心の裏を読むとよく言うけれど、鉄には出来たためしがない。気に入らない相手に愛想をふりまいたことはないし、喧嘩は正面切って売ってきた。思ったことがそのまま出る顔は、好き嫌いについては特に露骨だとよく友達にからかわれる。

『鉄は営業なんて不可能だな』

全く持ってそのとおり。小さい頃から隠し事はどうやってもまず銀に、それから葵に白状させられていた。

鋼も同じでよく言えば真正直、悪く言うと頑固一徹。それでも仕事に関しては年の功、愛想なくとも腕で押し通したし、言われ放題の鉄だって裏は読めなくとも野生の勘とでも言うべき何かがあって、悪意を持つ相手はなんとなくわかるものだった。

その勘が今、黄色信号を点滅させている。


乙女と呼ばれた娘は険悪な顔つきで睨んでいたくせに、急に愛想だけ良くなって人の話を聞きたがった。それも葵のことを。ふんふんと身を乗り出してくるのでこっちもつられて話してしまうが、時折投げてくるまなざしは好意というより敵意だ。どういうことだろう。

「すごいのねお姉さん。中高と成績トップクラスだったんだ」
「おうよ。シャカリキになって勉強してたわけじゃねえのにさ。スポーツだって得意で」

相手が気になる一方で、記憶から飛び出してくるたくさんの葵に鉄はにやにやと笑みが浮かぶ。

ポニーテールにした長い髪を靡かせてゴールテープを切る、あれは高校の体育祭だ。応援に行ったら葵のクラスメートに散々もみくちゃにされたっけ。やっぱり高校の文化祭では裏方ばかりの葵だったが、皆に頼られてきぱきともめ事を解決していく様子が誇らしかった。

朝は誰よりも早起きして湯気の立つ朝食を用意してくれる。夜は家のことを片付けながら銀や自分の宿題を見てくれる。父が飲みに出かけると帰るまで待って寝かしつける。銀と兄弟げんかしては叱られたが、父の激高からはふたりを必死で庇ってくれた。

ふと思う。学校では気が強くて相手をやり込めるくらいだったのに、家ではずいぶんおとなしかったな。葵に変わりないけれど。

姉は何でも出来ると思っていた。いや思っている。大人になったつもりでも、鉄の一番幼くて素直な部分が今も葵をあがめ奉っている。自分という人間の大本が葵に根ざしているのだから、当たり前だよなと妙に開き直ってしまった。


「美人で頭良くてスポーツ万能って身びいきもいいとこね。できすぎじゃない？」
「嘘なんぞつかねえよ。葵みたいにいい女はいねえ」

間違いないと確信してる。なのに直哉と来たら。あの電球野郎だって。嫌なことは思い出すまいと、鉄は意識を目の前の相手に集中させた。言い切られて鼻白んだ乙女は何か言いたそうにしている。ためらって口を尖らせた印象は年相応か。二十歳だっけ。俺もガキだがもっと若い。

「いいぜ馬鹿にしても。欲目とかシスコンとか言えば？」
「言ってないでしょ……マジなんだ」
「おうよ。葵はあれだ、美人のできる女をなんとかっていうだろ、四字熟語で。えーっと」

すぐ出てこなくて考えこんだ。呆れたように注がれる視線よりも頭で引っかかっている言葉を引っ張り出すことに真剣だ。元々語彙ごい　は多くないし頭も悪い。出てくるものといったらどこかで聞いた、脈絡のないものばかり。

「三百代言さんびゃくだいげん　」
「……時代劇じゃあるまいし」
「三面六臂さんめんろっぴ　」
「阿修羅像？　拝むわけ？」
「三寒四温」
「気温？　あのねお姉さんのことでしょうが」

間髪入れぬ見事な受け答えは漫才かコントだ。ポンポンと飛び出す威勢の良さは江戸っ子も、鉄も顔負け。

「どうして三にこだわってるのよ。そういうのは」
「あー黙れ。わかってるって。三じゃなくて、さか？　さけ？」
言われてしまうのは業腹ごうはら　だった。相手はいらついてきたようだが、鉄は脳みそを絞るのに忙しい。通信簿で国語は２以上とったことがないんだよな今更だけど。この辺まで出てんのに。喉の奥。四字熟語四字熟語。お？

