行く先は彼に任せた。

葵には馴染みの薄い街だ。ましてやそのたぐいは全くわからない。先を行く彼が迷いなく進む不思議さ。ここら辺はテリトリーなんだろうか。

たどり着いた小洒落たブティックホテルを見てその気持ちは強まったが、怒るのも筋違いだろう。葵にしてもいかにもなラブホテルでない方が有り難い。思い出したくないこともある。


先にシャワーを浴びた。入れ違いに彼がバスルームに消えてからはたと困った。どんな顔して待って居ればいいのやら。とりあえずのローブ姿でウロウロする。

ベッドに潜り込んで待ち構えるほど意欲的なわけではないしそう思われたくない。かといって酒に頼るほど消極的でもない。結局どうやってもこの気恥ずかしさは消えないだろうと諦め、ダブルベッドに腰を下ろして周囲を観察した。

部屋のコンセプトはたとえるならベルサイユロココ調とでもいうのか、家具はどれも渦巻きと唐草模様ばかり。すぐ飽きそうだが、住むわけではないから誰も気にしないだろう。白にピンク、それから金。女性好みの色だ。ヘッドボードの手の込んだ模様を指でなぞってみる。迷路のような花と茎と葉の中に、ナイフを握りしめた光が浮かんできた。

彼の恋の顛末てんまつ　は自分の過去をたどるようだった。孤独と愛憎と喪失。裁判官でも陪審員でもないから裁くことも責めることもない。ましてや同情する必要もない。心が寄り添って求めたから、ここにいる。


バスルームのドアが開いた。腰にバスタオルを巻きハンドタオルで頭を拭きながら出てきた光は、髪が濡れて眼鏡がないと別人のようだ。ちょっと親父っぽい。

「なんぞ飲むか」
「ミネラルウォーターある？」
「あるやろ」
備え付けの冷蔵庫でみつけたエビアンを葵に渡すと、自分は缶ビールを開けながら葵の隣に座る。

「まだ飲むの」
「風呂上がりのビールは水とおんなじや」
言葉どおり、葵がエビアンを半分も飲まないうちに光はビールを飲みきった。満足げにため息を吐いたあと背中を折るようにしてのぞきこんできた顔は、ごく真面目だ。

「ほんまにええんか？　無理じいなんかせんで？　気ぃ変わったんなら帰ってもええし」
「気がかわったら遠慮なんかしないわよ」
「そうか？　なんや固い感じやから」
指摘されて言い訳になる。

「緊張するのはしょうがないわよ。あなたとはその、初めてだし。それに」
「それに？」
膝の上でエビアンをもてあそびながらの続きはモゴモゴ小さくなる。

「あなたとじゃなくても……ひさしぶりなんだもの。すっごく」
「久しぶり、て」
沈黙が横たわる。決まり悪さで葵は在らぬ方へと眼を泳がせていた。





思いもかけない口ぶりに、光は困惑しつつ興味津々になった。噂は噂だとはわかっていたけれど、葵の噂は音に聞こえていたから。

「ええ？　元カレと別れたん、いつや」
「十年。十一年前？」
「それからずっとご無沙汰とか言わんやろな。尼さんか？」
バシッと裸の腕を平手打ちされて思わずうめく。

「デリカシーって単語、知らないの」
「そうかて」
「ずっとじゃないわよ。でも……七年ぐらい？　あなたに言わせればないと同じでしょ」

「嘘やろ」
思わず叫んでしまった。これが叫ばずにいられようか。

「何が」
「『葵の上』は百戦錬磨の手練れのはずや。群がる男をなぎ払っ、ぶっ」
ぼすっとぶつけられたのは枕だ。続けざまにふたつ。かなりな勢いで光はベッドから落ちそうになる。

「ちょ、ちょうまち、葵、待てって」
「その呼び方二度としないで！　嫌いよ、大嫌いなの！」
「わかった、わかったから待てって」

枕の代わりに拳で向かってくる葵を羽交い締めにして腕の中に抱き込む。爆竹を抱えるみたいなスリルだと、思った途端に静かになった。生乾きの髪を、毛を逆立てた子猫をあやすように撫でてやる。

