若菜とつきあうようになったものの、光はまだ高校生で未成年だったから周りには内緒だった。時にバイト先で落ち合い、時にバイトが終わってから若菜の部屋に行く。

勤め先から実家が遠いわけでもないのに「一人暮らしがしたかったから」借りたという若菜のマンションは、オートロックのしっかりした造りとゆったりした間取りだった。１ＬＤＫといっても勤め始めたＯＬの給料ではきつそうな。たぶん親がかりだったろう。

入り浸っている身でとやかく言えることではない。逆だ。一緒に居られる時間が限られる上、心もお金も余裕のなかった光にとってそこが、唯一安心して恋人と居られる空間、かけがえのない愛の巣だった。

「彼女さえおったらなんもいらんかった。高校卒業したら就職して一緒に暮らそうて、勝手にそこまで夢描いとった」
記憶に浸る。幼いなりに純粋で真剣だった思いをいとおしむ。

「なのに、どうして？」
そっと、忍びやかに葵が問いかけてくる。壊さぬように。とっくに壊れているのに。

「……高三の一学期末、テスト前やった。忙しいてしばらく会えんかった彼女が、いきなり来て言うたんや」

『結婚することにしたから。お別れね』
現れた彼女に、なんの屈託もなく嬉しそうにすら言われて、混乱した。

「別れてくれでも別れたいでものうて、お別れねやて。俺は初めて聞くのに彼女はもう決めてしもうとった。冗談て思うやろ。ジョークにもならん」

『今までありがとう』
完璧な笑顔が初めて作り物にみえた。現実だと信じられなかった。

「プラトニックラブしとったわけやない。体も心も許しおうて二年や。二年もつきおうたのに衣替えするみたいに俺を、ひと言で片付けよった」

『さよなら』と。
どうしてそんなが言えるのか。

「なんで気づかんかったんやろ。彼女の好きと俺の好きがどんだけ違うか。太陽系と銀河系くらいに離れとったてことに」



言うだけ言ってさっさと帰ってしまった若菜。バイトも抜けられず思い切り動揺しながら光は仕事を続けるしかなかった。その間も脳裏に浮かんでは消える二年の思い出。二年間のふたり。起きているのに悪夢の中にいるようだった。

別れる？　なんで？
嘘や。そないなことありえへん。


「つきおうとる間もおかんの具合は悪うなる一方やった。俺見ると親父と間違うたりして家におるんも大変で。そんでも妹らのためにはおらんとあかん。桐ねえはＣＡとして家計支えて空をとびまわっとったし、藤ねえは無事受かった大学に行きながら、授業料稼ぐためにやっぱりバイトして。もちろん家のこともやってくれとったけどあんまり家におられんかったし、おかんが悪うなっとるのはなるべく言わんようにしてた」

「お母さんのことなのに？」
首を傾げる葵の気配を感じながら、ハンカチでレンズをぬぐって眼鏡をかけ直す。

「おかんのことやからや。壊れてく母親を目の当たりにするんやで。家守っとるんは俺や思うとったから愚痴は言えん。言えんから余計に苦しゅうて」

あの頃、若菜は光の唯一のよすがだった。天からさしのべられた蜘蛛の糸。


「……別れるて言われた夜、バイト終わって彼女の部屋に飛んでったんや。びっくりされた」

『どうしたの？』
どうしたの。何もなかったみたいに。

「入るなり怒鳴った。なんでやって。俺とつきおうててなんで結婚するんやて。俺のこと一体なんやと思てるんやて」
光の激情に晒されても、小首を傾げた彼女は困った顔をするだけ。

『好きよ。光はとっても可愛いしかっこいいし大好きだけど。結婚もしたいんだもの』

「俺としよて。俺と結婚してくれて。来年の春、駄目なら今すぐでも。高校やめてもええからて、なし崩しにプロポーズまでして」

若菜の表情は変わらなかった。整った小顔、眉毛。気に入らないのと鏡を見ながらつっついた小鼻も、ちいさな唇も大きな眼もどれだけ愛しただろう。光の泣き出さんばかりの訴えに、だがそれらの何一つ乱されることはなかった。

