都心のコーヒーショップに鉄は居た。ガラス窓の向こうで夕暮れを背景に行き会う人の影をぼーっと眺める。

こんなにたくさんの人がめいめい、ばらばらの行く先をめざしているのに、ぶつかることなく立ち往生もせずに行き違っていく。見方によっては驚異だ。奇跡のマスゲームが、現実ではありきたりの光景として繰り返されている。

たとえば男と女もそんなものなのかもしれない。
平凡に見える奇跡。


「鉄」

鏡に映る自分と同じくらい見慣れた顔に見下ろされていた。ステンカラーのコートにスーツの格好は先生というよりサラリーマンぽい。彼の兄のような派手さはなくとも、穏やかで誠実な幼なじみを鉄は誇らしく思っている。とはいえ、仕事の後で待ち合わせる相手が野郎だなんて情けない話だ。

「久しぶりだな、秀」

四つ木秀哉ひでや　。直哉の弟は鉄と同い年で兄とは十五離れている。まさに恥かきっ子というやつだ。妊娠当時、四つ木夫婦は周囲に散々冷やかされたと聞く。両親からも兄からも可愛がられ、四つ木の末っ子には親が三人いるというのが近所の笑い話だった。

何かにつけ優秀な兄に比べ特にずばぬけたものがない秀哉だが、可愛がられた甲斐あってひがむこともいじけることもなく素直に育った。誰からも愛される、つまり鉄とは似たもの同士の弟同士、仲が良いわけだ。

工業高専の教師として就職した現在、教壇で建築を教えている。マイペースな性格には合っているといつだか四つ木のおかみさんが言っていたのを思い出す。


「急に悪いな。現場から来たのか？　仕事忙しかったんじゃ」
「いいさ。俺も秀に連絡しようと思ってた」

小さな丸テーブルに秀哉がトレーを置くと、載せていたカップが揺れてカフェオレが波立って少しこぼれる。甘い物好きな男は結構多いが秀哉は飲み物も甘いのを好んだ。胃にも心にも優しい味が本人そっくりだと鉄は思う。

腰を下ろした秀哉はまだ熱そうなカフェオレを一吹きしてすすると、ネクタイをゆるめた。とっくに飲み干していたコーラのグラス、氷がとけた底の水を鉄が所在なげに呷あお　る。直径一メートルほどのテーブルがいつにない、微妙な空気をふたりの間に横たわらせている。

意を決したようにカップを置くと大きく開けた両膝の上で拳を握りしめ、秀哉はいきなり頭を下げた。
「すまん」
鉄が眼を白黒させる。

「親父が先走っておまえんちに……葵ちゃんに嫌な思いさせちまって」
「や、その」
「夕べ棟梁が来るまで俺も知らなかったんだ。勘弁してくれ」

どうやら夕べ、鋼は家を出たその足で四つ木に断りに出向いたらしい。話が早いのはいいことだが、だからって秀哉を責めるつもりも謝ってもらうつもりもなかったのに。

ぽかんとした鉄はしかし、秀哉の潔さが急に悔しくなった。同い年の幼なじみといえ社会人になったのは鉄の方が４年も先で、何かと先輩面したり威張ったりしてきた立場が逆転したみたいだ。

考えてみれば社会人になったといっても、自分の親に弟子入りし顔なじみに囲まれている自分よりも、全く知らぬところで勤める秀哉の方が苦労は多かろう。遅れをとったような焦りに鉄は思わず立ち上がる。
「馬鹿野郎っ、んな台詞聞きにきたんじゃねえよっ」

予想外に響き渡った自分の声にざわっとおののく周囲。まずい。あわててまた座った鉄に秀哉はやっぱり頭を下げたままだ。
「やめろって。おまえのせいじゃねえってことぐらいわかってらぁ」
「でも」
「秀」

鉄の低い声に秀哉がようやく顔をあげる。
「話せ」
「……兄貴だよ。つまりは」
ため息と一緒の言葉に鉄の眉間の皺が増える。


葵との話が壊れた時、直哉には怒り心頭だった鉄だが秀哉ともめたりしなかった。秀哉が自分と同じくらい直哉に怒っていたからだ。そうは言っても彼にすれば実の兄だから、以来二人の間で直哉のことはタブーだった。今日はそうもいかない。秀哉も腹を括っているようで苦い声が続く。

「うちの借金。兄貴が肩代わりしてくれたの聞いたろ」
「ああ」
「そのことじゃ俺は何も言う資格ねえんだ。家業も継がずに教師になっちまったし。何の助けにもなんねえし。兄貴は……やっぱすげえわ」

