葵に会いたかった。
だが、光は会うことに躊躇もあった。

比べようとも比べたいとも思っていないのに、いざ会えば若菜と比べてしまうかもしれない。そんなことして自己嫌悪に陥るよりしばらく会わない方がいいかと迷ったり。結局来てしまったのは会いたかったから。悪い夢から醒めたかったからだ。





突然、World's　End に現れた若菜は光に対して動揺の欠片もなかった。あまりにあっけらかんとした顔をされて自分の過去を疑いたくなったくらいだ。桐子の驚きや母と乙女の敵意がかろうじて現実を示してくれるが、ためらいなく話しかけてくる彼女に、光の方がたじろぐ。

「１０年。ううん、私が結婚する前に会ったきりだからもっと？」
「そ、やな」


結婚、してるんだなと今更に認める。薬指の細い輪が放つ金色。それを見たくないから二度と会うまいと思っていたのに。年上のくせしてどこか幼い話し方。気に入っていたはずが久しぶりに聞くと違和感があった。

もちろん今も美人で魅力的だ。箱入りのお嬢様が順当にブラッシュアップされて、上品でお洒落でいかにもセレブな奥様になったわけか。だからってこんな風にふたりで昔話をするのは。

おかしい。


「なんだかすっかり大人の男性ね。もてるでしょう」
「んなことあらへん」
「へん、て」

すっと細まった眼。困惑した顔の理由に思い当たる。


「ずっと西におったから。すっかり関西弁になってしもうてな」
「似合わないわ」
「そやろか？　じゃのうて……んー。急には戻らへん」
「好きじゃないってば」

珍しく眉を寄せ声を尖らせた若菜へ、かけられたのはやっぱり少し尖った声だ。


「何しにきたの、若菜」
「き、桐姉て」

若菜が現れてから棒立ちしていた桐子の、常とは打って変わった険悪な顔と声に光の方が驚いた。くるりと身を返した若菜が桐子に微笑む。


「桐子も久しぶり。そうそう結婚したんですってね。おめでとう」
「ありがとう。で、何しに？」
「何ってここはティーサロンでしょ」
「家がこの近くだった？」
「近くじゃないけど」

若菜の眉間にまた皺が寄る。三年近くつきあったのに、こんな顔は見たことがなかったと光はぼんやり考える。


「私、招かれざる客なのかしら」
「客商売としてはあるまじきだけど、そのとおりよ」

横から断言した小町と、隣で人形よろしく繰り返し首を縦に振る乙女を見比べる若菜。曲がりなりにも客にまずいんじゃないだろうか。計ったように他に人がいないのが救いだ。知らぬ間に席をはずしていた雀が戻ってきて、そっとドアを指した。『準備中』にしてくれたらしい。それはいいがこの沈黙が。

「ママ−、ごちっさましたよー」
緊迫した空気を破ったのは、ようやくケーキを食べ終えた夕花だった。膝に抱きつかれて桐子がしゃがみ込む。

「きれいに食べたのね」
「美味しかったー」
「娘さん？」
背をかがめるようにして若菜が聞いた。桐子ではなく夕花にじっと目線を合わせる。

「可愛いわ。いくつ？」
「みっつ」
口ではそう言うが、小さな指は二本しか立っていない。

「結婚したのが４年前だったわよね」
知らせたはずもないのにどうして覚えているのだろう。子どもの前で尖った返事はためらわれたのだろう、仕方なく桐子が答える。

「ええ。その年に妊娠したから退職して」
「そう、そんなにすぐ。　……おなまえは？」
「ゆーか」
「ゆうかちゃん。しっかりしてるのねえ、ふふ」
微笑んだ若菜に、何故か夕花は母のうしろへと身を隠した。

「ねえ、お姉さんと遊ばない？」

請われても首を振って出てこない。生後三ヶ月くらいから毎日のようにこの店で過ごしてきた夕花は人見知りをせず、誰に対してもすぐ懐くし、綺麗なお姉さんには自ら寄って行くのに。珍しいことだ。

「嫌われちゃったのかしら」
「子どもはきまぐれやから」
取りなしてしまう自分が情けない。夕花を見つめたままで若菜が呟く。

「……桐子がおかあさんになったって聞いたから、のぞきにきたのよ私」
意外な言葉に桐子が、光も彼女を見直す。
「まさか光に会えるなんてね。運が良かった」

にっと、浮かべた笑みは見たことのないものだった。ぞわっと何かが背中を走る。夕花を後ろに一歩前に出た桐子が光も庇いながら若菜を見据えた。

「帰って」


それでも若菜は平然としていた。こんな女だったろうか。光は混乱する。運がいいと言った彼女。なら自分は運が悪いってことなのか。

二度と会わないつもりだった女にどんな顔をしたらいいのかわからず光は顔をそむける。視線の先、さんさんと光降る庭に伸びる枝先の緑がまぶしかった。





告白したのは光からだ。好きだ。私もよ。抱きしめて口づけて。思い出すのは甘くて切ない至福。想えば同じだけ想われると信じていた頃。たとえ結果がどうあろうと、光にとっては真実だった。つらい現実から眼を背けた闇の中、みつけた星。網目状に亀裂の入った崩壊寸前の世界でただ一つの拠り所。彼女に壊されるのは必然だったのだろう。

