気持ちだけが疲弊した時は大抵、昔の夢を見る。

高校生の光と社会人の若菜では恋人と言っても会える時間は少なかった。できるなら全て捨てて２４時間一緒に居たいと願う一方で、のしかかる責任と義務から逃げるほど光は子どもでもなかった。バイト、学業、妹たちの世話、そして母の世話。面倒でも苛立たしくとも放り出せるものは一つもなかったそれら。

恋に落ちてからは、いや恋に破れた後も、家族のことを呪縛としか思えぬ時期があった。心の奥底ではわかっていたのに。その呪縛が、裏を返せば命綱だったこと。


美しくて可愛らしくて優しい。七つも年上だった若菜だが、威張ったり年下だと見下したりすることがなく、逆に光を頼るような態度とまなざしでみつめてくれた。誇らしかった。生活を支えるためにバイトする身では高価な贈り物やデートなどできはしなかったが、ささやかな小物や花を差し出すと嬉しそうに笑ってくれた。

『ありがとう光。綺麗ね。嬉しい』

そう言って笑う顔が何より慰めだった。よく似た顔にすごい形相で睨まれることが重なっていたからなおさらだ。


『どうしてあなたは生きてるの？　融さんがいないのにどうして！』



「……っ」

ベッドの上で跳ね起きた光は、窓枠の作る格子の形の影を唖然と睨んだ。体中を脈打って走り回る血流を痛いくらいに感じる。全身びっしょりだ。布団にこもっていた熱が逃げ失せる代わりに、冷気が一斉に汗を冷やしにかかってきた。微かな震えは寒さのせいか、夢のせいかわからない。

大きなため息をしてから額を手のひらでぬぐった光は、ノックの音にぎくりとした。カチャッと回るノブ。そうだ、もう鍵はかけてない。必要ないはずだから。だけど？

「光、起きてるの？」

夢と同じ声に全身が凍る。

「変な声がしたから…」
「入るんやないっ」

ムチのようにしなった光の制止にドアは半分も開かず止まった。狭間に立ち尽くす母の姿は彫像のようだ。色をなくした白い顔。激しい動悸とは別の痛みが光の胸を鋭く刺す。どうしようもなかった。昼間なら笑っていられても、この時刻は。それともいつか平気になるのだろうか。必死で息を吐いて吸う。波立つ声を抑える。

「だい、じょうぶやから。心配せんでええ」

うなずいた母がうなだれかける。
「光」
頼むから。

「なんや」
「……なんでもないわ。おやすみ」

返事を待たずにドアは閉まった。開けっ放しのカーテン。窓から差し込む月の光。動く物のない部屋で過去が木霊する。


『融さんはどこ！』
『大好きよ、光』

まるで異なるふたつの言葉は、結局どちらも自分を求めていなかった。その事実からまだ立ち直っていないのか。臆病者と自己嫌悪する。


ふっと葵の顔が浮かんだ。短い間に知ったのは怒った顔ばかりだが、たまに見せるはにかみや戸惑いがやけに魅力的で。まだや。まだ焦がれてへん。焦がれてへんけど。窓の向こうは鈍色にびいろ　の空。ここまでおいでといわんばかりに月が丸かった。





同じ月をまんじりともせずに葵も見上げていた。

光を避け続けた数日。彼に会いに来る美人の噂は、もう別れたのかという噂と合わさって社内を駆け巡っているらしい。結納を終えた美羽と丈のカップルとはずいぶん違う扱いだ。

何度も光に面会を求めるという女性に、幸か不幸か葵はまだ出くわしていない。出くわしたいわけもないが、気にならないと言えば嘘、大嘘になる。胃が痛いのはストレスだろうか。

光に会いたい。会いたくない。振り子のようにふれる気持ちはかつて、一人を思っていた時とは違いすぎる。直哉への恋はただまっすぐに迷うことのない一直線だった。この迷路のようなぐるぐる渦を巻く気持ちも？　そんなはずはない。上下の激しい山道を走るような、急カーブにハンドルを切るような、遠心力に似た思いが恋のはずはない。

ならどうして会おうとしないの。誰もいない部屋でひとり、葵はしかめ面をした。思いの山道は同じところで行き止まり。こんなのは自分らしくない。駄目よ。

ブーンと軽い振動音が聞こえた。布団の枕元で携帯が震えている。四つん這いになって手を伸ばした葵は液晶画面を見て眼を丸くした。ためらいはあったが通話ボタンを押す。久しぶりの光の声が耳をくすぐった。


『葵？』
「まだ寝てなかったの」
『そっちもやん』
ホッと滲む安堵を聞き取る。

「眠れないの？」
『眠っとったんや。夢見て……起きてしもうた』
良くない夢だったんだろうか。重い気分が伝わってくる。

『あれはな、元カノや』
突然言われて驚いた葵は、ひゅっと吸い込んだ息を止める。

『昔々、十年も前に別れて結婚もしとるくせに。いきなり会いに来るてどういうんやろ』
「どうって。まだ好きとか」
『また。弟と同じこと』
「弟？　弟って何」

『まあええけど』
「良くないでしょ」
『とにかく。昔のことやし』
「別に。私に言い訳しなくてもいいのに」
ぶつぶつ言いながらも気恥ずかしかった。口と真逆の行動を取っていたのは自覚している。

『なあ。葵やったらどないする』
「何が」
『元カレが現れたとしたら』
「元カレ？」
心臓が跳ねた。

『たくさんおるやろ。葵の上やし』
あいにく一人だけです、なんて言ってやらない。どっちにしろ。
「ありえません」
鼻で笑う。自信たっぷりに。

『仮定の話やって』
「絶対ないわ」
『ほんまか？』
「ほんまほんま」
『その言い方、似合わん上にものすご嘘くさいわ』
笑う彼の声が、他愛ない話の応酬が、葵の心を温めた。

嘘じゃない。
断言できた。疑わなかった。
なのに。



翌日夜。葵が社長と共に出席したのは、いわゆる異業種交流会のパーティーだった。世界的不況を生き延びるためにも産業界は新しい事業を模索する研究的な会合に積極的だ。その一環として設けられた催しだが、好奇心の強い陸見は都合のつく限りこうした場にも顔をだすようにしており、情報収集も兼ねて葵も伴うことが多かった。

パーティーはブッフェ形式の肩の凝らないスタイルだった。知った顔、知らぬ顔。たくさんの人に紹介され、紹介するのが目的みたいなものだから、誰もが話すことに活発だ。さりげなく会話を泳いでいた葵は、一休みしようとグラスを片手に部屋の隅へ隠れた。

同時に周囲を見回す。なんだか今夜は視線を感じる。見知った顔にも初めての顔にも概ね挨拶をすませたつもりだが、その誰でもない気がする。なんだろう。

「疲れたかい」
やっぱり一息入れに来た陸見に笑顔で応える。

「いえ。ずいぶん人が多いですね」
「そういえば珍しい顔にあったよ」
「どなたに？」
「君は歓迎しないと思うんだが……ほら」

示された方を見て葵はぽかんとした。人波の向こう、葵を射る眼は紛れもなく、何年もしゃべるどころか顔もみていなかった、かつての婚約者。信じられない。

ゆらり、スタートを切った猛獣のように彼が歩き始めた。直感でわかる。まっしぐらに自分に向かってくるつもりだと。

久しぶりの直哉の姿を葵は茫然とみつめるしかできなかった。