「どこが」
「銀行がさ。兄貴になら金貸してくれるんだ」
鉄が眼を丸くする。
「養子に入ったのはともかく自力で築き上げた信用とかもさ、この道四十年の親父と同じかそれ以上なんだよ。今の兄貴は」
ぐっと唇をかみしめた秀哉に、鉄はふと昨夜の銀を思い出した。


頭脳派で冷静沈着。もめ事は起こす方でなく大抵諫いさ　める方の兄が、あれだけ激高するのは珍しかった。葵の破談の時ですら、殴りかかろうとする鉄を羽交い締めにして止めたのだ。

その彼が昨夜は父親と乱闘寸前だった。鉄は驚きながらも怒るべき時を知っている兄に感心したし、嫉妬も覚えた。自分もあんな風に、葵のために怒りたかったと。秀哉はまだ愚痴をこぼしている。


「たとえば十五年先、俺が兄貴の年になって同じようにできるかって考えちまった。……無理だろうな」
「そんなのおまえだけじゃねえよ。出来のいい兄貴って厄介だよな」
「同感だ」
弟同士でがっくり肩を落としたのも束の間、ぱっとバネのように鉄が身を起こす。
「じゃねえだろ、それがなんで葵と結婚なんて話になるんだ」
「あ、わりい」
そっちがすこんと抜けていたらしく、秀哉がそうだそうだと思い出し顔になる。

「その、さ。兄貴に会ったの久しぶりだったんだ。俺も親父達も」
「うん」
「勘当してんだから当たり前なんだけどさ。おふくろは色々気にしてて。嫁さんとのこととか、結婚してずいぶん経つのに子どもはまだかとか」
「だろうな」
思い浮かべる四つ木のおかみさん。秀哉によく似たふくよかな、いかにも母親らしい顔。

「でも兄貴はのらりくらり、返事したりしなかったりで。お袋もいろいろ参ってたんだろうな。兄貴が帰ったらどっと熱だしちまって」
「マジ？　大丈夫かよ」
「もう平気。だけど、そん時に浮かされるみたいに言うんだよ俺に。嫁さんもらえって」
「……はあ？」

我ながらまぬけな声だと鉄は思った。どちらも煙草を吸わないふたりは間を潰す術もない。

「孫の顔を見せろだとさ」
「おかみさんも藪から棒だな」
「兄貴が葵ちゃんを嫁にもらってりゃ今頃、四、五人はいたはずだとか」
「えらい数を期待されてたわけだ、葵は」
「俺もただのうわごとだと思ってさ、適当にうんうん聞き流してたんだ。そしたら一緒に聞いてた親父が暴走してさ。俺にひと言もなしで棟梁にあんなこと」

鉄と秀哉が似ているように、鋼と忠治もよく似ている。短気で単純で思い込んだら突っ走る性格。それはわかってるが、気になるのは。

「おまえ、今でも葵に惚れてんの？」
「ばっ、えっ、はあっ？」

おやと鉄は思った。驚いちゃいるが驚きかたが前と違う。変に焦って狼狽えて見える。

「鉄まさか。いつかの話、誰かに」
「わ、りい。結婚なんて言うからつい、ぽろっと」
「ぽろっと？」
「みんなに」
「そ、れ、葵ちゃんに、も？」
「えっと、まあ、その」
「……ばっかやろお−！」

さっきの鉄よりも数段でかい声に、銃口のごとく視線がふたりへと集まった。あわあわと秀哉がこめつきばったのごとく頭をさげる。鉄まで一緒にへいこらして納めた後、くたっとふたりで椅子にへたりこむ。秀哉が口走る弱々しい声。

「ちっきしょぉー」
「や、ほんと悪い」
「どうすんだよ。ただでさえ気まずいのに。俺、葵ちゃんと顔合わせらんねえじゃん」
崩れ落ちそうにうなだれる秀哉をみて、鉄が申し訳なさそうにそれでも聞く。

「やっぱまだ好きなんだ」
「違うよ」
「隠すな」
「違うって。俺、彼女いるし」
「なんっ…ぐう」

再びの大声はさすがにまずいと、鉄の口をとっさに秀哉が手のひらで塞いだ。しーっと指を一本立てられてむぐむぐ言いながら鉄はうなずくが、手を放せば飛び出す文句。声は確かに小さくとも勢いはマシンガンだ。

「彼女だ？なんだよそれ。ならその娘と一緒になりゃいいじゃん。なんで葵と結婚なんて。どういうことだ、おい」
「まだつきあい始めたばっかなの。孫の顔がみせたいなんて理由で、いきなりプロポーズできっかよ。あっちだって仕事持ってんだぞ」
そりゃまあそうかも。

「仕事って同僚か？」
「同僚っつうか、大学の同期」
「同期？　おまえ年上が好みだったじゃん」
「……いつの話してんだよ。そりゃ葵ちゃんは永遠の憧れだけどさ、ありゃ別格。遙か遠くで崇めてるだけ。生身の彼女とは違うっしょ」

