規則正しく平らな呼吸。
柔らかな身体を抱きしめながら光は宙をみつめていた。

間接照明の明かりが滲んで広がる部屋に闇はない。強弱を繰り返すベース音のような明暗。半身になって光に添う葵の、上下する肩が別のリズムを打つ。温かな寝息が光の胸を濡らした。

こんな風に誰かと一緒に眠るのは久しぶりだ。気楽な関係なら数えきれぬほど結んできた。恋に破れたといえ禁欲するには若すぎたし誘いも多かった。どれだけ心が打ちのめされても身体はやがて乗り越えて行く。それが若さであり人が生きていくための本能だから。

そうして身体の経験値は上がったものの、誰とも恋愛関係に至らずほとんどを斬り捨ててきた。若菜との別れがあまりに無残だったのもあるが理由は他にもあった。あの夜、その後のことは家族しか知らない。


小さくうめき声がした。眼を閉じた葵の眉が苦しげに寄っている。眉間にそっと口づけると何か感じたのだろう、表情がふわりと緩んだ。優しい感情をかき立てられる。

この交わりは経験値なんかじゃない。乗り越えなければならない壁はまだあるだろう。彼女も、自分も。乗り越えられるかどうかわからない。でも離したくない。その思いは光の心に、身体に、細胞にまで染みわたっていった。





「ひとりかい」

早朝、日高家に現れたキヌは、ひとり居間で茶をすすっている鋼を見て拍子抜けした。せっかくきたのに孫が誰もいないのはちょっと寂しい。

「銀は仕事の打ち合わせだと。鉄はまだ寝てる」
「葵は？」
「……夕べから帰ってねえよ」
不承不承の口調で説明する鋼に容赦なくキヌが突っ込む。

「へえ。朝帰りかい」
「会社の同僚んとこ泊まるんだとさ」
「ふーん」

不器用な手つきで茶を注ぐと湯飲みを置く鋼。さしむかいに座ったキヌは息子の顔を遠慮なく眺めた。苦虫を潰したような顔、ではあるがそれほど不機嫌といおうわけでもなさそうだ。

「ちったぁ進歩してんだ」
「なに？」
「娘の朝帰りに冷静だからさ」
「冷静なわけねえだろ。嫁入り前だぞ」
きっとした目つきは瞬間湯沸かし器を思わせたが、すぐ逸らされる。

「そう言う間に三十越しちまったけどな」
「それがどうしたってのさ。昔ならともかく三十なんざ花の盛りさね。ましてや葵は美人で気立ても良くて」

「それっくらいわかってらあ。今のご時世、結婚だけが女の幸せたぁいえねえってのもな」
「おやおや」
まさか鋼の口からそんな台詞が出るとはびっくり仰天。キヌが眼を白黒させる。

「それでもだ。親として見てきた俺に言わせりゃ、あいつには家庭がいる。なんでもできる今風のきゃ、きゃりーうーまんとか格好つけてやがるけどな」
鋼は手元の湯飲みをにらんで言い切る。

「あいつは頼る誰か、守る誰かが要るんだよ。そういう女だあれは」

眼をそらすのはキヌの方だった。なんだかんだとうるさいがそこは親だ。葵の本質を見抜いていると思う。反論はない。だからといって。
「決めるのは、葵だよ。今更四つ木とか馬鹿なことお言いでないよ」

釘を刺されて鋼がますます苦い顔になる。なんともいえぬ沈黙は数分後、ようやく起きてきた鉄が「腹へったー」と破るまで続いたのだった。





朝、男とホテルから出ていく女は一体どんな顔をしてるんだろう。喜色満面じゃ気持ち悪い。知らん顔じゃ可愛気がない。うつむいてばかりじゃ暗い。相手や状況や心情で全部変わるんだろうけれど、マニュアルが欲しいと思う人も少なくない気がする。今、葵は切実にそのひとりだ。

日曜朝、繁華街はずれのみすぼらしい通りを男と連れ立つのは、昨夜バスルームから出てくる相手を待っていた時に負けず劣らず気恥ずかしい。

「葵」
とにかくこの場を去ろうとうつむいて急いでたら、後ろから呼び止められてしまった。振り返ると光のおかしそうな顔。

「そないさっさと行かれると傷つくで」
「恥ずかしいのよ。恥ずかしくない？」
「大人やのに？」
「大人だから！」
閑散とした道に声高な声が響いてあわてて口を塞ぐと、さらに彼が笑みを大きくする。

