光にとって母親の店であるＷＥは半ば実家と同じだ。仕事帰りに手っ取り早く空腹を満たそうと寄るのもよくあること。そこで見るはずのない顔をみつけて驚いた。なぜ銀がここにいる？　まさか葵も？　見回した店内にしかし彼女の姿はない。

「仕事で近くに来たんだ。ここもたまたまさ」
狼狽はあっさり見抜いかれている。敏さと　い奴だ。

「で？　ここはあんたのテリトリーなわけか？」
テリトリーという言葉に銀がどんな意味合いを込めているにしろ、好意的ではあるまい。光が答えるより先に初音がかみついた。さっきからどうも彼女らしくない。

「なんなのあなた？　光にまでいちゃもんつけないで」
「光、ねえ」
シニカルな口調に誤解があからさまに透けて見える。やれやれだ。相手にされないことでまた上がる初音のテンションがさらに面倒だ。

「ちょっと、聞いてるの？」
「初音。落ち着きぃて」
「だって」
「ややこしなるだけや。こいつは知り合い。葵の身内」
「……え？」
「は？」
光の言葉に初音と銀が間の抜けた二重唱を奏でる。

「葵さん？」
「なんでこの娘が葵のこと」
「ちょっと光、何事よ」
やってきた小町と当惑顔の初音、ふたりの肩を抱いた光はしかめつらの銀に紹介した。

「すぐ下の妹や。初音。他に上下三人おるんやけど。全部女」
「四人姉妹？　全部？」
「でもってこっちはおかん」
「おかん……て」
意味を取るのに一拍遅れて見開く銀の眼。

「こっちは日高　銀。年明けに来たやろ？　葵の弟や。初音、カリカリせんと。俺とタメやし、もうちっと年上を敬いや」
「嘘」
ショックで黙り込む初音と銀に対して、張り切る小町。
「あの美人の弟さんなの。やっぱりイケメンねえ、ようこそ」
「おかん、色気はいらんで」
「なんですって」
気色ばむ母に構わずしゃべり続ける光。
「ここはおかんがやっとる。実家はほら、庭の向こうに見えるあれや。あぁそれと、カウンターにおるんは二番目の姉貴の旦那。いわゆる家族経営ってやつやな」

流れ落ちる水のような光の説明に眼を白黒させていた銀だが、大きくため息を吐くと立ち上がりきちんと頭を下げた。こういうところが好感がもてる。
「日高です。姉がお世話になって、ます？」
語尾が上がって上目遣いの疑問形。葵が来たのは一回きりだなんて知るはずもない。

「いいえ。初音がうるさくてごめんなさいね。いつもは一番穏やかな子なのに」
「小町さんたら」
「そうか」
声をあげた銀が光にふりむく。

「葵にくれたチョコミルフィーユ。あれ作ったの、妹？」
「は？　いやあれは俺やけど」
「あー、そういうこと？」
ぱんと初音も手を叩く。
「あのミルフィーユならあたしも一緒に考えたもの。今日のミルフィーユのベースよ」
「だからだ」
「……そっか」

何の話なのか。顔を見合わせて納得し合うふたりに、光は小町と首を傾げる。カウンターの向こうで雀がひとり笑っている。日頃ない怒りの反動で脱力気味の初音がのろのろと銀に聞く。

「あなた、料理人？」
「まさか。建築やってる」
銀の答えに初音の眉が寄る。えらい不機嫌やなと光は妹をいぶかしむ。
「ずいぶん舌がいいのね」
「特に思ったことないけどな」
そんなやりとりを聞くうちに光は激しい空腹を覚えた。

「雀さん、デイリープレートのビッグボウル、頂戴」
「ああそれも、うまかったですよ」
「……そら何より」
この弟はどうしてこう淡々としゃべるんだか。力が抜けそうだ。とりあえず空きっ腹が落ち着くまで銀のことは放っておこうと光は決めた。



ところかわれば品変わるじゃないが、なるほどなと銀は思った。四人の姉妹と母親。女ばかりの環境で育つとあんな風になるのか。八方美人の体現だ。親父はどんな奴なんだろうと興味を覚える。

カウンターに座った光は、銀が食べた同じプレートに舌鼓を打ちながら甘いマスクの義兄とおしゃべりし、母親に冗句をとばし、通りがかった妹のエプロンを引っ張ったかと思うと常連さんたちに挨拶まで。見事なほどに愛想がいい。よく顔が引きつらないな。蝶よ花よとちやほやされてきたに違いないが、そのわりにいけ好かなさがないから不思議だ。