再会した彼女は当時と何も変わらずに見えた。「光」と呼ぶ声も、笑みも。「好き」と言えば今も「好き」と返すかもしれない。わかっていなかったのだとしみじみ思う。光にとっての彼女の存在と彼女にとっての光の存在、その重みが互いでどれほど違っていたか。

砂漠を彷徨うような乾いた苦さ、さらさら崩れ続けるだけのむなしさが若菜に会ってから消えない。葵に吹き飛ばして欲しかったのか。勝手な言い分だ。一週間ぶりに葵の顔を見て光はつくづくそう思った。


いつも忙しい葵だが、寝不足なのか目元に顔にクマができかけている。誰もいない喫煙室、ひとり気を抜いていたのだろう。にじみ出る疲労を隠しきれない葵はどこかポカンとした子どもの眼で光を見る。緑の生い茂る野原の日だまりからこちらを警戒する猫みたいだ。

ほんま葵は可愛い。
思った自分を光は凝視する。もしかして。

「……もう吹っ飛ばしとるわ」
「は？」

いつのまにか光の中で砂漠は野原に、苦さは甘さに変わっていた。なんという早業。

自分に及ぼしている威力を知るよしもなく、当惑顔の葵はパチパチとまつげを瞬いて一段とまなざしをきつくする。子猫が懸命に毛を逆立てるようでやっぱり。


「なんなの」
「ああ、うん。可愛い」
「可愛い？　寝ぼけてない？」

突拍子のない言葉に怒りを通り越し心配になったらしい。自分より背の高い光の額にすっと手を当ててきた。こういうところは母親気質とでもいうのか。弟たちの面倒をみてきた姉らしい仕草だ。

若菜が帰ったあと、ずっと憂い顔で物思いしていた桐子を思い出す。


「熱はないわね」
ぶつぶつ言う彼女の手を握りしめると姉さんモードが解除され我に返った。無防備にうろたえる表情。誘われた衝動に光は従った。
「え」

ぎゅうっと抱きしめた身体は、当たり前だが自分より細くて柔らかでいい匂いだ。押し寄せる安堵に浸る。端から見ると大きな犬が飼い主によりかかって甘える図か。葵の呆然としている気配にまで癒される。

「ちょちょっと、源、さん」
「ひ・か・り」
「へ？」
「光やて。何遍言うたら覚えるんや」

覆い被さるようにしてのぞきこむと、今までとは一変した負けん気いっぱいの気丈な眼で下から射られる。そこがまた快感だ。


「俺はとっくに名前で呼んどるのに」
「勝手にじゃないの。第一そんな必要が」
「そやからお願いしとるやん」
「強制とか命令に聞こえるのは気のせい？」

「気にせんと。なあ、呼んで？」
「ちょ、会社よ？　仕事中よ？　どうかしてない？」
「頼むわ。葵が呼んでくれるん、聞きたい」

聞こえる自分の声はなんとも情けない嘆願の部類だ。こんな甘えた要望は鼻で笑われて終わると確信したのだが、意外なことに葵はそうしなかった。情けない嘆願に何か、いつもと違うものが混じっていたのかもしれない。

見定めるようないぶかしげな眼で注視されたあと、うつむいた彼女がため息のようにこぼした言葉。
「馬鹿なこと言ってないで。人が来る前に放してよ。　……光」

消え入りそうに声を震わせて呼ばれた名前。息が止まった。甘さなんてかけらもなくて、たとえるならぴんと張ったピアノ線の強さと繊細さ。

二律背反の響きは耳に届くやいなや、光の中で新しい何かを形作り始める。若菜とは全く違う、特別な存在が息づき動き出したことの証明。


気恥ずかしいのか照れくさいのか、いつまでも顔を上げない葵の、あごを掴んで引き上げ唇を奪った。驚いた眼が見開く。思うよりずっと薄い茶色の虹彩は万華鏡に似ている。

キスの味はメンソール。ピリッと舌を刺す刺激も彼女らしい。そこでぐいとキスをはがした葵が、真っ赤な顔で毒づいた。


「何なのこんなとこで！　これだから男ってのは！」
言い捨てて喫煙室から飛び出して行ってしまった。

「……あー、さかってるやん、俺」
いつのまにか反応していた下腹部。顔を片手で覆った光はぶっと吹き出し、残された部屋で肩を震わせ笑った。数日ぶりの大笑いは、忍び込んでいた毒を洗い流すような気がした。


なのに。
仕事に戻った光を待っていたのは伝言だった。


「エントランスでお客様がお待ちだそうですよ。樫野さんて女性」

浮かんだのはかつて彼女が背中に立てた爪、鏡に映した血の滲み。


背筋に走った悪寒。振り払おうとしてしかし振り払えず。
光は再び困惑していた。