「俺は手えつないでぶんぶん振り回したい気分や」
「子どもね」
「ハッピーなだけやって」

疑わしげな顔をする葵に、光が問う。
「葵は違うんか？」

答えられなかった。気にした様子もなく光は手を握ってくる。
「どっかで朝飯しよ」

おずおずとうなずくと、確かめるようにのぞきこんで軽く触れる唇。固まった葵に構わず歩き出す。ひっぱられてつんのめりながらもようやく笑った葵は、彼の隣に並んだ。

ふたりの間で握りあった手。ぶんぶんにはほど遠く、だがゆらゆらと前後に揺れる。ふと自分の背中を肩越しに見た。もしかしたら羽根があるかも？　その感情が期待なのか不安なのか葵にはよくわからなかった。





鷺沼さぎぬま　商事は長く安定した業績を挙げている会社だ。ＬＥＡＰとの取引はまだ日が浅いが、創立者たる鷺沼長二さぎぬまちょうじ　とＬＥＡＰ社長の陸見くがみ　は年齢差にもかかわらず以前からつきあいがあった。

会社を二代目に引き継ぎ会長職に退いたあとは、評論家として活躍し本も出版している。いわゆる立志伝的人物でマスコミにも受けが良く交友関係も幅広い。彼の『喜寿を祝う会』には多くの人が呼ばれ、陸見のスケジュールも早くから予定が入れられていた。

「面白い人だよ。経営を離れたらさらに元気になって、いろいろな事に手を出している。日高くんも気に入るよ」
会場のあるホテルへ向かうタクシーの中で、陸見は快活にいった。明日以降のスケジュールを確認しつつ、葵が微笑む。

「お会いできると嬉しいです。何かと話題の方ですし。うちからは他にも誰か？」
「営業と開発。それから源も」
「源、さん？」
どきりとした。光とはあの後、メールは交わしても会うヒマがない。

「ああ。うちと鷺沼の関西支社同士の取引はあいつの手柄なんだ。アポもとらずに飛び込んだとか」
「単に無謀なんじゃ？」
葵の辛辣な舌に陸見が笑う。
「一見そうみえるが、計算に乗っ取れば無謀も挑戦になるのさ」
楽しげな口調には自ら実践してきた者ならではの自信があった。


都内有数のホテル、一番広い会場は高い天井から幾つものシャンデリアがきらめいていた。セレモニーは最小限、あとは集まった人任せの気楽なスタイル。あくまでもプライベートなパーティーのはずだが。
「盛況だねさすがに」
「ええほんと」

何をおいてもまずは主役へ挨拶だ。演壇近くの椅子に座る老人は、白髪も残り少なく身体は小さいが、しっかりした足腰と炯々けいけい　と輝く眼光の持ち主だった。紹介された葵を一瞥いちべつ　しニッと笑う。見事な歯並び。

「陸見くんが口説き落とした秘書というのは君かね」
「お噂はかねがね伺っております。本日はおめでとう存じます」

「年を祝ってもしょうがないんじゃが、賑やかな機会を設ける言い訳にはもってこいだろう？　ボケ予防には刺激が一番らしいぞ」
「少し呆けてくださった方が周りは楽ができるでしょうに」
陸見の人を食った言い方にもかっかっと豪快に笑った。

「これだから人付き合いはやめられん。丁度君に引き合わせたい奴がおる」
「お伴します。日高くんは何か腹に入れてなさい」

恐縮する葵をいつもの調子で言いくるめ、陸見は鷺沼のあとに従って消えた。緊張が解けて肩の力が抜ける。さすがに大物、見られるだけで力が吸い取られそうだった。

せっかくの陸見の心遣いだ。何か食べておこうと、人数に見劣りのないたっぷりした量と種類の料理であふれるブッフェをめざした葵だが、まっすぐ進めばたいした距離でもないのに人が多すぎる。迂回したり時に話しかけられたりでちっとも近づけない。

何度目かわからぬ障害物、顔見知りの他社部長に挨拶を終えるとため息が出た。ほんとにお腹が空いてきた。今度こそと歩き出した、とたん。
「葵」

仏頂面を隠さなかったのは声で相手がわかっていたからだが、いきなり睨まれた光は一歩後じさった。
「怖い顔やな」
「お腹空いたの」

子どもみたいな言いぐさだ。いつのまにか彼にすっかり甘えていると自覚したが、光はさらにそれを増長させるつもりらしい。手にしているのは美味しそうな料理がのった皿で、惜しげなくそれを差し出すのだから。

