葵と直哉の関係は、「許嫁いいなずけ　」になっても変わらなかった。婚約当初、葵はまだ中学三年生だったし、おまけに下町はどこへいっても人目がある上、どちらも忙しくてデートもままならない。

彼と全てを許し合ったのは、葵が十七になってからのことだ。


直哉はずっと忍耐強い恋人だった。手を握る、抱きしめる、口づける。いくらせがんでもその先へ進まない彼に、葵の方が焦れ始めた。

不安もあった。直哉がもてるのは周知の事実で、いくら婚約したといっても知っているのは身内と近所のみ、世間は知るよしもない。まさか「彼は私と婚約してます」と札を下げさせるわけにもいかない。

会社にはもっと大人の素敵な女性がたくさんいるのだろう。直哉はどうした気まぐれか父親たちの願いを叶えて葵に申し込んでくれたけれど、いつ気が変わるとも限らない。

葵は身も心も大人になりたいとあがいていた。まだ知らぬ性の世界。直哉にこそ教えて欲しい。彼と一つになりたい、若いからこその一途さで次第にそう思い詰めるようになっていた。


珍しく車で連れ出されたのはそんな頃だった。湾岸道路を走ってふたりきりでいつもとは違う場所へ。それだけで十分幸せなはずなのに足りないと思う。どんどん欲張りになる自分が疎ましく恐ろしく、でも嘘のない気持ちだった。

あちこちした後で直哉が車を道路添いのホテル駐車場に入れたのは、そんな気持ちが伝わったからだと思う。


男性と二人でホテルに入るなんてもちろん初めてだった。おそるおそる見回した部屋の、可愛らしいファブリックや曲線の目立つ女性好みの家具よりも、葵の眼をまず釘付けにしたのは部屋の中央にでんと構えた大きなダブルベッドだった。

ダブルベッド。ごくりとつばを飲み込む。望んでいたけれど直面すれば興味よりも現実が、恐れが強まる。踏み込もうとする世界に対して、通り一遍の知識と、これまで交わしたわずかな触れあいしか知らないのだから仕方ない。

意を決してベッドに近づき腰を下ろした葵は、弾力と広さにうろたえると同時に、横たわる自分と彼の姿へ想像が走って頬が染まった。どうしようもない恥ずかしさが先立つ。見守っていた直哉は葵の前、絨毯に座り込むと葵の両手をとった。


「急ぐことはないんだ」
直哉の指が葵の手をさする。赤い顔で葵は直哉のつむじを見下ろす。

「時間はたくさんある。葵はいろんなものを背負ってるんだし、あわてることはないよ」
「直ちゃんは」
か細い自分の声に唇を噛んで、葵は勇気を奮い立たせる。

「あたしを欲しいと思ってくれてる？」
伏せていたまなざしに強く下から射られた。息をのむ。獲物を狩る獣みたいな。背筋がゾクゾクする。

「僕をどんな男だと思ってるの。思わなきゃプロポーズしないよ」
「あたし、直ちゃんとそうなりたい」
言ってしまおう。言ってしまわなければ。葵は何かに急き立てられる。

「そしたらもっと、自信がもてる気がするの」
「……ほんとに葵は望んでるのかい」

確かめるように下からのぞきこむ彼の眼。きっと自分の顔に答えは書いてある。葵は必死で目をそらさずに幾度も頷いた。眉を寄せてじっと考えていた直哉が、ふわりと微笑む。その笑みに魅せられる。

「嬉しいよ」


それからの数時間、身体の辛さを幸福感が凌駕して葵の心は満たされた。好きな人となにものにも遮られることなく肌を合わせることが、あんなにも幸せだなんて知らなかった。人生で一番幸せと思った日。

そう、確かに幸せだった。
後悔はない。別れに終わった恋だとしても。





陸見に送られて帰り着いた家は夕飯もとうに終わって、居間には誰もいなかった。大して飲んでもないのに喉が渇いてしょうがない。台所の流しでコップ一杯の水を飲み干す。横を見るとおそらく銀だろう、食器がきれいに片付けられていた。

