光に連れられてきた店は混んでいた。建物は新しいのにカウンターや椅子は年季が入ってみえる。案内された席は入って右隅、木製の低い机に隣り合わせだった。

相席あたりまえの雰囲気で、頼む店員も頼まれる客も抵抗なく譲り合って座る。ふたりの前はまだ空いていたが間違いなく埋まるだろうと予想できた。それもいいと葵は思った。肩をぶつけようにして座ることで生まれる親近感は悪くない。


モツと焼き鳥ともろきゅう。とりあえず頼んだそれらを前にジョッキのビールで乾杯する。ぐぐっと喉を通る瞬間がビールの醍醐味だ。思わず声が漏れそうになる。隣からは漏れている。

「っかー、うまっ」

苦笑いが出た。全く同感だが、一見イケメンの眼鏡男子にやられると、本人よりもこっちが人目を気にしてしまう。

「葵？　焼き鳥に一味と七味、どっちがええ」
「七味。……気にするだけ損ね」
「へ？」
「なんでもないわ。あちっ」

七味を点打った鶏肉は噛むとじゅっと肉汁をしみ出させた。熱い。うまい。冷たいビールとのとりあわせは最高だ。軽く汗ばむくらいの陽気にはさらに。忍び寄る夕闇からも遮断され、人いきれと料理の湯気が肌を暖める。

ボートの上での光の告白に、敢えて停めた思考もゆるゆる溶かされていく。


『殺したいくらい憎んどった』

内容とは裏腹に濁りのない言葉だった。受けるはずのショックがなかったのは澄んだ声のせいか、それとも過去形だったからか。

自分の胸に生じた感情の方が濁っていると感じた。明るい日差しや光のまなざしに似つかわしくなくて落ち着かなかった。

『……もう岸へ戻らない？』

待ち構えていた反応がなくて気が抜けたように、光は言われるままオールを握り岸へと漕ぎ付いた。公園をぶらつく間もここに着くまでもそのことには触れなかったのだが。


ビール、焼き鳥、揚げ物に焼酎、汗や体臭。居酒屋は匂いのカオスだ。カオスの中にいることで逆にみえてくるものもある。さっきの感情は嫉妬だと思い当たった。誰に対して？　葵は自問する。

『殺したいくらい憎んだ』 とは裏を返せば、 『殺したいくらい愛した』 ということだ。それほどに思われた元カノへの嫉妬なのか、それとも。


ジョッキを口にしながら横目にする、焼き鳥の串にかじりついた隣の男。似ても似つかぬ元カレを思い出した。

彼から別れを切り出された自分は驚き嘆いてすがったけれど最後は悲しみながらも諦めた。彼のことを 『殺したいくらい愛し』 てなかったのだろうか。がむしゃらに憎むほどには？

やっぱり嫉妬だと葵は認めた。憎むほど愛せなかった女が、『殺したいくらい』 愛していたと言い切る男に今、無性に猛烈に悔しいほど嫉妬している。

ぐいっとジョッキを呷った。流れ込んでくるビールの勢いに咽せた葵の背を光が叩く。
「なんや自分、大丈夫か」
大きな手のひらが背中に熱かった。咳き込んだ喉が痛む。尋ねたのは衝動に近かった。

「彼女の何を、憎んだの？」

こすれる肩。背に感じる腕。
十数センチの距離で重なる視線。

フレームに縁取られたレンズには一日の汚れが浮き、その下で見張った眼がすぐ伏せられた。後ろで店の引き戸がガラッと開く。新しい客と一緒に忍び込んだ冷気にひやりと首筋が震えた。



憎んだ。
憎んでいた。
憎んでいる。

過去形、過去完了形、現在形と並べてみて、今の気持ちに忠実なのはどれだろう。皿の上、キュウリに乗せられているもろみを箸でならしながら光は考えていた。

若菜の何をと問い、若菜を何故と問わぬところが葵の人間性だ。生い立ちや経験から学ぶ以前に備わっている性根、人を断じぬ思いやりと優しさが葵の根っこだ。昔の、たとえば十六の自分では見抜けなかったろう。

同じように十六の自分は若菜の根っこも見抜けなかった。勝手に優しさと思い込んでのぼせ上がり、結果としてひっくり返されてあわてふためき憎む。愚かだ。おまけに彼女に救われていたことも否めない。ふうと息を吐き唇を嘗める。


「正月に俺の家で親父の碑を見つけた時。理想の親を持つんは大変やて言うたやろ」
「……言ったかしら」
首を傾げる葵に、続く言葉をためらってためらって、光は押し出す。

「大当たり。大変やってん」
「何が？」
「親父は死んだけどおかんはそれが信じられんで。どんどんおかしぃなってな」
口を噤んだ葵の、眼だけが大きくなる。

「理想の夫婦やった。比翼ひよく　の鳥は、片方がもげたら片方も飛べんようなる。わかるか？」
「ええ」
光の手に細くて柔らかな手が重ねられる。痛ましげに、それでも示される理解。それだけでどうしてこうも楽になるのだろう。

「ひとり残されたんが認められんで。おかんは閉じてしもた」
「閉じる……」
「眠っとる時は親父の夢見て、起きたら親父を捜し回る。その繰り返しや」
「ずっと？」
「ほとんど寝てばっかりで起きるんは夜で。初めは歩き回るだけやったんがだんだん……ひどうなって」

言葉が途切れた。全てを話すのは難しい。十五年経とうと時が効かない傷もある。光は残りを端折った。

「元カノに会うたんはそんな頃や」

今度は光が葵の手を握る。ひっぱられるように見上げてくる眼。

「高校に入って始めた夜のバイトで、ＯＬになったばっかりの彼女に会うた。高一ん時や。どっかのドラマみたいやろ」
「そうね」

「美人のお嬢様やった。あっという間に惚れた。高望みてわかっとって、それでもつき合うて欲しいて言うた。ＯＫもろて夢や思うた。天にも昇るってあれやな。羽根がのうても飛べそうやった。飛んでたわ」

思い出す。
恋が消え果てても、あの瞬間、あの歓喜は誰にも奪えない。

「学校とおかんと妹の世話で毎日が手一杯で、それでも夜バイトに行かんと彼女に会えん。バイトに行けば会える。そのために生きとった。おかんの具合が悪うなるにつれて自分の時間はさらに減って、そしたら逆に心は家から離れて逃げた。一日中彼女のことだけ考えとった」


今思えば紛れもない逃避だけれど、生きてきた中で一番幸せだと思った時期だった。心に生えた羽根でどこまでも飛べた。

やがて地に叩きつけられるための飛翔だったとしても、