人の心は下町の路地に似ている。

よく知っているつもりでも知らない道に出会う。細く入り組んで先が読めなかったり、選んだ道が行き止まりだったり、近道と思ったら見たことのない場所に出て途方に暮れたりする。あの頃の自分のように。

振り返っても何が最初だったのかはっきりとは思い当たらない。突然立ちはだかったように思えた壁も、少しずつ積み重なった小さな違和感の結果だったのだ。今にして思えば。


たとえば高校二年の終わり。休日に直哉がひどくふさぎ込んでいたことがあった。父親と喧嘩したらしい。
「うちみたいなところは結局下請けなんだよ」

珍しく荒い口調であらぬ方向をにらむと、手に持っていた新聞を本棚に投げつけた。落ちてきた雑誌を葵が拾い集めると古びた歴史や遺跡の本だ。昔、直哉が好きだったのだろうか。幼なじみの婚約者でありながら彼は、知らない部分も多い男性だった。

「都合が悪いとこから押しつけてきて、いざとなると知らん顔で尻ぬぐいさせられて。そんなことばかりだ」

バブルのあと景気は激しく落ち込んだ。その影響は小さな下町の工務店にまで、いや下町だからこそ響く。どこも苦しいのは直哉も社会人だからわかるだろうに、常にない様子が葵を困惑させた。

「直ちゃん」
「僕は嫌だ。どうせなら奪い取られる側でなく奪い取る側に立つ。必ず」

決意は何を、誰に向けたものだったのか。

少しずつ四つ木の借金が膨らんでいたことなど葵にわかるはずもなかったが、慰めも求められず詳しく話してももらえないのが悲しかった。ほんとうに直哉が家業を継ぐのかどうか、微かに芽生えた疑いを葵は幾度も打ち消したものだ。


一方で高校三年になった葵に、就職先として自分の会社はどうかと声をかけてくれたのも直哉だ。

名の通った住宅メーカーは大卒で成績優秀だった彼ならともかく、自分が入れるとは考えもしなかったところだ。葵の秘書志望を知っていたからだろう、社内に新しく秘書課ができると聞いて人事部に口を利いてくれた。お陰で葵は試験を受けられることになったのだ。

直哉と同じ会社で働けるなんて葵にすれば、眼前に人参をぶら下げられた馬同然。無事採用された時は飛び上がって喜んだ。あらゆる点で望みどおりの理想の職場。ただひとつ、試験で不利になりかねないからと婚約を伏せたのが、納得の上とはいえ寂しかった。


そんな葵に卒業と就職の祝いとして直哉はネックレスを贈ってくれた。一粒パールの周囲を小さなダイヤで囲むデザインはとても洒落ていて、見るなり葵は声を上げた。

「素敵」
「気に入った？」
「すごく。こんなに高そうなのほんとにいいの？」
「もちろん」
嬉しくてはしゃぐ葵に眼を細める直哉。

「センスいいのね、直ちゃん」
「手伝ってもらったんだ」
「店員さんに？」
鏡の前で首に廻した指先、爪で金具をひっかけていた葵だったが。

「後輩にね、頼んで」

爪が金具をはじいて留められなくなった。妙に高くなりそうな声を必死で抑える。
「後輩って……女の人？」
「僕が選ぶよりよさそうだったから」
「ふ、うん」

言うことをきかない指に眉を寄せていると、直哉が手を貸してくれた。首筋をなでる彼の指。後ろから満足げに葵の肩を抱いて、鏡の中から彼が微笑んだ。
「よく似合う。礼を言っておかないとな」

誰に？　尋ねる言葉は屈託のない笑顔を見て口の中で消え果てた。自分が気にしすぎてるだけ。そう思おうとした葵だけれど。


勤め先では見かけるのにふたりで会える回数が減っていくとか、姿をみるだけで女子社員が皆騒ぐとか。一緒に女子社員の名前が噂に上ったりもした。平行して、激しくなる四つ木家の親子喧嘩にご近所が首を傾げるようになる。

些細なことのひとつひとつが、割れたガラスのような鋭さで葵の心を削った。必死で保った平静の甲斐もなく、支えきれず落ちる床のように事態は突然崩れ落ちた。



珍しく会社帰りに直哉と待ち合わせた。忙しいとしばらく会社以外では顔をあわせていなかったので、終業時間になるや葵は洗面所に飛び込んだ。口紅を明るいパール入りのに変え、ネックレスをつける。仕事の時は上げてまとめてある髪も下ろした。

直哉は長い髪が好きで、葵を抱きながら毛先をもてあそぶのがくせだった。浮かんだ光景に頬が染まる。今夜は時間があるだろうか。前に抱かれてからもう二月になる。彼が変えた身体が彼に焦がれている。


おまけに、このところ直哉の噂は以前に増して多かった。近く昇進するとか縁談だとか栄転だとか。どれも確たる拠り所はないが、葵と直哉の関係を知る者はいないし、噂はところ構わず容赦なく耳に入る。葵にすればやっぱり心穏やかではなく、不安や寂しさを彼に鎮めて欲しかった。

直哉はいつまでここに勤めるのだろう。このところ忠治とも揉めてばかりだが、なんと言っても親子で跡取りだ。どれだけ喧嘩しようとも最後は大丈夫。自分の経験からもそう思っていたし判っているつもりだった。信じようとしていた。とはいえ削られた心はざらざらと引っかかる。

知らぬふりで葵は待ち合わせたレストランに急いだ。


「久しぶりだね」

いつもと変わらぬ笑み、穏やかな直哉に安堵した。美味しい食事もデザートを残すのみ。ふたりでどこかに寄る時間はあるかしら。ワインに少し酔ったかもしれない。ふわふわと幸せな時間を楽しむ、そこで。

降ってきたのは。


「葵」
「なあに、直ちゃん」
小首を傾げてにっこり返すと、眼を細めた彼がまるで棘が刺さったみたいに顔を歪めた。どうしたんだろう。お腹でも痛いとか？　どこか具合が悪い？　思考に気持ちがついていかない。ぼんやりと葵は繰り返す。

「直ちゃん？」
「……結婚を」
「え？」
「僕たちの結婚を、白紙に戻してくれないか」


胸に、鉄球をくらったような衝撃だった。