「どうぞ」
「いいの？」
文字通りとびつかれて吹き出しかけた光は、葵の背を抱えるようにして会場の隅まで引っ張っていった。

「欠食児童かいな」
揶揄やゆ　は聞き流し葵は食べることに集中した。チキンとハムとピクルスにパイ。高級な料理名がついていそうだが、構ったことではない。思ったより空腹だったようだ。人心地がついてようやく、周囲から遮るようにして見守る眼に気づく。赤らむ顔。

「鷺沼さんにご挨拶は？」
「最初にすませた。社長にも会うたわ」
「そう。いきなりがっついてお行儀悪いわね、私ったら」
「腹へっとったら食べるんが一番や。葵に持ってきたんやで」
「うそ」

「ブッフェに近づけんともの欲しげな顔で話しとる葵がみえて」
「いやだ。そんなにみっともなかった？」
小さくなった葵はうなじまで赤く染めたが、光は楽しげに見下ろしてくるだけだ。

「いいや。どこから見ても格好ええ秘書さんやて。惚れ直した」
「バカ」
光はいつもこんな調子だけれど、共に夜を越えたせいかやけに生々しく聞こえる。こんな人中では焦ってしまう。背中から別の声をかけられても、葵はまだ光に気を取られていた。

「日高、くん」
「はい？」

あとから思えばためらいを含んだ声だったが、その場では何も考えなかった。くるりと向きをかえた葵は、そこにいるのが直哉だと知ってはっとした。直哉と、もうひとり。

顔が強ばる。後ろで深く息を吸い込む気配があったが、それどころじゃない。うろたえないのが精一杯だ。

「君も来てるとは思わなかったよ。鷺沼さんと知り合い？」
「わ、私じゃなくて社長が」
「あぁそうか。陸見も来てるんだね」
「ええ」
直哉の横にいる人と眼が合う。驚きと緊張と苦さ。

「改めて紹介したことはなかったね。妻だよ。こっちは」
「日高　葵さん、よね」

すらすら名前を口にした妻を直哉が驚いて見返る。葵はごくりと唾を飲み込んだ。彼女と直哉と自分はかつて同じ会社にいた。部署は違ったからしゃべったことはない。ないけれど。

「初めまして。日高で」
「わかな？」

割り込んできた声に驚いて葵は振り返った。茫然としている光。見ているのは葵ではない。彼が呼んだ名は。

「なんでここにおるんや」
「あなた、樫野さんを知ってるの？」
「は？」
向けられた顔は豆鉄砲くらった鳩。見返す葵の心境もそっくり同じだ。
若菜？　どうして名前で？

「樫野さんご夫妻でしょ。直哉さんと、若菜さん」
「ご夫妻て……葵は、なんで」
「直哉さんとは、幼なじみ、で」

言葉に詰まる葵を、若菜の高めの声が遮った。
「光。やっと会えたわね。会社ではちっともつかまらないんだから」

こっちも呼び捨てだ。光って、まるで。
会社？　会いに来るって……え？

稲妻のようによぎる事実と現実。会社まで会いに来る人妻。光が話してくれた元カノ。散らばったパズルのピースが、わかるようで組み合わせられない。直哉の声も頭を素通りする。

「若菜、彼と知り合いかい」
「ええ、源　光さん。この間久しぶりに会ったの。これが主人よ」
「あんたが若菜の？　でも。なんで。　……葵？」

光の声は聞いたことがないか細さだった。
どうして。ようやく見つけたと思ったものが揺らぐ。傾ぐ。
足元のヒールが頼りない。床が波打つようだ。


光と、若菜？　でも。
直哉と自分。　でも。
若菜は直哉の、だけど。
光は自分と。　ほんとうに？

「光が今、おつきあいしてる人って葵さんなの？　知らなかった」

若菜の甲高い声は誰に向けてだろう。
知らなかった？　ほんとうに？　あの時だって。

人形みたいな若菜の顔。
直哉のわけのわからない顔。
光は蒼白だ。たぶん、自分も。


ぐるぐると回る天井。
輝くシャンデリアが自分めがけて落ちてくる。
見上げてもいないのにそんな気がして、葵は動くことができなかった。