相変わらず混み合う会場。
談笑していた陸見が肩を叩かれて振り向くと直哉がいた。

「よく会うな」
「やれやれだ」
渋面をすぐ笑顔に代え陸見は若菜に会釈する。以前、別の会合で面識はあった。逆に言うとその程度しか知らない女性だ。じっと観察する。

直哉とは学生時代からのつきあいだが、彼が葵との婚約を解消し若菜と結婚した何年かは、陸見自身が人生の岐路とでも言うべき時期にあった。他のことに構う余裕などなく直哉とも連絡をとらず。その後、葵と再会してどれだけ驚いたか。

葵のことで直哉には一度だけ意見したが、妻となった若菜に対しては含むところなどない。ただ、自分の秘書としてさらに知ることになった葵と、こうして見る若菜とでは人となりがあまりに違うと思う。

男同士だ。直哉の、目標に向かって時に手段を選ばぬやり方も理解はできるが、彼にとってそれが良かったのかどうか、陸見にはまだ見極めがつかなかった。話しかけてくる夫へとひた当てる若菜のまなざし、そこにみえる気持ちの方が本物に思える。


「若菜は少し食べておいで。おなかが空いただろう」
「あなたは？」
「話が終わったら行くよ」
「……わかったわ。じゃあ失礼します」

ハイウエストのワンピースと短いボレロ。流行を取り入れながらもオーソドックスなスタイルはいかにも上流の雰囲気がある。人の中を泳ぐ姿に惹かれる男も少なくないというのに。
「葵は？」
そう聞いてくる直哉に視線が非難がましくなったのは仕方ない。

「奥方をうっちゃって第一声がそれか」
気まずそうな顔をするのがまだ救いだ。
「どうしても葵に聞きたいことがあるんだ」
「いまさら？」

「……そういえば、源って男は陸見のところの社員なのかい」
「源　光か。営業トップだ」
「そいつはその、葵と？」
「つきあってるよ」
あっさり肯定した陸見は直哉の顔が赤く染まるのを見ていぶかしんだ。怒り？　まさか。

「言っておくが、あの時の君よりはずっとマシな奴だぞ」
「ひどいな、音おん　」
何とも情けない友人の顔に陸見は学生時代を思い出した。あの頃もたまにこんな顔をした。決まって九つも年下の婚約者についてからかった時だった気がする。だからこそ陸見は表情を厳しくする。

「直哉。過ぎたことや離れた人に構うのは止めた方が良い。日高君とはすでに道が別れている。そう決めたのは君じゃないか」
「……わかってる」

「どうだか。いまさら君の選択をとやかくいうつもりはない。戻れるわけでもなし。だからこそ選んだ道を進むべきだろう。ふらふらと彼女の行く手に現れるのは卑怯だぞ、君らしくもない」
「卑怯、か」
さすがに堪えたのか直哉がうつむいた。握りしめている水割りのグラスはほとんど口をつけていない。

「軽々しく決断したことなどないよ」
ぽつりと直哉が言う。
「考えて考えて、他にどうしようもない、そういう道を選んできた」
「直哉」
「だから、後悔なんてできないはずなんだ。わかってるのに」
直哉の視線がうつろに彷徨う。ここにいない誰かへ。

「僕は間違ったんだろうか、音。今になって疑うなんてどうかしてるが」
「間違ったよ」
ぎょっと直哉が顔をあげた。
「でもそれは私の意見だ。どうやっても選んだ道だと君が言うなら、結果も受け入れるべきだ。そうだろう？」

「ほんとに手厳しいな」
「仕方あるまい」
「それでも」
直哉の眼に光が戻る。

「葵に確かめなきゃならないんだ。過去じゃなく現在にかかわることだから」
「現在に？」
うなずきながら今度は目的を持って直哉が周りを探す。ぴたりと定まった先には若菜。陸見は眉根を寄せる。

「……どっちにしろ今夜は無理だ。日高君は帰ったよ」
「帰った？」
「帰らせた。元々今夜はプライベートみたいなものだからな」
「音」
「どうしてもと君が思うなら止めることもできまい。だが言っておく。あの時以上に彼女を傷つけることは私が許さないよ」

