１-１４．敵もさるもの ー Here We Go！ー
パチッと。
目覚めた葵は手を伸ばし時計をつかむ。６時過ぎ、いつもどおりだ。
起きあがろうとして思い出す。日曜だった。１週間ぶりの朝寝坊が許される日。枕に頭を預けホッとして眼を閉じる。夢を見た気がした。何かとてつもなく驚いた夢。何だっけ？誰かが出てきて、手を差し出して。
『葵が欲しいんや』
ガバッととび起きた。心臓が突然全力疾走レベル。
落ち着け、落ち着いて。あれは夢よ。
手のひらで鼓動を押さえるようにしながら、うろつかせた視線が鏡台に止まった。紙袋のロゴ。葵は布団をはねのけとびつくと、中をのぞき込みへたりこんだ。
夢じゃなかった。
途方に暮れて見上げると、窓の外はようやく白々明けようとしていた。
「何言ってるの。人をモノか何かみたいに」
昨日。あわてふためく心とは裏腹に厳しい口調で光の言葉を交わそうとした葵だったが。
「どうどう落ち着きぃなって。別にここで襲うつもりないし」
「どうかしら」
不審そうににらむ葵に心外と言わんばかりの光の顔。
「そら昔は結構遊んどったけど……アホやわ俺。何言うとるんやろ」
「ほんとに」
「そやから。やりたいだけで欲しい言うとるわけや……これて自爆やろか」
口を押さえて眼を白黒させている。フォローになってないのは確かだ。
「つまりアレや。……恋人志願？」
「はあ？」
なんだそれは。今度こそ固まった葵に光は真面目な顔で聞く。
「ライバルいてるか？」
「らいばる？」
「今つきおうとる奴とか」
「そんな人いないわ」
「今好きな奴とか」
「いない…けど…」
「そらラッキー」
満面の笑みを浮かべられても。
「あのねぇ。火遊びもセフレも御免被るって言ってるの」
青天井の下。なんて似つかわしくない単語を並べているのか、などとためらうヒマはない。これだけ露骨にハッキリ言ってもまだ苦笑してるのだ彼は。頭に血が上ってくる。
「あなたが期待してるのはそういうことでしょ」
「そやろか」
「大体、社内でのつきあいなんてリスクが大きすぎるわ。おまけに相手があなたなんて。面倒の累乗よ」
「うわ。痛いわ」
胸を大げさに押さえてみせる光。わかってない彼が憎たらしい。
「隠してバレたらそれも大騒ぎじゃない。いざとなったら女の方が損するんだから」
苦々しげな口調にはつい本音が混じったようだ。まずい。
「とにかく」
「隠すことないやん。外には思い切りオープンでいこ。あぁでも葵の承諾なしに手は出さんて約束するし？」
「…は？」
「欲しいもんは欲しいて思うた時に手に入れんと」
さっきも聞いたような。
「そんなの私に関係ないわ」
「あるやろ。欲しいんは葵なんやから」
「あのね」
「それにな。こっちの女性社員の積極的なアプローチにも正直困っとるんや」
光にすればおまけのような言い訳が妙にストンと葵を落ち着かせた。なんだそういうこと。欲しいのは私じゃなくて虫除けね。真面目に抵抗していたのが馬鹿らしくなる。軟化した葵の心中を光は鋭く読み取ったようだ。
「葵も虫除けにできるで」
即座に浮かんできたのは昨日のセクハラ親父。あれは無理よね取引先だし。
「…私はちっとも得にならない」
「葵の欲しいもんもあげるし」
「欲しいモノなんて知らないくせに」
「営業のホープをなめんとき。な？ ええやろ？」
とてつもない間違いを犯そうとしている。
警報が鳴る一方で、気づかなかった自分が突然心に垣間見えた。足りない何かを求めてあがいている穴の底。
頷いてしまったのはリアルな切迫感のせいか。すぐにしまったと思ったが後の祭りだ。
「二言はなしやで」
再び、チェックメイト。天を仰ぐ。
「…わかったわよ。…で、何をもらえるわけ？」
少しふてくされた顔はらしくないと思いつつ止められない。この男は葵の素顔を引き出すのがうまい。
「手ぇ出し」
素直に出した左手をグイと引かれる。後頭部を包み込む手のひら。急接近の顔。
う そ
冬空の下のオープンテラスで、葵はあっさり唇を奪われた。あまりにも予想外で抵抗も罵倒も浮かばずに。キャーッと周りで騒ぐ声すら遠い。一瞬のキスに舌まで潜り込ませる男なんて、とんでもない。
