乙女だって知っている。恋人同士のことはそのふたりにしかわからない。片方だけ悪いってことはない、そう言われるだろうが乙女は言いたくないし、言わない。光のことがあるから。あれは１００パーセント若菜が悪いと乙女は決めている。決めつけている。だって傷ついたのは光だけだもの。苦しみ抜いたのは光だけだもの。

なのに突然現れた若菜。何もなかったようなつるりとした表情が信じられなかった。爪を立てて引き裂いてズタズタにしてやりたいと思う気持ちは、今の鉄と同じだろう。

喉の奥に湧いた苦いものを呷ったグラスで流す。クラッとしたのは気のせいにする。


「それからずっと、男つくんなくてさ」
「お姉さんが？」
「そんなことがあればそうなるよな。他にも色々あったし」
光と同じだ。吹っ切るのは時間がかかる。

「そしたらこないだ、久しぶりに連れてきた男が」
「連れてきた？」
「髪なんてサラサラで眼鏡がイヤミに似合って、おまけに営業トップで」

鉄の説明が作り上げていく男は心当たりがありすぎた。
「どう見ても優男で関西弁で。最初から気に食わなかったんだ俺は」

乙女の嫌いな関西弁が兄を特定する決めてだなんて忌々しいったらありゃしない。ムシャクシャしてソーダ割りをゴクゴクと飲んだ。カッと喉が焼ける。聞かされた事実が心に痛かった。

あの兄が本気で誰かとつき合っている。むしろ喜ぶべきことだ。でも乙女は筋金入りのブラコンだから簡単には喜べないし、嫉妬と心配が先に立つ。どんなに素敵な人だって光に十分とは思えない。この、ガタイばかり大きな子どもっぽい、でも嘘は言わなさそうな男がほめあげる女性であっても。ああむかつく。


「そしたら案の定でさ。むかつくったらねえよ」
「……何が？」
胃の辺りがくるくると回る。熱くてふわふわしている。
「その野郎、二股かけてやがった」

熱かった胃の辺りにズシンと重く苦いものが落ちてきた。思わず見上げたが鉄は相変わらずグラスに焼酎を注いでいる。すでに一本空だというのに顔色がまるで変わらないのが憎らしい。違う、今聞くべきなのは。

「ふたまたってどういう」
なんだかろれつが回らなくてもどかしい。
「葵じゃない女と連れ立ってるのを見たんだよ」
「まさか」

「俺の目の前を通ったんだぜ」
「ただの知り合いとか同僚とか」
「知り合いとか同僚が腕にぶら下がらんばかりにして歩くか？」
信じられない。ほんとに光のことだろうか。

「そりゃ上等そうな女だったさ。肩でくるんと巻いた髪とか高そうなワンピースとか、絶対ブランド物のバッグとか、どっかの若奥様みてえな」

若菜の顔が浮かんだ。光が若菜と？　まさか。あり得ない。今までの何倍もカーッと頭に血が上った。がたんと立ち上がる。
「うそよ！　そんなのあるわけない！」

ざわざわと周囲がざわめく。鉄は座ったままにらみあげてくる。
「なにが。なんで嘘なんだよ」
「全部。口から出任せでしょ二股なんて」
「知りもしねえくせになんであんたが。あいつはいいかげんなろくでなしなんだよ」

愛する兄を罵倒されて乙女の気持ちは一気にヒートアップした。こんなこと言うなんて許せない。

「嘘つき！　大嘘よ！　光がそんなことするわけないわっ」

興奮して叫んだとたん、胸から喉へぐぐっと吐き気が突き上げてきた。まずい。口を押さえた乙女の、肩を鉄ががしっとつかむ。凄い目つき。

「……どういうことだよ」
「は、なして」
「光だ？　なんであんたがあいつの名前知って」
「離してよっ」
どんどん強まる吐き気にうろたえた乙女は、強引に鉄の手を振り払うとトイレへ再びかけこんだ。

個室の飛び込んだのと、こみあげてくる吐き気に支配されたのはほぼ同時。便器にしがみついて嘔吐するなんて初めてだ。情けないのは吐いていることか、そこまで飲んでわめいて醜態をさらした自分のことか。きっとどっちもだ。

繰り返し襲う吐き気に涙が流れて落ちる。息が苦しい。鼻をつく酸っぱい匂い。口の中が胃液で苦い。もう嫌、何もかも嫌。

トイレットペーパーで口をぬぐい捨て、もう片方の手がバッグを探る。携帯を探り当てた。液晶が時刻を光らせる。平日だけどいるだろうか。お願い。今、来て欲しいのは一人だけだった。



