ガッと、光に胸ぐらをつかまれた馬場が煙草を落としかけた。

「お、おい落ち着け。いくら俺でも会ったその晩に誘ったりしてないぞ」
光の眼光を真っ向から受けて怖じもしないのがなおさら憎らしい。
「大体、あの娘はそんな馬鹿じゃない。いくら落ち込んでたとしてもな」

ほらほらと手首をつかまれ光はしぶしぶ放した。浮いた尻を落として背もたれによりかかると安っぽい椅子が軋む。些細なもめ事には慣れているのか周囲はしらんぷりだ。

「気が短い奴だな」
「思わせぶりなしゃべりするからや」
「んー、そういうつもりじゃないんだが」

スパスパと短くなった煙草をしつこく吸う馬場の前には、こんもりと吸い殻が富士山だ。視界を横切ったサンダルに光は反射的に声をかける。
「灰皿、きれいなん欲しいんやけど」
「あぁ、はいはい」

くたびれた居酒屋の店員は元気なお姉ちゃんではなく、おっとりしたおばさんだが愛想は良いし動きも機敏だ。即座に灰皿をふたつ持って来た。
「すぐ一杯になっちゃいそうだもんね」
そう笑うと、うず高く盛られた富士山を崩さぬようにそっと運んでいく。

「おおきに−。ほれこっち……どないした？」
頬杖ついた馬場が眉根を寄せ、睨むほどではないにしろ難しげな顔をしているので、思わず光も難しい顔になる。

「面倒見のいい奴だな。女の子と飲んでるみたいだ」
「吸い殻の山を見とうないだけや」
「葵ちゃんにもそうやってるのか」

「葵はこない無茶な吸い方せんし、っちゅうかちゃんづけやめえて」
「気にするな」
「するわアホ。今カレ前にしてほんま、性格悪いやっちゃ」
文句を並べながらグラスに口をつけると、ビールから代えたチューハイは氷が溶けて薄すぎる。顔をしかめた光の耳に馬場のしつこい呟き。

「意外だ」
「そやから」
「今カレって言えるんだな。俺にあんなこと言われても」
馬場の言いぐさに呆れる。

「他人から、それも昔の話聞いただけでやめるかいなドアホ。俺はあんたとつきおうとるんやないで？　葵とつきおうとるんや」
「へえ」
「今夜かてほんまはあんたやのうて葵に聞くべきやのに。中途半端にやめられるんもけったくそ悪いし。とっとと話してもうてくれんか」

おとなしかった光が急にまくし立てるので馬場がポカンとしている。もう一本煙草を出そうと箱に突っ込んだ指もそのままだ。

「ろくでもない夜やでほんま。今の俺は散々パンチくろうてダウン寸前のボクサーやわ。けどまだゴングは鳴っとらん。せいぜいカウンターに気ぃつけえや」
「ぶっ、はっ、はーはっはっ」

それでも周囲をはばかって低い声で言い立てていた光は、馬場に爆笑されて驚いた。腹まで抱えて笑っているので、さすがに奇異な目つきで見られる。

なんやこいつ。ここで笑うか普通。
つくづくけったこそ悪い奴や。

にらみ据えていると、ようやく笑いをおさめた馬場は、焼酎のストレートを水みたいに飲み干してはーっと息をついた。

「なるほど、なんか納得した」
「何を」
「葵ちゃんが君に決めたわけ」
「はあ？」

「回りくどいのと胡散臭いのに懲りて素直が一番と悟ったわけだ」
「素直て俺？」
「自覚なしか」
あるわけがない。今度こそ煙草を取り出して火を点ける馬場に光はさっき言われたことを思い出す。

「葵に、煙草教えたて」
「ん？　あぁ教えたっていうか、一人で飲む時は煙草があると楽だろ。時間も潰れるし手持ちぶさたもなくなる」
ふーっと吹き出される紫煙が二人の間でらせんになって上っていく。

「遭って三、四ヶ月ぐらいだったか。吸ってみたいって高校生みたいに恥ずかしそうに。可愛かったな」
けっと口の中で毒づく。
「三、四ヶ月で何遍会うたんや。偶然か？」
「初めの何遍かは偶然……てことになってる」
「ことになっとる？」
光の反駁は聞き流される。

「そのうちお互い馴染みの店を覚えて、三ヶ月過ぎてやっと待ち合わせるようになった」
「えらいのんびりした展開やな」
「同じ会社で、同じ轍を踏む気はなかったんじゃないか」
光にもそれは想像できる。痛い目ばかりみたくはないだろう。

「それでも、当時の彼女は孤立してて」
「孤立？　なんでや。元カレのこと周りは知らんかったんやろ」
「色々あって思うようにいかなかったみたいだ」
「ほんまに？」
顔をしかめる。過去の話なのがもどかしい。どうやっても守りに行ってやれない。

「好きだった男が寝返るなんて簡単に立ち直れることじゃないし、誰にでも話せることでもない。人恋しかったんだろう。気楽な話し相手が欲しかった」
「それがあんたや言うんか」
「さあな。とにかく会って三月は顔見知り、一年過ぎても飲み友達だった。それから」

それから、と馬場はそこで口を濁し深く煙草を吸った。続く言葉は聞きたいが聞きたくない。光の内心は矛盾がせめぎ合っていた。





坂道を下りる葵を後ろからライトが、さらに車が追い抜いていった。アスファルトにヒールが跳ね返る。疲れていると余計に反動を感じる。

ハイヒールは性を分ける靴だ。決して歩きやすくない。でも女ならここぞいう時は履いてしまう。足をきれいに見せたいから。男には理解しがたい気持ちだろう。

男と女の間の深い溝は他にもいろいろあって、男女間に友情は成立するかというのも昔からよくある議論のひとつだ。成立すると言う人、しないという人。結局本人次第じゃないかと葵は思う。相手に愛情を求めていたら友情など望まないし、友情を求めるなら愛情は邪魔だ。