なんだかやっぱり先を越されている気がして鉄は不機嫌だ。
「なら生身の彼女のこと、とっとと親分やおかみさんに言やいいじゃん。葵の出る幕なんぞねえくせに」

「親父があんな暴挙に出るなんて思わなかったんだよ全く。いきなり来た棟梁に、葵にその気はねえ勘弁しろって頭下げられてみろ。俺はめまいがしたぜ。また兄貴がなんかやったのかとかパニックでさ。話を聞いて親父をはったおしちまった」

秀哉とて下町育ち。穏やかな性格でも力と力の親子げんかは日常茶飯事だ。

「結局、親分の勇み足か……なんだよ彼女いるんだ。てっきりまだ葵に片思いだと思った。ずっと同じタイプばっかだったくせに」
「だから何年前の話してんだよ。五年？　この情報化時代に古すぎ。大体、葵ちゃんのタイプが好みなのは俺よりおまえだろう」
「へ？　俺？」
銀とちがって視力検査はそろって１．５の眼を鉄がぱちくりさせる。秀哉が椅子にのけぞるようにして続ける。

「自分がつきあってた女、考えてみろよ。少なくとも３つ以上、下手すりゃ５つ６つ年上の、美人で頭良くて威勢の良いのばっかじゃん」
天を仰いで思い出してみる鉄。確かにそうだ。

「最近は知らねえけどな。今、いるの？」
「……合コンで知り合ったＯＬ」
「やっぱおねーさんかよ」
「５つ上、だけど」

「ほらな」
「いや、だって、たまたま」
「年下の彼女ってこれまでいたか？」
「いただろ？　いるよな？　……いなかったっけ？」

思いもかけなかった指摘にいつもの勢いはどこへやら、しどろもどろになる鉄を秀哉が少し哀れみの眼で見る。

「自覚なかったのか。おまえすげえシスコンだぞ」
「シスコン？」
「シスコンていうか、葵ちゃんはいわば母親がわりでもあるんだから……マザコン？」
「マザコンだー？」
「どっちにしろ要は、葵ちゃんがおまえの理想の頂点ってこと。だから似たような女ばっかなんだろ」
「………マジかよ」

自問自答などもっとも苦手とするところだが、秀哉に言われたことはいちいち当てはまることばかりで鉄は狼狽の極地だ。

「げええ。俺ってマザコンなの？　やばいじゃんそれ」
「やばいやばい」
「っ、秀哉っ、なんだよ他人事みたいに」
「他人事だし」
「おまえそれが幼なじみで親友の言うことか！」

「怒鳴るなよ」
「なんで俺が」
「あーもう、酒だ。酒飲みに行くぞ！」
男二人がわめきあう場所じゃないと秀哉が立ち上がった。

「おう、これが飲まずにいられるかって！　奢れよ！」
「なんでおれが」
「元はといえば親分とおまえの」
「わかった、わかったから怒鳴るな」

文句を垂れ合いながら出て行くふたりが周囲の眼を惹いたのは、うるさいのももちろんだが喧嘩のようでどこかほほえましい雰囲気が通い合っていたからだろう。



店を出たところで携帯が鳴った。秀哉が液晶を見て肩をすくめる。
「おふくろだ。ちょっと遅くなるって連絡しとくわ」
どこの家も母親からの電話はひと言ではすまない。こまごました話にいちいち頷いてやるのが秀哉らしい。

それにしてもと鉄は唸る。自覚のなかった事実を突きつけられてまだ動揺している。シスコン？　マザコン？　そりゃあ葵は好きだし大事だし自慢だ。ろくでもない奴になんかやれないくらい。秀哉にならいいかもなんて掠めた考えも実は、その辺の感情が絡んでたのかと思うと、余計に気が滅入る。だからって、見栄えばっかの野郎はなぁ。

ぶつぶつ言いながら何気なく視線をめぐらせた鉄は、人波の中に見覚えのある顔をみつけた。
「噂をすれば、か」

光だった。どこにいても目立つのは顔がいいだけじゃなく、眼を止めさせる何かがあるからだ。突っかかってばかりの鉄もそれは認めざるを得ない。だが今は別のことが気になってひとりごちる。

「誰だよ隣の」

横にいるのは悔しいが美人だ。鉄は眉間に皺が寄りっぱなし。

「なんだよあいつ。葵とつき合ってるんじゃねえのか。平家の敵なんぞだから信用ならねえんだって」


鉄がにらむその先を光と、それから若菜が連れだって遠ざかる。
ちょうど太陽がビルの陰へと沈みゆくところだった。