハイもとっくに空になっていた。ふたつの灰皿はこれ以上高くなれないほどの吸い殻で双子富士のようだ。重い空気の中、さらに重く光が聞く。
「どういうことや。若菜、て」

にらみつける光を避けるようにはすに向いた馬場は煙草をこねくり回している。最後の一本、それも残り数センチしかない。

「葵ちゃんの元カレの奥さんで」
「そんなんわかっとるわ」
「へえ？」

「あんたさっき、最初の何遍かは偶然てことになっとるて言うたな」
馬場はやっぱりこちらを向かない。
「つまり偶然やない。理由があって葵に近づいたっちゅうことか。どういう理由や、おい」

「だから、若菜だ」
「そのだからはどっからどう繋がるっちゅうねん！」
「でかい声出すなって。元をたぐると樫野……あーなんかピンとこねえな。四つ木でいこう、な？　四つ木」

ひとり問答する馬場に光は呆れる。どちらでも構わないが、光にしても四つ木の方がわかりやすい。樫野と聞くとすぐ若菜に結びつくから。樫野直哉か。若菜の夫で葵の元カレ。不快指数100パーセントだ。

「俺はさ、入社以来あいつに負けてばっかりだったんだ。なんでもかんでも」

意外だった。出会って数時間の相手でも自ずと見えてくる部分はある。馬場という男には余裕があった。まなざし、態度、物腰。人を見下したりうぬぼれることなく、実績で裏打ちした自信を持って見える。仕事も出来るに違いない。そんな男にしては卑下した台詞。直哉とはそれほどの奴なんだろうか。

「始めはみくびってたんだ。単に真面目なだけの頭でっかちな奴だと思ってさ。とんでもなかった。粘りとひらめきと意志。加えて弁が立つ。参ったね。一度だってあいつには勝ったことがない」
「ほんまに？」
「悔しいが認めざるを得なかった。樫野専務がぞっこんなのも無理はないって」
再び出た名は若菜の父を指すらしい。

「樫野専務ってのは仕事に関しちゃかなりのやり手だ。少々容赦ないきらいもあるが、嗅覚が鋭くて先読みが得意。そういう専務が四つ木を見込んだのは他にもわけがあった」
「わけ？」
「白羽の矢を立てたのさ。娘の婿として」

馬場の口調は苦々しげだった。煙草の灰をしつこく落とす。
「お陰で俺はダブルで敗北しちまった。あいつに」
言葉の繋がりにあり得ない含みを聞いた気がして眉をひそめる。

「それってどういう」
「直哉の嫁さんとつきあったのは俺の方がずっと早かったってこと」
「つきおうた？」
「四つ木に縁談がもちこまれる一年も前からさ」

頭をなぐられたようで、光は声も出なかった。自分はそのさらに一年前からつきあっていたと、言う気すら萎える。抱いていた若菜の人物像はこれまで何度もハンマーで砕かれたが、今度こそ跡形もなくなりそうだ。

馬場の言う「つきあった」がプラトニックなわけはあるまい。進行形で二股かけられていたのか。ひょっとしたら他にも？　考えたくもない。内心を悟られまいと眼に力をこめて聞く。

「惚れとったんか」
「ああ。恥ずかしいがめろめろだったね」
「なんでみすみす」
馬場は肩をすくめる。

「結婚は両性の合意に基づく。俺にその気があっても相手になきゃできないだろ」
「……あっちは惚れてくれてなかったっちゅうことやな」
同じか。吸わない煙草を吸いたいと思った。口の中の苦みに理由が欲しい。

「ていうよりあの娘をわかってなかったんだろうな。彼女の中で四つ木は特別らしい。あとは全部どんぐりとかドジョウとか」
「ドジョウて」
「一緒に遊びましょってだけのさ。だからお気楽に今も声かけてくる」

ぎくりとした。思い当たることがありすぎる。光の顔色を読んだのか、煙草を置いた馬場が妙な顔でのぞき込んできた。
「そういやホテルで、彼女と一緒に来たよなあんた。知り合い？」
答えるつもりはなかった。馬場が首をかしげる。

「まさか……いや、まさかな」
「それより葵のことや。話がちぃとも核心に近づかんやないか」
わざとぞんざいに話を変えようとする。

「四つ木の嫁さんに惚れとったあんたが、なんで葵の……セフレなんや」
「惚れてたから」
「はあ？　わけわからんこと」

「俺は、若菜に、頼まれたんだ」

背中が一気に冷えた。きっと顔も青ざめただろう。知りたくもなかった現実がまたひとつ。


信じられぬものを見るかのように馬場の顔を凝視しながら、額にも手にも嫌な汗が滲むのを光はどうすることもできなかった。