対峙する二人の間にも時間は流れている。親しい友人だからこそ難しい互いの位置。歩き出す陸見。
「葵を……傷つけたかったことなんて一度もない」

つぶやく直哉に陸見は振り向かなかった。





話がある。そう言った馬場だがこっちの都合を斟酌する気はないようで、さっさとホテルを出てしまった。仕方なく追いかけた光と、たどり着いたのは駅高架の飲み屋だ。

洒落者にみえるのに小汚い飲み屋も慣れた様子。見た目とは違うのかそれとも年の功か。自分よりはずっと年上と踏んではいるのだが。

「ビールでいいか」
「かめへん」
「あんた、西の人？」
「生まれも育ちも東京やけど、ここ十年ほど向こうにおったから」
「なるほど」
生ビールのジョッキがドンと置かれるや、断りもせず飲み干した馬場にあっけにとられる。

「かー、うまい。ああいうところは飲むにしろ食うにしろお上品過ぎる」
勝手に頼んだつまみもぱくぱく食べる。レバニラと焼き鳥と枝豆。
「うんいける。食べないのか。これうまいぞ」
身構えていた自分がばからしくなるほどの気楽さだ。箸を振り回す行儀の悪さに気が抜けた光は、手元のジョッキを飲み干した。

「おお、いい飲みっぷり」
「そらどうも」
「おねーさん、ジョッキふたつ追加ー」
「……なあ？」

「あ？　焼酎のが良いか？　日本酒とか」
「そやのうて」
「食べたいものがあるなら好きに頼めば」
「ちゃうやろ」
語気を強めても首をかしげるだけの相手がしゃくに障る。

「飲むんも食べるんも好きにしたらええけど。あんたと仲良う酌み交わすために来たわけやないで」
「固いこと言うな」
「話てなんや」
鼻白んだ馬場は、肩をすくめると灰皿を引き寄せた。

「見てくれよりきっちりしてるな。あ、煙草いいか」
「ああ」
肯いたものの、きっちりしてるのはそっちだろうと思った。天井近くまで焼き鳥と煙草の煙で霞んでいる店だ。いいかと断る方が珍しかろう。一本取り出して火を点けると、思い出したようにつぶやく。

「まだ吸ってたんだな」
「……なんやて？」
唐突過ぎてわけがわからない。

「葵ちゃんさ。まだ吸ってるんだ」
「まだ、てどういう意味や」
「もうやめてると思ってたからさ。彼女に煙草を教えたのは俺だよ」
驚いている光を、馬場が見る。

「あんた、葵ちゃんの今の彼氏って言ったよな。四つ木……あぁ面倒くさい。樫野直哉のことは知ってるのか」
事情通だ。苦々しくうなずく。
「元カレ、やろ」
「……知ってるのか。そうか、確かに今カレだな」
「だとして。あんたは葵の何や」

光の問いに馬場は、会って初めて困ったような顔をした。太い眉が情けなさそうに下がって妙に愛嬌がある。こいつもてるんやろな。男の光にそう思わせるあたり曲者だ。

「何って聞かれてもな」
「だから」
「俺としちゃほんとは元カレ、って言いたいところなんだが」
ギョッとした光に構わず、馬場は続ける。

「葵ちゃんにすればたぶん、俺はそういう位置じゃないし。嫌がられるのにそう言うのもおこがましいし」
「なんやそれ」
「強いて言うとうーん、丁度いい言葉がないんだが。一番あてはまるのはセフレかな」
「……今、なんて言うた」

「セ・フ・レ」


聞き間違いだと思った。聞き間違いであってくれと願った。およそ葵とは結びつかない単語に唖然と馬場をみつめる。そういえばあの夜、元カレと別れたのは１１年前で、７年ぐらいご無沙汰だったと言った。引き算の意味するところを聞かずじまいだったけれど。まさか。

ずんと胸に落ちる重石。光の混乱をお見通しなのだろう、馬場はのんびりと構えている。何から聞けば。何を言えば。


追加のジョッキがふたつ、手もつけられずテーブルの上にぬるんだ水たまりを作っていた。