身体がだるい。頭が痛い。おまけにおなかが空いた。
三重苦の少女じゃあるまいし。

モデル仲間に笑って合図しながらも、乙女は内心ひどくご機嫌斜めだった。朝から撮影でこの時間になるのは珍しいことではないが、体調が悪くて空腹ときてはどうしようもない。

合コンなんて来たくなかったが、仕事には才能と同じくらい、時には才能よりもコミュニケーションがとれるかが重要視される。この道で将来もやっていくつもりはないが、だからといっていい加減な仕事はしたくないし、スタッフや周囲との関係は円滑にありたい。愛想なしのレッテルをはられるのも問題だ。

乙女がモデルを始める時、自分に課したことがあった。大人になる。甘えん坊で末っ子の素顔を封じて大人の女性になること。キャリア５年、ファッション雑誌の「乙女」のイメージはちょっと背伸びしたキュート＆クール。自分で作り上げた別人格だ。仲間からも仕事相手からもそんな娘だと思われているし、仕事もうまくいってるから、なおさら周囲との協調は大事だった。


カメラアシスタントの尾田とは撮影で顔見知りになった。人当たりが良くてモデルをリラックスさせるのもうまい。幾度か誘われたものの、都合があわなかったり気乗りしなかったりで断り続けてきた。たび重なると一度くらいはと社会人的発想にせっつかされる。たまたま同じ事務所のモデル達と一緒に誘われたので、この際義理を果たそうと決めた。


なのに来るなり、見知らぬ男から品定めの目つきを向けられるなんて。幸先悪いったらない。見られることは女として嬉しいしモデルだから半分は仕事と思って割り切っているが。

以前、飲み会で酔った男友達に言われた本音。
『気になる女を見たら脳内で裸にしちゃうんだよな男って』
まさにそんな目で見られていつもの自分なら怒鳴ってる。でも堪えなくては。モデルの「乙女」はそんな直情タイプじゃない。第一絡まれても困るしそんなことになったら自分が切れてしまいそうだ。尾田に声をかけられてホッとした。


「よかった、来てくれて」
「すみません遅くなっちゃった」
「いいって。座ってこっち。腹へってるだろ？　食べて食べて」

テーブル端の自分の隣に乙女を座らせた尾田は、あれこれ気を遣って料理を並べてくれた。確かに食べるのが先決だ。空きっ腹に飲むのは胃に悪いし悪酔いする。大体、自分はあまり酒に強くないし体調も悪い。明日は仕事はオフだが明後日はまた撮影、体調管理のためにも自衛のためにも食べなくては。


乙女の判断は正しかったが問題もあった。元々器用じゃない上に融通もきかず、ひとつことを始めるとそれだけで手一杯目一杯になる性格。加えて「健啖家けんたんか　」なところ。源家は国文学研究者だった父の影響が残っていて難しい言葉を普通に使う。今時こんな表現をしてもわかってもらえないのに、口をついては問い返され苦笑する。

『ケンタンカ、って……歌？』
『ううん。大食いのことよ』
『ああなるほど。乙女って見かけによらず食べるもんねえ』
友人は誰もがうなずいた上、異口同音に付け加えもする。
『どこに入ってるんだか』

家族そろってあまり太らない体質で食べることに熱心だ。小学生になるや台所に立たされ料理をさせられたからかもしれない。スナイパーでテロリストの母のおかげでそうせざるを得なかったのだが。

作って食べて片付けることは家族全員に分担される仕事のひとつで、どうせなら美味しく作って美味しく食べて綺麗に片付けよう、そんな食への姿勢が全員に叩き込まれている。出されたものはきれいに平らげるのもそのひとつで黙りがちになる上、今夜みたいな体調不良や空腹だとなお口数は減って愛想も忘れてしまう。

「乙女ちゃーん、久しぶり」
「ご無沙汰してます」
「雑誌のまんまだー」
「そうですか？」
「ねえいくつだっけ」
「二十歳です」

遅れて加わったので逆に目立ったのか、座ったとたんにあちこちから声をかけられた乙女だが、短い返事のみで食べることに集中したせいですぐ声はなくなってしまった。つきあいを重視して来たはずが失敗したかな。まあいいや。

とりあえず欠席しなかったことで義理は果たしているしと、乙女は気にするのをやめた。せっせと食べては、氷もとけきって薄そうなウーロンハイを水代わりに含んで一息つく。

「ふう」
「……すげぇ食欲」

はっとしたのは正面にあの無遠慮男が座っていたから。OH MY GOD！　英語が得意なわけでもないのに横文字が浮かんだ。疲れて思考が逃避気味かしら。それにしてもこの男、どこかで見たような気がする。

どこで？


「今日来てるのはモデル事務所の子って聞いてるけど。みんなそんなに食べるわけ？」

呆れた男だと思った。女の子に、それもモデル相手に。デリカシーってないの？　ないわねと即座に断じた。太い眉毛とでかい口のどこから見ても日本男児ってタイプだ。デリカシーなんて言葉も知るまい。イケメンなら許されると思ってるんだろうか。大人の男とも見えない風貌をねめつけながら、我慢我慢と声音を抑える。