尾田に説教されるなんぞ末代までの恥だ。鉄の苦々しい顔は女の子達を遠巻きにさせている。合コンでしかも女の子相手に怒鳴り散らすなど言語道断と諭された上、他の連中からも非難の目でみられてすっかりヘソをまげた。

大体、ケンカ売ってきたのはどう考えてもあっちじゃねえか。葵のことばかり聞いて、聞かれたからしゃべってたのにいきなり怒り出して。わけわかんねえ、なんだあの女。

このままですむと思うなよ。「光」と言ったからには奴を知ってるに違いない。どういう関係か聞き出してやる。尾田が何を言おうと知ったことか。とりあえず表面だけは大人しく座りながらちらちらトイレの方を見ていた鉄だが、乙女は一向に戻ってくる気配がない。


「尾田さぁん」
別の女の子の声が聞こえた。
「乙女、具合が悪いから先に帰るって。お代あたしが立て替えますから」

「いーよいーよ。却って悪かったよね。女の子の分は全部おごるからさ、乙女ちゃんの分も。気にしないで」
「いいんですかぁ？」
前半分聞いただけで鉄は立ち上がっていた。スタスタと歩きだす。

「おい鉄」
「トイレ」
「ホントかよおい」
尾田の声は無視したが、店から出て行く彼女をみつけると方向転換、後を追った。逃げられると思うなよ。


飲んでいた店は無国籍と言いながらもイタリアンをメインにしていた。そのせいか外見もイタリアンカラーだ。白い壁に青く塗られた窓枠、せり出した庇ひさし　は赤。

店から出た左側、一面その色合いの中で雑誌のポスターみたいにぽつんと彼女は座り込んでいた。日頃あまり飲まないのだろう、ひどく具合が悪そうだが、思いやる気が起きないくらい鉄は怒っていた。足音も荒くその前に立つ。
「話は終わってねえぞ」

のろのろと見上げてきた顔は青ざめていた。いかにも酔って吐きました、そんな顔を可哀想と思わせないのは眼力。眼だけは意地を孕んで鉄を睨みあげてくる。

「おかしいと思ったんだ。葵の話ばっか聞いてきて」
大きく上下している肩。息づかいが荒いのにはずさない視線。

「名前知ってんだよな？　なんでだ。あんたもあいつの女か？」
疑いを口にした鉄はさらに気が重くなった。相手は眼を見開いている。

「やっぱりそうなんだろ。ちくしょうあのろくでなし。葵のことも遊んでたんだな、とっかえひっかえ…っってええ！」

突然思いっきりむこうずねを蹴られて、鉄は地面に転がった。弁慶の泣き所とはよく言ったもので、力任せに蹴られて声も出ない。みっともないわめき声を堪えるのが精一杯だ。さっきまでとは形勢逆転、今度は鉄が乙女を見上げる形になる。

怒鳴りつけようとして驚いた。彼女の眼からこぼれんばかりの涙。立ち上がろうともせずに蹴ってくる。よけたら怒鳴る。

「ばか！　ばかばかばか！　光をそんな風に言わないで！　知りもしないで、光がどんなに優しいか知りもしないでっ！」
「お、おい」
「あなただって怒るでしょう？　あたしがお姉さんのことを貶けな　したら怒るでしょうが！」

「あ、あたりまえだろ。葵は」
「だったらあたしだって怒る権利あるわよ！　言ったわよね、自慢の兄だって！」
「……兄。兄って、あにき？　え？」
思いもかけない展開で驚きの余り鉄は声も出ない。

「光はね、父さんが死んでからずーっとあたしの面倒みてくれたんだからっ。ご飯もお風呂も寝るのも幼稚園行くのも全部、光とお姉ちゃんがみてくれたんだからっ」

泣きながら拳まで振り上げ鉄をぽかぽか叩いてくる乙女。攻撃そのものに大したダメージはないが、彼女の言葉の方が鉄にはショックだ。
「父ちゃん、死んだのか」

「母さんもずっと具合悪くて、全部光がみてくれたのよっ。それでも成績は落とさなかった。たくさん辛いことあったのに黙ってた。光は凄いんだからっ。ほんとに凄いんだから！」
「待てって、おい」