問題は気持ちが常に揺れ動いていることだろう。心は綱渡りするやじろべえのごとく右左と変わり続ける。綱の上を進み続けられるかどうかは必ずしも意志の強さによらないし、選択には常に誘惑がある。人がふたりいれば形はともかく引き合う力は生まれるものだ。


馬場との間で自分は愛情でもなく友情でもない、曖昧で楽な道を選んでしまった。逃げだ。だからしっぺ返しをくらったのだ。



最初の酒は当たり障りのない会話で終わったが、馬場とは不思議とその後もあちこちの店で出くわした。そのたびに、ようと手を振って葵の横か隣に座る。葵が迷惑そうな顔をしてもお構いなし。そのうちに慣れていった。

馬場が性的な雰囲気を匂わせないのが楽だった。葵を女の子扱いするのに気のあるそぶりや言葉を一切出さず。加えて馬場には他に好きな人がいるのを、なにとはなしに感じとっていた。そのふたつと、共に過ごした時間が葵の警戒心を取り払ったのだった。

会社では互いに接点もなくたまに出くわしても知らん顔。会うのはそれぞれの馴染みの店で、携帯に連絡を入れ合った。都合が合えば良し、合わなければそれも良し。そんな風にして週に何度か一緒に飲んだ。他愛ない愚痴や雑談。遠慮も気遣いもいらない対等な関係は社会人になってから初めてだった。

庇護するのでなくされるのでもない気楽な関係のおかげで、単調で展望のない仕事やいつになっても打ち解けてもらえない同僚先輩、眠れぬ夜をなんとか乗り越えられた。知らぬ間に馬場は葵にとって、別の意味で大事な異性の友人となりつつあった。

そのままでいられれば良かったのに。


ふたりの関係が変わったのは、出会って一年半経った夜。三年前、直哉に別れを告げられた日だった。葵は酔った。強したた　かに潰れるほど飲んだ。馬場と会うようになってから初めてだった。

眼を開けた葵はびっくりした。見知らぬベッドは安っぽい装飾のない、いわゆるビジネスホテルだろうか。服を着ているのを確かめる。ベッドサイドのデジタル時計はＡＭ表示だ。部屋はツインで隣のベッドには見慣れた馬場のカバンと脱いだ服があった。バスルームからシャワーの音が聞こえる。

ラブホテルでないことに安堵したものの、状況に戸惑っていると馬場が出てきた。逡巡は一瞬だった。近づいてくる馬場のバスタオル一枚の格好に眼のやり場がない。見るまいとしても見てしまう意外にたくましい身体と胸板。酔っているせいだろうか身体の奥が熱い。

「葵ちゃん」
伸ばされた手から逃げたのは本能だった。この呼び方は苦手だ。やめてくれと何度も言ってるのに。とにかく謝らなくてはと焦る。

「ごめんなさい、私飲み過ぎて。タクシーつかまらなかったんでしょう？　帰りますから」
「葵ちゃん」
繰り返す馬場の声がやけにウエットに聞こえる。

「俺と、寝ない？」

髪に触れた指よりも言葉に気を取られた。すぐ意味がとれなくて、それからものすごい勢いで首を横に振った。指をはじき飛ばすほど激しく。
「馬鹿言わないで。知ってるわ。馬場さん、好きな人いるでしょ」
馬場の眼が見開かれる。

「私だっているもの」
「でも。ふられたろう？」
今度は葵が眼を見開いた。また触れてくる指。

「初めて遭った夜、直哉って。あれ、四つ木……樫野だよな」
「そ、れは」
「俺もさ、彼女にふられたんだ」
馬場の笑みが歪んでいる。

「駄目よ。私、馬場さんに恋してないし。恋しないもの」
「嫌いじゃないだろ？　俺の自惚れ？」
「恋とはまるで違う」
「身体だけでいいって」

息が止まるかと思った。とんでもないと言いかける葵を、遮ってくる馬場の声が、強くて怖かった。
「心も身体もってわけにはいかないけど。お互い心が別のとこってわかってれば、楽じゃない？」

哀しい誘惑だった。好きだからではなくて、互いに報われないから身体だけ重ねようという。まともな神経なら門前払いだ。どうして言葉が出ないのか、触れてくる指が振り切れないのか。

酔ってるんだと思った。疲れてるんだと。自己憐憫だわ、情けない。こんなことで流されてどうするの。この人は直ちゃんじゃない。好きなわけでもない、しっかりしなさいと自分を叱咤して。なのに身体は動かぬまま。

「葵ちゃん」

直哉は決してそんな風に呼ばない。直哉じゃない。自覚が逆に葵を弱くした。身代わりでもなくごっこでもない、欠落を埋め合うだけの関係とわかっていれば。それならいいんじゃないかと自分に自分で目隠しして。

ごまかして。

か細い声で試みた最後の抵抗。
「恋にならないのに」
「恋はいらないよ」

身をかがめてくる彼の顔が見られない。誰にともなく許しを請うて眼を閉じ、葵は見知らぬキスを受け止めていた。





カツンとヒールを鳴らして葵は路上に立ち止まる。ただ暗いだけの空。雲はないが星もない。月もぼんやりして全てが朧ろに霞んでいる。あの夜みたいな。

悔いてもしょうがないけれどやっぱり思う。あの時、三年ぶりの他人ひと　の温もりを嬉しいと思ってしまった自分、恋はいらないと言う馬場を信じた自分は、どうしようもなく愚かだったと。