秘書の仕事は遅くなることも多いので、葵はその日の夕飯を朝の内に用意して冷蔵庫に置くことにしている。鋼は酒のつまみがあればいいが銀と鉄はそうもいかない。

ボリュームのある肉か魚をレンジで温めるまでにして皿に盛る。湯で溶くだけの味噌玉は週末に一週間分を仕込む。具はわかめか豆腐にネギが定番。漬け物は祖母譲りのぬか床。ご飯は炊飯器任せ。平日はそんなものだ。

これでもずいぶん手抜きになった。葵が仕事を始めた頃は夕飯に間に合わない娘に鋼は散々文句を言い散らした。だからといって葵は仕事に関しては譲ることをしなかったし鋼も仕事をおろそかにしろとは言わなかった。

試行錯誤の末にたどり着いた今の形。葵がいないとお膳立てするのはおおむね銀、でなければ不承不承、鉄だ。鋼はせいぜい冷蔵庫からつまみをとり酒を燗するくらいが関の山。それでも御の字だと思っている。

朝に支度するのは手間ではあるが、長く主婦をやってきたからそれなりのコツも技もある。近所からちょくちょく総菜のお裾分けもある。自分はなんだかんだ言いつつ恵まれてきたのだろう。


コップを洗って伏せると葵は二階へ向かった。自室に入ろうとしたところで向かい側、弟たちの部屋のふすまが細く開いて眼鏡がのぞいた。

「おかえり」
「銀？　洗い物ありがと。変わったことなかった？」
「いや」
「鉄は」

「もう寝ちまったよ。あのさ」
「うん？」
「葵はあの、ピカピカ野郎のことどう思ってんの」

奇天烈な呼び名は電球野郎から派生したのだろうと察しはついた。どこまで転がるのか、それはさておき。

「源さんのこと？　どうって」
「つきあってんだろ。好きなのか」
「そういうんじゃ」
「直哉のこと、まだ吹っ切れねえの」

吸った息がそこで止まった。あれ以来銀が滅多に口にせず、口にする時はぞんざいに言い捨てる名前を今聞くなんて。偶然と思ってもあまりにも符丁が合いすぎて言葉が出てこない。葵の反応をいぶかしんだ銀がはっとする。

「まさか。直哉に会ったのか？」
弟は時々勘が良すぎて困る。隠したいことも隠しきれない。さらに問い詰められてしまう。

「どこで」
「たまたまよ。社長と行ったパーティーで」
「パーティーってのは人がたくさんいるだろうに。寄ってきたのか。何言われた」
ほんとに、勘が鋭いのも良し悪しだ。

「……秀くんとのこと小耳に挟んだらしいわ」
「はあ？　あいつがどうこう言う資格なんぞこれっぽっちもねえぞ」
「銀、大きな声出さないで」
いつも冷静な銀なのに、この頃やけに怒りっぽい。

「ちゃんと追っ払ったんだろうな葵」
「みんなが起きるってば」
「葵！」

「うるっせえぞ！　夜中に何わめいてやがる。近所迷惑だろうが！」

鋼の怒鳴り声が階下から響いてふたりとも首をすくめた。そっちの方がよほど迷惑だ、と言っても始まらない。葵は懸命に銀をなだめる。

「社長がガードしてくださったから心配ないわ。ほんとよ。もう休むから」
「葵」
「おやすみなさい」

これで終わりとばかりに閉めたふすまの向こう、銀は舌打ちして戻っていった。ふうとため息を押し殺すが銀の問いが頭から消えない。


『好きなのか』
わからない。わからない。

『直哉のことまだ吹っ切れねえの』
そうじゃない。そうじゃなくて。

吹っ切れないのは彼じゃなく、長く想いあったはずの人が唐突に心変わりした事実だ。いや、心変わりですらなかったのか。自分の中で無残に崩れ落ちたままの信頼と自信。

それでどうして、恋ができるの。


慣れた手つきで部屋の中央にぶら下がった紐を引っ張る。明るくなった蛍光灯の下、バッグを置いて鏡台の前に座った。化粧を落とそうとしてクレンジングを手に鏡を見れば、疲れた顔の自分が見返してくる。

もっと若かった。もっと幼かった。
思い出すまいとしてきたのに、今夜は過去から逃げられない。


人生で最悪の日がよみがえってきた。