「おなかがすいたら食べるでしょう？　人間なんだから」
「モデルってダイエットばっかしてんのかと思った。大体腹減らないだろ。ニコニコ笑ってるだけじゃ」
「今朝は６時にスタジオ入りしたの」

瞬きもせずに相手を見据えた。相手はなんのことだという表情。少しぐらい言ってやらなきゃ。

「それから夜まで昼食休憩が１時間だけ。あとはずーっとポージング」
「ポージング？」
「カメラの前でポーズをとるのよ。カメラマンの要求に従って次々と。たちっぱなし」

「たちっぱなしか」
「約１２時間。ずっとニコニコ立ってりゃいいのよ。楽な仕事でしょ」
少しは恥ずかしげな顔をするかと思ったが、乙女のきついまなざしをさらりと受け流す。

「１２時間ね。女にはきついだろう」
むかっときて、それから悟った。
「……雑誌関係の人じゃないわね」

編集やカメラ関係が集まると聞いたからって、気づかない方がどうかしていた。肩幅が広すぎるし腕が太すぎるし背が高すぎるし、それはそれとしても放たれている印象が周りと違いすぎだ。警戒心が湧き上がる。
「あなた、何者」

答える前に割り込んできたのは尾田だった。
「鉄か。乙女ちゃんに手出すなよ」
「有次、合コンでいう台詞かよ」
「乙女ちゃんはまじめなの。無理言うなってこと」

乙女の方が驚いた。尾田にこんな風に言ってもらえようとは、努力の甲斐があるというものだ。
「おまえに言われたくないねー」
やけに打ち解けた会話だ。乙女の顔から疑問を読み取ったのか、尾田が笑って鉄と呼ぶ男の肩を抱いた。

「こいつ、日高　鉄って言って高校からの悪友なんだ。しっかり社会人してるし良い奴だけど、女好きだから気をつけて」
「だからおまえに言われたくねえって」
「でも年上が好みだったよな」
「……大人の女がな」

苦虫をかみつぶしたような顔。図星を指されたってことか。なら自分は好みの範疇じゃないはずだ。喜ぶべきだろうになんだか侮辱されたような気分がした。大人じゃないと否定されたようで。


五人姉弟の末っ子はどう頑張っても姉や兄を追い越せない。追い越したいわけじゃなくて、頼りにしてもらえないのが悲しい。ずっと、何も判らずに守られていたのを知ってから、乙女は早く大人になりたいと思い詰めた。

幼かった自分を守ってもらったことには心から感謝しているけれど。守られるだけで、あれだけそばにいたのに何もしてあげられなかったという事実が、無力感とともに乙女を苦しめた。モデルにと誘われて承諾したのは、働くことで大人になれるんじゃないかと期待したからだ。もう５年。少しは成長したつもりだったのに。

いくつになれば大人よ。こんな傍若無人な男にまで、年下ってだけで馬鹿にされるなんて腹立たしいことこの上ない。年齢だけなの？　それじゃいつになっても自分は大事な人を、光を、守れないってこと？　あの日、ただ見ているだけだったみたいに？　光がつき合う女性と自分の一体どこが違うって言うんだろう。ただ美人で年上なだけじゃないの。正月に来たあの人だって……あ？

ひっかかっていた何かが解けた。向かいでまだぐしゃぐしゃと言い合いしている、片方の顔をじっとみつめる。日高　鉄。お正月に光が連れてきた人、初音が教えてくれた名前も「日高」だったはず。よくある名前だし普通に考えればただの偶然。でも。

乙女は人の顔を覚えるのがうまい。骨格と眉、眼、鼻、口の位置でとらえることができるのだ。記憶にある彼女とこの男の顔がどうしても重なる。似てる？

もしかしたら。
もしそうなら。


「年上が好みなんですか」
不意にかけられた声に、ふたりがきょとんとこちらを見た。乙女は日高と呼ばれた男に作り笑いを浮かべて聞く。
「もしかして上にお姉さんがいたりするんじゃないですか？」

いぶかしげに細められていた眼がぱっと大きく驚きに見開いた。
「なんで」
かぶせるように尾田が叫ぶ。
「びーんご！　乙女ちゃん勘いいね。すっごい美人の姉ちゃんがいるんだよ。５つ？　６つ上だっけ？　葵って……おい、いてえだろ！」
反射的にはたかれて尾田が頭をさする。

「気安く呼び捨てするな、ボケ！」
「ああもう。姉ちゃん大事は相変わらずだなおまえ」
「るせえ」

揉めるふたりを前に確信する。間違いない。
あの人の弟だ。

ごくりと乙女は唾を飲み込んだ。このチャンスを逃す手はない。光にとって厄介ごとはあの、若菜ひとりで十二分だ。葵って人がどんな女性か、どんなつもりなのか、聞き出して確かめてやる。


「美人なんだ。どんなお姉さん？」

騒がしい居酒屋の店内。止まない頭痛も忘れ、拳を握りしめた乙女の眼は獲物を狙うように爛々と輝きを増した。