「そっか。最初は’さい’だろ」
疲れた感じでうなずく彼女。
「最後が’び’で」
「そうそれ」
「よっしゃ今度こそ」
「ファイナルアンサー？」

彼女の期待がびんびん伝わって気勢が上がる。拳を握って鉄は叫んだ。
「’最新設備’だ！」
何とも言えない顔をした乙女は立ち上がるなり怒鳴った。

「なんですって！　お姉さんてキッチン？　ロボットなの？」
「へ？」
「なんで設備よ設備。それも最新って、IH？　IT？」
「最強装備？」
ぶちっと、何かが千切れる音が聞こえた。

「このお馬鹿！　’才色兼備’でしょうが！」
「それだ」
「それじゃないぃいいいーっ！」

乙女の絶叫と同時にドッと爆笑が湧き上がった。驚いたのは鉄も同じだ。いつのまにか集まった全員が笑い転げている。

「な、な、なんで」
「おっもしれえー。乙女ちゃんてこんなキャラだったわけ？　鉄をボケに突っ込みだって」
「乙女ったらどうしたのー？　マシンガンじゃん」
「はっ、腹いてえっ」
「ちがうの、これは」

気の毒なほどの乙女の狼狽うろた　えように鉄まで笑いだしてしまった。睨まれながらも思う。笑ったのは久しぶりだ。脳天気で何かというと笑ってばかりの鉄が、このところ何を見ても聞いても笑えなかったのに。

彼女のせいで？　違う。
真っ赤になってオロオロしている彼女の、おかげで。

「あの、あたし、トイレに」
鉄にまで笑われて耐えられなくなったのか、バッグをひっつかんだ乙女はあわてて席を立った。目の前から彼女が消えたとたん鉄を襲ったのは、奇妙な喪失感だった。





飛び込んだトイレには幸い、誰もいなかった。乙女の全身を震わせているのは恥ずかしさと怒りだ。

唇で爪をかじりながらウロウロとあたりを見回したが、どうしようもなく湧き上がってくる衝動に負けた。手に持っていたバッグを、遠心力に任せブンと振って二つある個室の扉にぶつける。もう一度。もう一度。

「あーっ腹立つー！　あたしのばっかやろーっ！」


こんなところで癇癪なんてと理性は諭すが、とにかくこの気持ちを発散させねば何も考えられない。だって。５年かけて作り上げたモデルとしての自分のイメージが、わずか数分でガラガラ音をたてて崩れ落ちたのだ。あの男のせいで。

とどめとぶつけたバッグが短い反響を残して、小さなトイレは静かになった。肩で息するほどに興奮していた乙女の頭にもじわりと静けさが忍び込んでくる。ふりむくと並んだ鏡に自分が映っていた。まさしく自分だ。クールでキュートなモデルじゃない、短気で癇癪持ちの相変わらず幼い自分。

「あぁもう」

がっくり肩を落として鏡の前の洗面台に両腕ですがった。動悸は鎮まっても自分で自分を罵ののし　る脳内の声は一向に止まない。何やってるの。衆目の中、あんな奴と漫才を繰り広げるなんて。正気の沙汰じゃないわ。


目的どおりだった。水を向けるだけで嬉しげにいくらでもしゃべってくれた彼。姉が、葵って人がいかに綺麗で頭がいいか、人望があって機転が利くか、優しくて思いやりがあるかを。

普通大人になれば、家族のことを他人に自慢したりしない。形だけでも控えめに、時にはけなすぐらいが常識だろうにそんなふりは欠片もみせなかった。褒めて褒めて褒め称えるあの顔、あの眼はまるで。

顔を上げた乙女は鏡の中の自分にじっと見入る。そうまるで、光のことを話す自分みたいだと思った。聞けば聞くほどそんな気がして。どうしてもそんな気がして。

わかってしまう。あんな風に語るのは、姉を心から大事に思っているからだ。頭に来る男だけれど認めよう。でも、だからって彼の姉さんが、葵って人が善人とは限らないわ。


鏡の手前にバッグを置いて、乙女は長Ｔシャツの袖をたぐりあげると、蛇口に手を差し出した。自動で勢いよく流れ出す水。泡立つそれを両手ですくって顔を洗う。

最近のメイクはちょっと濡れるくらいでは落ちないし、仕事の後だからいつもより念入りなのも助かる。タオルハンカチとティッシュで水気をとり化粧ポーチを取り出しながら、乙女は改めて鏡の自分に言い聞かせた。

本題はこれからよ。葵って人の本性を知るの。いい？　やるのよ。これは光のためなんだから。

静かなトイレの向こうから聞こえる宴席の賑やかさ。扉一つ隔てたそれらはいわば鏡に映し合ったようなものだ。自分と彼みたいに？　訳もなく浮かんだ考えにルージュを引く手が震える。再びの腹立たしさを抑えられない乙女だった。