瞬きの間に彼はもう座っていて、葵の手には紙袋が乗っていた。でも残っている強烈な感触。味。カーッと頬が染まる葵によりによっての一言が。
「ごっそさん」
握りしめた右拳を遊ばせておくことはない。即断で打ち込んだのにメガネの手前で受け止められるのは以前と同じだ。この男ときたら。葵の胸は煮えくりかえっている。
「手は出さんですって？ 舌の根も乾かぬうちによくも」
「ちょう待ち、待てって！ 今のはちょっとした手打ちて意味やし」
「関西弁のくせしてアメリカ人の真似？ 日本在住のれっきとした日本人が公衆の面前で！ どうして手打ちがキスなのよ。何考えてんの！」
「公衆て、んな大仰な」
「問答無用！」
「わー、タンマタンマタンマ、堪忍て！」
「却下！」
今にして思えばキスよりも、その後の方がよほど人目を引いただろう。葵にひけをとらない動きは思っていたとおり有段者に違いない。やられたフリで全て軽く受け流される。
結局葵は怒りが納まりきらずさっさと家路についたのだが。
帰り道であけた紙袋は、葵にとって最大の驚きだった。入っていたのはその日、葵が散々迷って結局買わなかったキルト用布地の束だった。
昨日を思い出しながら、取り出したそれらを葵は布団の上に広げてみる。彼を思い出すのはしゃくで、でも何を作ろうと思うと脳裏には彼が浮かぶ。
素敵な模様にそりゃあ迷ってた。欲しかったけれど。いつのまに彼はこれを買ったんだろう。最初から口説く気だったのか。 …口説かれたんだ私は。おまけに頷いちゃって。
キスの感触をまざまざと思い出して頬が赤らむのと同時に、置き去りにした彼と自ら招いた事態に明日を憂う。これからどうすれば。
あぁ頭が痛い。
月曜の朝。寝坊したわけでもないのに出勤がいつもより遅くなったのは、何かにつけて彼の顔が浮かんできたせいだった。今朝は社長に金曜日の御礼も言わなきゃならないのに。
走りこそしないものの足早でロビーを抜けようとした葵は、行く手に障害物を発見した。受付に寄りかかり笑みを振りまく天敵。眉が寄る。葵を見つけた光は身を起こした。一段と華やいだ笑顔に狼狽える自分が腹立たしい。
「葵」
いきなり呼び捨てにされてギョッとする。歩み寄ってくる彼の、企んだまなざし。
『思い切りオープンにするんなら』
まさか。
彼の後ろで受付嬢は、いつもの笑みを忘れて口をあけたまま。
「朝一番に顔みれんのはやっぱ寂しいわ」
絶対聞こえよがしだ。身構えたが逃げられなかった葵の、拒否を張り付かせた顔にクスッと笑うと、光は白い額に柔らかく口づけてきた。
「おはようさん」
あれだけ騒がしかった周囲が静まりかえった。痛いくらい集中する視線。頓着せずに光は強張って動けない葵の腕をとる。
「俺も今朝、社長に報告があるんや。いこか」
一瞬迷った葵だが、この凝視の中心に取り残される方が耐え難かった。とにかく今は三十六計、逃げるにしかず。
朝の忙しい時間だというのに二人だけをのせてエレベーターの扉は閉じた。とたんに吹き出した光は肩を揺らして笑い続ける。
「…っ、はっ、た、のしーっ！」
「あ、あ、あなたねえ！」
「隠すんはイヤなんやろ？」
「だからって社内中に吹聴するわけ？」
「伏兵がどこにおるかわからんから、この際な」
「はい？」
笑いすぎの涙を指先ではらって、光はさらに爆弾を落とす。
「あとは社長に報告やなぁ」
「……はあ？ 馬鹿言ってんじゃ」
「かめへんかめへん。葵は気にせんとき」
「気にするわよ！」
ついに気力が切れて葵はエレベーターの壁に寄りかかり目をつぶる。何これ。何なの。あの時求めたのは絶対こんな事態じゃない。
「考えすぎるんは禁物やで。楽しまな」
まぶたにさっきと同じ感触があった。開くと満面の笑み。朝から力一杯嬉しそう。この人変。変だけど。
もしかしたら。
チーン。
エレベーターが告げた合図。
「ほな行こか」
先んじてから肩越しに振り返る彼。期せずして胸に湧きあがる、怖いような嬉しいようなワクワクした気持ち。それが何かを突き詰めることなく葵は歩き出す。
何かが、始まる。
＜ Part１ ／ end ＞
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