山の手の育ちの良さとはこういうものか。妙に感じ入りながら眼を戻した。前に座っているのはエプロン姿の彼女。ふわふわひよこみたいと思ったらとんでもなかった。くちばしが尖りすぎだ。鉄なら喜ぶかもしれないが鉄じゃ太刀打ちできないな、きっと。


常に彼女を切らさない弟に比べ、銀は彼女が居た期間の方が短い。もてないわけではない。ストイックでそっけなく甘い言葉など無縁の硬派な彼に、相手の方がついていけなくなるらしい。一向に気にしなかったのはどれもこれも向こうから告白されてつきあったクチだったから。それでも彼女がいる間は誠実で浮気もしてないが。今は仕事に必死で女に構っちゃいられない、というのが銀の本音だ。

「なんでそんなに睨んでるのよ」
睨んでるのはそっちだろうと言おうとして、その手に握られているトレーに踏みとどまる。またくらうんじゃ割に合わない。

「兄に話しでもあるの？」
「あるから待ってる」
「なんか気に入らない」

「そりゃこっちだ。あいつは信用ならない」
「お互い様」
「何？」
意味がわからず見るとこっちを見据える眼。

「あたしも葵さんのこと信用してないもの。できたらいいと願ってるけど」
「あんたに葵のこととやかく言われたくないね」
「じゃあ光のことも言わないで」

「言われるようなことやるからだろ」
「……あなたも外面しか見ない人種ね」
「なんだと」

「いつまでやったら気ぃすむんや」

あれだけ愛想振りまきながらもしっかり食べ終えたのか、光がやってくる。入れ替わるように立ち上がった初音は、銀にひとにらみくれてからカウンターへと移っていった。頭にくる女だ。気持ちを落ち着けようと銀はコップの水をごくりと飲み干し、身構えた。

「とりつく島があらへん」
「……なんのことだよ」
光の第一声で眉間に皺が寄る。眼鏡同士でにらみ合うってのは端から見るとどうなんだか。

「葵や。ここんとこ全然つかまらん。剣もほろろ？」
「身に覚えがあるだろ」
「ないこともないわな」

「二股か？　正直さっきは何股かけてるんだと疑ったんだが」
「阿呆なこと言わんといて」
頬杖ついた手のひらからあごを滑り落としテーブルに沈んだ光に、銀の肩の力が抜ける。だますとか取り繕う感じではない。『二股』に反応した声には嫌悪感が露あら　わだ。

「冗談にもならんわ。二股なんぞ虫酸むしず　が走る」
「んなこといって。弟も見たらしいぜ？　美人と連れだって歩いてたとか」
「あっちゃあ、それか。悪いことはでけんなあ」
ぐったりテーブルにはりついた頭がさらに沈みそうだ。

「悪いことしてたんだな」
「そやのうて……なあ、元カノの撃退法教えてくれんか」
「元カノ？」
思いがけない話にきょとんとする。テーブルの上で頭だけが上下する。

「なんだそれ」
「突然会いに来るてなんやろ。とっくに既婚者やで？　何考えとるんかさっぱりわからん」
「旦那とうまくいってないとか」

「のろけも聞かされるんやけど」
「相手にするなよ」
「会社に張り込まれたらどないする」
怖そうな話に銀は態度を軟化させる。

「ストーカーか」
「それもなんか違う気ぃするわ。遊ばれてる？」
「まだ惚れてんのか」
「勘弁や。思いだしとうもないっちゅうのに」
返事になってるようでなってないなと思いながら、腕組みした銀は百歩譲って忠告する。

「理由はともかく、葵に二股なんかしたら即アウトだぞ。いっぺん痛い思いしてるからな」
「痛い思いて何」
「葵に聞け。元カノのことだって話してないんだろ、その様子じゃ」

黙ったから図星だな。口をすぼめる光にさらに突っ込んだ。
「そもそもあんた。ほんとに葵とつきあってんの？」
返事がないのがいらだたしかった。嫌いじゃないが、やっぱりまだまだ得体が知れない男だ。


黙りこくった光。見据える銀。
向こうから初音と小町が心配そうにふたりを見守っていた。