バレンタインのお返しを光に渡したのは一週間前になる。用意したキルトにやっぱり甘い物を足そうと、思いついたのが水月庵の桜餅だったのだ。

限定ものだし季節だし、せっかくなら美味しいものがいいに決まってる。自分にあれこれ言い訳しながら忙しさをぬって買いに行ったことなど、誰も知らないのだから適当にごまかせばいいのに。家族相手だと妙な後ろめたさがあってつい口ごもる。

「うん、まあ、そんなところ」
「なんだいこの子は。そんなぼんやりした返事があるかい」

キヌの鋭い声と鉄のきょとんとした顔に追い詰められ、葵の視線が泳ぐ。


「ちょっと、御礼に、その、ね」
「行ったならついでにうちにも買ってくりゃいいのに」
「今食べてるからいいじゃないの。ほんと鉄は食い意地ばっかり」
「悪いかよ。育ち盛りなんだって」

２５にもなってまだ育つつもりかと、思ったことは口にはしなかったのに、別の方から突っ込みが入った。


「あいつにだろ葵、あの電球野郎」

長男の鋭さに桜餅がつまった。さらに次男が追い撃ちをくれる。


「げ、何だよ。平家の仇にやったのか？　それっくらいなら全部俺によこせって」

弟たちのわけのわからぬ暴言にキヌは首を傾げるばかりだ。


「なんだいその電球とか平家とか」
「聞いてくれよばあちゃん。久しぶりに葵が男連れてきたと思ったら、てんで優男でさ」
「その優男に飲み負けたのは誰よ」

「負けてねえって」
「顔だけは良かったけどな」
「失礼ね。あれでも入社以来配属先では営業トップよ」
「へえかばうんだ」

「あーもうおやめったら！」
キヌの声でさすがにぴたりと静まる姉弟。

「銀、説明しとくれ。一体誰の話だい」
長男に言うあたりよくわかっている。

「源　光みなもとひかり　って芸能人みたいな名前の奴。葵の会社の営業で年明けに大阪から異動してきたらしい。成績トップで色男で酒が強くてしゃべりで気も強い」
「ふうん」
「葵とつきあい始めたばっかし」

「銀！」
「うそだろー！」

葵の悲鳴は鉄の怒号とダブルだ。ぎろりとキヌににらまれどちらも自分の口を押さえた。まさかばれてるとは思ってなかった葵は、おたおたと言葉を探している。



つきあい始めて二ヶ月半。カムフラージュという名目で承諾した関係は、翌日社長に報告された上、あっという間に社内中に広まり認知されてしまった。つくづくあの男は侮れない。

元々他の社員とさほど接点がないので影響あるわけではないが、周囲の特に同性からの目線にあからさまな敵意とか嫉妬とかが混ざったように思う。これまでだって好意的だったわけではないが。せっかく現れた「光る君」を速攻で攫ったのだからしょうがないというところか。

対する自分の気持ちはというと、年度末が近づくにつれ忙しくなり会う機会も減って、二ヶ月経っても互いの距離がよくわからない。たとえばバレンタインみたいに、彼は葵の隙をつくようにしてふわっと温かな気持ちをくれるから、戸惑う。困る。

たぶん嫌いではないのだろう。だが彼の中には、葵が触れられぬつるりとした壁もある。同様に葵の中にも、覆って囲って守っている自分だけの感情がある。つまりどちらも、まだまだ互いのテリトリーを手探りしている段階だ。



「源　光ねえ。それで平家の仇で電球野郎なわけかい？　発想が貧困だよ。光と葵なら源氏物語だろう、普通は」

きょとんとする鉄。眉をしかめる銀は内容くらい知っていそうだが、いずれにしろ男が喜んで読む話ではないし、葵自身もあまり好きではなかった。キヌはまだ銀に問いかけている。

「で？　あんたから見てどうだいそのお人は」
「よくわかんねえな。でも。直哉よりましじゃねえのか」

突然飛び出した名前に、葵の心臓が止まりかけた。適度に暖まったぬるま湯に突如冷水を注がれたみたいな。鉄があわてて腕をつかむが銀は平然としている。それはキヌも同様だ。


「そりゃいい。桜餅はそのお人にあげたのかい葵？」

にこやかに問われると否と嘘も言えず、葵は頷くしかなかった。銀がさらに言い足す。


「ホワイトデーだろ。喜んだんじゃねえの」
「あぁそういうことかい。そりゃ重畳だ」
「ええっ？　何だよそれ。ホワイトデーってのは男が女に返すもんだろ」

「……鈍いな鉄。２月におまえも食ったろ？　すげえ上手かったチョコケーキ」
「は？　え？　食った……けど……なんで？」

全てお見通しの長男。いまいち混乱状態の次男。祖母はというと一を聞いて十を知る人だから落ち着き払って茶を含みつつ、意味ありげなまなざしで葵をみつめてくる。なんだかひどく疲れた葵は、桜餅にかじりつきながら必死で知らんぷりを決め込んだそこへ。


「おう、けえったぞ」

ガラッと乱暴に戸が開いた。鋼だ。いつもよりやけに早い上、どう聞いても不機嫌な声。案の定仏頂面だ。飲みにも行かずに帰ってくるなんてどうしたんだろう。キヌにまでけんか腰だ。

「なんだお袋まだいたのか」
「親になんてぇ言いぐさだい」
「へ。還暦過ぎたら親も子も似たようなもんだ」
「この罰当たり！」
売られた喧嘩は買うのが江戸っ子だ。ちゃぶ台をちらりと見たキヌの笑み。

「あんたたち、あたしが許す。水月庵の桜餅食っちまいな！」
「やった！」
「よっしゃ」
「水月庵の桜餅だ？　まてまてまて、俺の分よこせ！」

あっという間に大乱闘に突入する家族から、葵は湯飲みごと台所へ避難した。桜餅の奪い合いなんて子どもじゃあるまいにとため息がでそうだ。話がそれたのはいいとしても。


さっき、元婚約者の名前が呼び起こした冷たく切ない感情がまだたゆたっていた葵は、しっかり桜餅に食らいついた鋼がむける苛立ちと懸念が混ざったような視線と、それを気にするキヌの顔色になど、気づく余裕はまるでなかった。