『結婚？　光と？　考えたこともなかったわ。まだ高校生だし』

蜘蛛の糸が切れる。
光はバイト先で使うペティナイフを握っていた。


「……ナイフ持って来たんも意識しとらんかった。手にしたんも夢中や。握りしめた両手がぶるぶる震えとった。ほんまアホやて今は思うけど、そんときは何も考えとらん。他に方法を思いつかん。脅しても無理矢理でもて。失くしたら自分はおしまいてわかっとったから。許さへんて。俺から離れるなんて許さへん、失くすくらいならいっそて」

一歩、二歩。歩み寄っていく光に、不思議なくらい若菜は表情を変えなかった。ナイフの切っ先をじっとみつめて、見入る。手を伸ばせば届く距離まで詰めると突然、彼女の方が踏み出して来た。

「ぎょっとしたわ。追い詰めたつもりがどんどんこっち来るから逆に追い詰められて、壁に背中ぶつけてもまだ来るんや。信じられんかった」

身動きとれなくなった光の、まだナイフを握りしめている手を若菜はつかんだ。

「やめえて叫んだ。ナイフ向けたんは失うんが怖かったからや。けど傷つけるんも殺すんも失くすのと同じやて、やっと悟った」

力だったら光の方が間違いなく強い。簡単に振り切れるはずがその時に限って若菜の手は万力のようだった。引き寄せようとする若菜と、逆らう光の間でナイフが空を切る。もみ合って体勢を崩し、もろともに倒れ込んで。

「あないに仰天したことあらへん。俺の手えはまっさらで傷ひとつないのに、彼女の手えが真っ赤になっとった。倒れた拍子に手のひらを一文字や。浅かったんが幸いやったけど」

驚愕で固まる光にひきかえ、若菜は痛くないのか不思議そうに自分の手を照明に透かして見る。絵の具のように流れてしたたる赤。反対の手の指先でひとすくいしたそれを。

「床にへたりこんどった俺の頬に、なすりつけよった」

血の臭いに息も止まりそうな光を見て若菜は笑った。あの、作り物みたいな笑顔で。

『私の血よ。怪我しちゃったけど、これで許してあげる。さよなら、光』
ガラガラと崩壊した何か。

「この女ひと　と俺は決してわかりあえんのやて。それだけはわかった」

血のあとも残さぬマネキンのように、過去も記憶もつるりと洗い流してしまうのだろう。言葉が違う。心が違う。異次元の宇宙人をかき口説いていたような、惨めさ。

「わかっとらんのは自分だけやった。アホや、笑えるわほんま。そう思うやろ、葵？」

自嘲に声を歪ませて聞いた光に、うつむいていた葵が顔をあげる。笑おうとしていた。一生懸命口角を持ち上げていたけれど、その眼は笑っていなかった。濡れた瞳が訴える。

笑わないでと。

ジョッキの残りをぐっと飲み干した光は、通りがかった店員に財布から取り出した五千円札を押しつけた。

「足りるやろ。釣りいらんから」

葵の手を引っ張って外へ出る。湿った暖かな店内から冷えた外気にさらされて立ち止まった。視界を埋め尽くすのは通り一杯に流れる車のヘッドライト。まぶしくて眼を細めながらも離さない、葵の手。


「……羽根もない。飛びとうもない。落ちるんがめっちゃ怖い。そやのになんで、一緒におりたいて思っとんやろ」

伝わってくる脈動に突き動かされる気持ちは、間違いなく現在形だ。

「なんで、もっぺん飛べるかもしれんて思うてしまうんやろな」

また一台通り過ぎるライト。ふたりの脇を行き過ぎる人。光が引き寄せても葵は逆らわなかった。抱きしめた彼女の耳元に擦れた声で囁く。

「なあ葵。　俺に羽根、つけてんか」


ようやく覚え始めた感触、量感のあるまっすぐな髪から舞った桜の香りが、ふわりと光の鼻孔をくすぐって消えた。