「嫌いか」
「嫌い」
「俺も？」
「そうじゃなっ……くて」

即座の否定に微笑むと葵が黙る。紅潮した頬に口づけると、ぶるっと身震いしてから口を尖らせた。可愛くて、参る。

「なんで嫌いなん。葵の上て呼び方」
「……昔言われたの。好きな人と添い遂げられない名前だって。源氏物語みたいに」
「そしたら俺はマザコンでロリコンのハーレム男やな。救われん」
ぶっと葵が吹き出した。強ばっていた身体が緩んで曲線に変わる。

「あなたの光源氏の認識ってそれ？」
「男は大抵そうやろ」
「気が合いそう」
「同じ名前なんか一杯おるわ。俺とは別人。気にしてもしゃあない」
コツンと光の胸に預けてくる頭。

「でも嫌い。あの呼び方も作られた噂も。人の口に戸は立てられないけど認めない」
「なあ、もう一個だけ聞いてええ？」
「答えるとは限らないわよ」
「元カレて、何人おった」
上げられた視線がひるまずに光を射る。

「ひとり」

光が足し引きするのを見抜いているのだろう。笑みが儚くて胸が痛む。元カレと別れてからと「ごぶさた」と称する年月の差。その意味は想像できた。彼女が聞く。
「元カノは？」
「一人だけや」

答えながら思った。たぶんsexに関しては自分の方がよほどゆるかったに違いない。葵の前髪をかき上げあごの線をたどり頬を包む。縮めた距離でお茶目に言ってみる。
「お互いセカンドバージンてとこや」

明るんだ葵の表情にほっとした。彼女はともかく自分をバージンなどと言うと天罰が下りそうだが、あながち嘘でもない。恋が心でするものなら。

「羽根、くれるやろ」
「それは無理」
あっさり断られて苦笑する。

「薄情もん」
「持ってないもの。神様でも天使でもないのよあいにく」
「そやかて」
不満げな光の顔に今度は葵の手が触れた。確かめるように。

「代わりに落ちてあげる。それじゃ駄目？」
「落ちる？　どこまで？」
「どこまででも、一緒に」

動悸が跳ねた。求め合っている。本気で？　ほんとうに？　重ね合った口づけがその証しに思えた。





どちらもぎこちなかった。激しい鼓動は初めてセックスするティーンエイジャー並みだ。浮かんだ考えに葵は笑みを殺す。ローブを開かれ身体をさらすと彼の顔が見られない。照れもあってとうとう笑いだすと、組み敷いた光が文句を言った。

「ええかげんしいやほんまに。ムードっちゅうのがあるやろ」
「ごめん」
「ええわ。笑うヒマなんぞなくしたる。覚悟しい」

光がぎこちなさも遠慮も脱ぎ捨てると確かに笑う余裕もなくなった。忘れていた感覚が蘇る。こんなだったろうか。女である悦びはあの頃もこんなに深かっただろうか。

比べようにも思い出すそばから、新しい記憶に塗り替え塗りつぶされていく。眼は閉じなかった。閉じまいとした。ここにいるのは光だ、他の誰でもないと言い聞かせる。

彼の手を指を唇を声を刻みつけた。自分より大きな手が胸を包み込む様や、伸びかけたひげが肌を浅く掻く感触や、葵を追い上げようと企み仕掛けてくる眼、のけぞった首筋のふくれあがって脈打つ血管、血のようにしたたった汗が光って落ちてくる瞬間を。

上り詰めた峰から遙かな淵へと二人で身を投げた。幾度も幾度も。
どれだけ高くてもどれだけ深くてもたじろがなかった。


押し寄せてくる睡魔。ゆるやかな傾斜に身を任せ、体温を分かち合いながら思う。満たされているのにどうして、不安が消えないのだろう。

『添い遂げられない名前だって』


一筋の涙がシーツに歪んだ円を染めた。膨らもうとするのに小さな穴があって膨らみきれない風船。それが自分だ。失ったままの自信はいつ取り戻せるのか。

いつ？


夢の中でも、答えはみつからなかった。