「知らないくせに！　なんにも知らないくせにっ！　なんであんたにそんな風に言われなきゃならないのよーっ」
悲鳴に近くなった乙女の声を、遮ったのは。


「乙女か？　何やっとんや、人を呼びつけてこないなとこで」

ひっとしゃくり上げた乙女が振り返るので、つられて鉄も声の方を見遣って、眼を疑った。なんであいつが？　二人の喧嘩の原因、話題の当人である光が大慌てで駆けてくる。

私服は初めてみるなとぼんやり思った。綿シャツにジーンズ、ジャケットをひっかけてごくラフな格好なのに。なんでああ、決まってるんだか。だから憎たらしいんだ。

「ひっ、かりぃいいいー」
「お、おい、泣くなよ、おい」
鉄の驚きのとどめは乙女の号泣だった。あわてふためく間に光が走り寄る。

「乙女？　ああなんやもう、すーっかりできあがっとんな、たいして飲めもせんのに」
膝をついた光の首っ玉に乙女がかじりつく様子を、鉄はあぜんとして見守った。さっきまできゃんきゃん手のつけられない猫みたいに荒れ狂っていたのが嘘のようだ。

ひんひんと泣きながら聞き取れぬ声でしゃべることに、いちいちうなずいてあやす光がまた意外だった。どこかで聞いたような、ああそうだ。昔、葵がよく似た調子で泣きぐずる自分をあやしていたっけ。

こっちを向いた光がたじろいだ。鉄に気づいてなかったらしい。
「次男坊やん、なんでここに。乙女と知り合いなんか？」
「ち、うわよっ、こん、なのし、りあいな、んかじゃないもっ」

「あー、はいはい泣くなてもうかなわんわ」
「ひ、っかりぃ、かえ、るー」
「どないもならんなこの姫は」
すっかり諦めた顔の光がかじりついていた乙女の腕をはがす。

「ほら、おんぶ」
「っく、だっ、こがい、い」
「あほ。贅沢言わんとき。車まで結構あるんや」
「くる、まぁ？」
「おかんに借りてきた。駐禁食らう前にはよ」
「う、ん」
半泣きしぶしぶで乙女が背に乗ると、あっさり立ち上がった光は鉄に困ったような顔で笑った。

「かんにんな、なんや迷惑かけたみたいで」
「……俺のことなんかいい。あんた、葵をどうするつもりだ」
かみつく鉄に、光が困ったように眉尻を下げる。

「ああ、見られたんやてな。天網恢々てんもうかいかい　や」
「てんもう？　かいかい？　テレビＣＭとか？」
なんのことだか鉄にはちんぷんかんぶんだ。

「そやのうて……とにかく。葵とはちゃんと話すから」
問い詰めようと思っていたのに、その気が失せたのは何故だったのか。

「俺、あんたのことまだ信用してないぜ」
「わかっとる」
「でも。もしかしたら」
「ん？」
首を傾げた光に鉄はぼそっと言った。
「あんたと葵は、似てるのかもな」

意外そうに見開いた眼鏡の奥と、肩越しのもう眠りこけている彼女を鉄は見る。結局わかったことなど何もない。それでも光に対する敵意は少し、和らいだように思う。

「妹。威勢いいな」
「甘えん坊で困るわ」
「兄ちゃん思いだ」
「そやろか」
片眉だけあげた鉄はきびすを返した。

「早くいけよ。駐禁くらうぞ」
「鉄くん？」
「うわ。あんたに君づけされたら寒気する。呼び捨てでいい」
「……おおきに。ほなまた」

戻ってきた店の前は合コンの連中がたまっていた。尾田が意味ありげな顔で聞いてくる。
「なんだったんだよ」
「さあな。もう終わりか」
「二次会だ。行くだろ？」
「へ？」

ぐいと鉄の首根っこをホールドして尾田が笑う。
「行くよなあ？　荒らしただけで金も払わずつきあわずに逃げようなんて、考えてないよなあ、鉄？」
全てを忘れていた自分を呪いつつ、諦める。

「……お伴さして頂きます」
「よっしゃ、行くぞー」
「「「おー」」」
「「「きゃーっ」」」

げっそりした鉄を幾重にも取り巻いて、合コンの波は護送軍団のごとく動き出した。肩越しに振り返った鉄の眼に映る後ろ姿。背負われた乙女の長い髪が、ゆらゆらと気持ちよさそうに揺れていた。