何を食べたいと聞いたら何でもいいと言われた。自分もなんだって構わないはずが、小洒落たイタリアンになってしまったのは相手が若菜だからだ。落ち着き払って座る姿に光は改めてそう思った。

ほめているわけでも称えているわけでもない。若菜には似合う場所と似合わぬ場所がはっきり分かれる。よく言えばオーソドックス、悪く言うならはずせない枠とでもいうのか。

居酒屋で日本酒なんてありえへんな。

ふっと湧き上がった笑みを見とがめられる。
「何？　思い出し笑いなんて嫌ね」
「ちょっとな。それよりびっくりしたわ。俺の勤め先、なんでわかった」
「あら。ダイスのマスターから聞いたのよ」
舌打ちはさすがに口の中で呑み込んだ。


ダイス Dice とは高校時代にバイトしていたバーの名前だ。そこでかつて若菜と出会った。暮れにこっちへ戻ってきた光が、もう若菜と会うこともないだろうと久しぶりに訪れたのは年明け・松の内のこと。

十年ぶりとは思えぬほど店は変わらなかった。もちろんスタッフや客は違うがマスターは驚きながらも温かく迎えてくれた。確かに名刺も渡した覚えがある。まさかこんなおまけがつこうとは。

「いけなかった？」
「いけないってわけやない。ないけど」
「けど？」
「なんでや」

人の台詞を繰り返しながらもメニューを選ぶのに余念がない若菜を、光は正面から見据えた。一度は心から愛した女性。今は違う。違うけれど引きずられる部分も正直ある。しっかりしろと内心で自分を叱咤する。


「十年会わんかった。なんで今頃」
「私、ゴルゴンゾーラのクリームソースパスタがいいわ」
「は？」
「デザートはイチゴのミルフィーユね」
「……でもってエスプレッソ、やろ」

しもうた。
ぱっと笑顔になる若菜に対し、光は苦さと甘さを同時に味わう。
「覚えててくれたのね。嬉しい」
「なあ、若菜」
「光は？　決めないなら私が決めてあげる」

はーっとため息とともに腹が鳴った。仕方なくメニューに目を落とした光は、とりあえず胃袋を満たしてからと自分を納得させた。


ピリッと辛いアラビアータ。イイダコとトマトソースのパスタを光は選んだ。葵も好きそうやな。やけに思い出すのは後ろめたさか。会社の受付を堂々と訪れた若菜のことはすぐ噂になっていそうだ。葵とつき合いだして三ヶ月たらず。いまだ周囲が興味津々のところへ若菜の登場は火に油。葵に悪いなと思う。


「悪いけど忙しいんや」
「仕事が終わってからでもいいわ」
「急に言われたかて」
「じゃあ日を決めてちょうだい。合わせるから」

突然の来訪は断るのが普通だし事実断ろうとしたのに、折れてしまったのは彼女があきらめそうになかったから。葵にメールで説明すればよかったろうか。何を？　なんと？　若菜のことは名前すら口にしたことがない。説明のしようがなかった。ごまかしや嘘は却ってややこしくしかねない。それにしても。

先に食べ終えて皿を押しやった光は、フォークの先に巻き付けたクリームパスタを上品に口へ運ぶ若菜をみつめる。どうして今になって現れたのか、正直見当もつかない。



光が若菜と恋に落ちたのは高校に入学した１６の春だ。父が死んで二年。同じ春に大学を卒業した桐子がキャビンアテンダントとして就職したおかげで、ようやく源家の家計に明るい見通しが立った。姉にばかり経済的負担を負わせるようですまないと思う一方、誰にも言えない悩みをひとり抱え、光は光でいっぱいいっぱいだった。

入学するとすぐ校則で禁止されている深夜のバイトを始めたのは家計のためもあったが、最大の理由はどこかに捌け口がないと自分が潰れてしまうと思ったからだ。首尾よく深夜営業のバーDiceに雇われると、大人びた雰囲気に加え機転が利くのが幸いして客に年を疑われることもなかっのに、ある夜。思いがけぬ人に出会った。


「ねえあなた、桐子の弟さん、じゃない？」

心臓が飛び跳ねた。薄暗い店内、職場仲間らしい女性の四人連れは初めて見る顔だ。おしぼりと水のグラスを渡しながら、とびきり綺麗な子がいわゆる新入社員らしいとあたりをつけた光だったが、その綺麗な娘に突然話しかけられ、おまけに姉の名を出されて焦る。

「えっと、すみません俺覚えてなくて」
「若菜よ。樫野若菜。何回か遊びに行ったことあるのに」
「わか……あ、フリフリレースのわかちゃん？」

不意に記憶が蘇りとんでもない言葉まで飛び出した。周りが爆笑する中、眼を丸くした若菜のおっとりした笑みがさらに記憶を叩いた。もうずいぶん昔、自分が小学生の頃に桐子が連れてきた同級生。綿菓子みたいな雰囲気が母を思わせた。ふわっと広がるフリルのワンピースがよく似合っていたっけ。

「そう、そんな格好してたかも。でもお互い様よね。あなたは半ズボンだったわ」
「あ、あはは」
「大きくなっててびっくり」
いつもの臨機応変さはどこへやら。言葉が出てこない。若菜はさらに聞いてくる。

「そういえば桐子、キャビンアテンダントになったって。ほんと？」
「あ、はい」
頷いた光を食い入るようにみつめ、彼女はぽってりした唇を噛んだ。
「……ほんとなの。そりゃあ昔っから夢だって言ってたけど……」
目を伏せた若菜が横顔になる。そこへ。

「なに樫野さん、このイケメンと知り合い？」
「ずるいー。紹介してよ。ねえねえ、なんて名前？」
若菜がぱっと顔をあげる。
「クラスメートの弟さん。光くん、よね？　……あれ、でも」

「ああああーっと！　あの、ドリンクは以上でよろしかったでしょうか」

まずいと咄嗟に大声が出て全員がきょとんとする。年嵩の女性が思わずうなずいたところをすかさず押す。
「おすすめの前菜があるんですよ。久しぶりに若菜さんに会えたし、俺サービスします」
「えー、いいの？」
「もちろん。どうぞこれからもごひいきに」

リップサービスの陰で、若菜にそっと耳打ちする。
「年は内緒にして」
大きな瞳がくるりとしてからまた笑んだ。まるで、まるでかつての小町だ。思ったとたん光の胸は絞り上げられるように痛んだ。

今の母は笑顔など見る影もない。
いなくなった融を追い夢の中を彷徨って、時に叫び時に狂う亡霊。

ぎりっとかみしめた奥歯。挽き臼をすりあわせたような耳障りな音が頭の骨に響いて、光はそそくさとその場を後にしたのだが。


若菜はそれから店を頻繁に訪れるようになった。美人で大人で可愛らしい。小町に似た面影は甘くて綺麗で美味しそうなスイーツだ。男なら誰だって手を伸ばす。ましてやそのスイーツに大きな瞳でみつめられ誘われたら。

気づいたら落ちていた、本気の恋。
身も心も沈み込む深い底のない淵のような。



「光？　光ったら」

若菜はパスタを食べ終え、いつのまにかデザートが運ばれていた。エスプレッソの濃厚な香りが光の方まで漂ってくる。
「ぼうっとして。疲れてるの？」

小首を傾げる仕草は昔と同じだ。間接照明の柔らかな明かりがオーラのように栗色の長い髪を縁取って輝く。あの頃、こんな彼女をどれほど愛しく思っただろう。

前髪に指が触れた。バッと身をのけぞらせた反動で椅子の背によりかかった光に、若菜は驚き眼を丸くすると、前屈みに伸ばしていた腕をすっと引っ込めた。白いテーブルクロスの上、光のコーヒーからこぼれた滴が茶色のシミを点々と作っている。

「私に触れられるの、いや？」
「いややな」
まさか肯定されると思っていなかったのか、再会してから初めて若菜が傷ついた表情を浮かべる。それをいい気味と思う余裕もない。

「モトカノと友達になれるて言う奴もおるやろけど。俺は無理や。なりとうもないし」
「ひどい」
ふいと横を向く様は拗ねた子どものようだ。七つ年上の彼女が見せるこうした甘えが、昔の光にとっては男の虚栄心とプライドをくすぐる魅力のひとつだったと思い返す。

「なあ。何しにきたんや」
「関西弁は嫌いって言ってるじゃない。知らない人みたいよ」
「もう知らんのと同じやて。十年やで」
明るいイタリアンカラーのカップに七分目。濃い目のブレンドに光は口をつけた。少し焦げたような苦みが今の気分そのままだと思う。

「十年経ったんだもの。そんなにこだわらなくてもいいでしょう」
「若菜て」
言葉の通じない外人としゃべっているようで、光はひどく疲れを覚える。

「俺がいややて言うとるやろ。……今、彼女もおるし」
「いるの？」
カチリと置かれたエスプレッソのカップ。若菜の眼がビームとなって光を射貫く。
「おるよ」
「ふぅん」
春の新色で鮮やかに彩られた唇がつんと尖る。

「だからって、ご飯くらい気にしないでしょ。こんなおばさん相手に」
言ってる本人が自分をおばさんと思ってないのは明らかだ。それはそうか。自分と七つ、葵だったら五つしか違わない。


「だから、たまにつきあってくれてもいいわよね？」

傾げる頭。ふわっとした笑み。まるで、デジャヴ。
天使だと思っていた。今は天使どころか悪魔に見える。


「そしたら関西弁も直せるじゃないの」
「俺が西へ行ったんは若菜に会いとうなかったからや」
苛立ちをこめた低く太い光の声に若菜の笑みが消えた。どこへともなく逸らす眼。

「この言葉で別に困っとらんし気にいっとる。仕事場でも問題あらへん」
「だって」
「関西弁をやめる気ぃはない。若菜に会う必要もない」
たたきつけるような口調に、若菜が鼻白む。
「わかっとるやろ。もう、会いたないんや」
「嘘よ」
言葉で、眼で、真っ向から否定されて黙るのは光の番だった。

「ほんとは会いたいんだわ。でなきゃそんなにこだわらないもの」
「こだわったりしてへん」
「光はまだ、私のこと忘れてないのよ」

断言されて光は唖然とした。傲慢とすら思える自信は一体どこからくるのか。自分の態度はそんなに未練に見えるのだろうか。

あほまさか。そんなはずない。
俺は。


「そうそう、桐子のお嬢さん。ゆうかちゃん、だったかしら」
「……は？」
「可愛かったわ。ティーサロンに行ったら今度は遊べるかしらね」
頬杖ついて組み合わせた両手にあごをのせ、全く別の夢を見る若菜。

何を考え何を求めているのか。あの頃よりさらにわからない。かつての思い人は変わらず美人で、だが前にもまして勝手だ。自分はここで何をしているのだろう。



椅子に深く腰掛けているはずが、元カノと立て札された底のない淵に懲りもせず足をつっこみかけているような錯覚が襲ってくる。光は無意識に脱出の呪文をつぶやいていた。

あおい、と。