葵を見つめる男の眼はさっきまでとは違った。まるで隣にいたはずが一瞬でワープして上の階から見下ろしてるような余裕だ。
警戒心と苛立ちで見返す葵は同時に思う。仇名って馬鹿に出来ない。


出会ってこのかた頭に来ることばかりだが、彼は魅力的な男だ。容姿だけでなく度量の広さもある。

突然訪れた恋人でもない女の家で、親兄弟に酒で挑まれながら平然と受け流し挙げ句返り討ちにするとか。娘に劣らず警戒心の強い父親に「又来い」と言わせるとか。単純明快な次男に比べると格段に用心深い長男をしてけしかけさせるとか。
どれも簡単なことじゃない。（父も弟も何を考えているのやら）


二日酔い確実な量の日本酒を三人がかりで飲まされた翌朝、昨日から着たきりのＹシャツと背広のズボン姿だというのに、あんなにもさわやかでしかも色気を漂わせる男。

光の君とはよく言ったものだ。平安の男もあんな鍛えた身体をしていただろうか。骨太の腕とか厚い胸板とかそれから…。


「葵？」

呼ばれてハッとする。見惚れていた？　なんてことだろう。


「や、悪い気はせぇへんけど」

しかもばれている。赤くなる顔を隠しながらしみじみ厄介な男だと思う。手に水筒の予備がないのを葵は悔やんだ。顔面にストライクする機会を逸してしまった。


「朝ご飯、早く食べてちょうだい」

思考を理性で現実的な方向へねじ曲げ、葵は光の横を触れないようにすり抜けた。銀と鉄の食器を片づけたちゃぶ台で向かい合うと、神妙に見えて目を光は踊らせている。知らん顔で葵は食べることに専念した。



客に皿洗いさせるなどもってのほか、父や弟がいたら総攻撃を食らうと拒んだ葵だったが例によって光は意に介さなかった。

「うち、ああやろ。身に付いてしもうとるんよ。気にせんとき」

気づくとふきんを手に彼から食器を受け取っている。ペースを奪い取られてばかりだ。器用に動く大きな指が次々と食器の洗剤を流していくのを、葵はどこか不思議な面持ちでみつめる。この家で台所に男が立つことは稀だから。

鋼はあり得ない。銀はそうでもないが鉄ときたら鋼の性格そのままで、上げ膳据え膳が常識だと思っている。いまどきの男とは言い難い。そのくせ彼女が居るのは銀ではなく鉄の方だった。世の中間違ってる。


「さて、しまいや」

またぼんやりしていたらしい。鍋やグリル、台ふきんまで洗い上げた光が手を拭いていた。


「やだごめんなさい、全部やってもらって」
「ちゃう」
「え？」
「やる言うたんは俺やから。あやまるんはちゃうやろ」
「じゃあ…その…ありが、とう？」

「礼もええから。今日、ヒマやろ？」
「は？」
「デートはどない？」
「どないて」

どうしてこうも唐突に距離を縮め、話を飛ばすのだろう。迫るメガネ。ふきんでレンズを拭いてやろうかしら。


「悪いけど」
「皿洗いと夕べの御礼てことで」

交渉が巧みな営業のホープ。葵が義理に弱いのも察している。


「で、でもね。まだ家事が」
「昼でええよ。俺もこの格好やし。いっぺんうち戻るわ」
「昼？」
「昼飯。一緒にええやろ。親父さんも弟らも弁当持ってったし、な？」

チェックメイト。気づけばシンクを背に追い詰められている。まずい。

イエスと言う他に葵には状況打破の手だてがなく。待ち合わせを１１時半と定めた光は「ほなあとで」とあっさり消えた。葵の鬱憤晴らしはふきんを台所の床に投げつけるのがせいぜいだった。





線路沿いにビルが並び立つ。珍しい光景ではないが、ここは線路両側とそれを繋ぐようにしてテラスになっていた。東京の冬空は西高東低の晴れが基本だ。線路の上をどこまでも続く青。

「お待たせしました。カプチーノとロイヤルミルクティーです」


真冬のオープンテラスなど非現実的だと思う光だが、風のない今日みたいな日なら悪くない。口元を緩ませる彼女の顔を光は黙って楽しんでいる。

向かいに座った葵の前には温めたカップにミルクが２分目。カップ２，３杯分の一人用ポットは真っ白な磁器だ。揃いのティーカップとソーサーも同じく。広くないテーブルの中央に置かれた砂時計が見えない時間を落としていく。


「紅茶じゃないのね」

カプチーノを手にした光に、葵が訝しげに問う。


「そらな。うちであんだけお茶責めくらうと、外じゃ違うもんがええわ」
「美味しかったのに」
「せやろ。うちのおかんはプロやからマジうまい」
「プロ？」

意外そうな顔に、光は葵が来た日を思い出した。


「葵は店の方へ行かんかったな」
「お店があるの？」
「うちの庭の向こうにもうひとつ屋根があったやろ」

思い出そうと首を傾げる葵。目線が空。


「おかんがティーサロンをやっとる。あれで店主やで」
「…知らなかった」
「砂。落ちとる。もうええんちゃう？」



思いがけない話にぽかんとしていた葵だが、光に促され沈めてあった茶葉をトレーに引き上げた。ミルクの入ったカップに注ぎ込む紅茶。オレンジペコとミルクが描く薄いマーブル模様はやがてパステルの均一な色へと変わる。香りはもちろん、口に含んだ味も優しい。温もりに葵はホッとした。


光はというとさっき買ったばかりの小さなナイフを弄んでいた。いわゆるアーミーナイフは昔、十徳ナイフとも言ったはずだ。ナイフ以外に缶切りとかスプーン・フォークとか、耳かき栓抜きヤスリキリ、果てはガラス切りもあったような。鋼がよく遊ばせてくれたのを葵も覚えていた。

光が買ったのはごくシンプルな、せいぜい五徳くらいだろうか。出したり引っ込めたりする彼はおもちゃを手にした子どもに似ている。クスッと笑っても照れもせずこっちを見やる。


「ええやろ」
「使うことあるの？」
「欲しいて思うた時に手にいれんと。葵はなんも買わんかったな。あんなに騒いどって」
「見るだけでおなかいっぱい。迷った時は買わない主義なの」
「そうか」

葵の主張に光はこれも逆らわなかった。



休日の新宿駅なんて久しぶりだった。先に着いた葵がきょろきょろしていたら光が見えて。つい手をあげてしまったのは人混みのせい。嬉しそうに手をふる光になんだかはめられた気がした。

どんなお洒落なところへ行くのかと思ったら、線路沿いをしばらく歩いてガードをくぐった先の小さな中華店。

「ここの中華そばうまいんや」
「知ってるの？」
「昔。高校ん頃よう来た。潰れとらんかったなぁ」

狭い店内なのにヒヤヒヤした。関西弁の人は声が大きいと思う。それに自信家。自分だけの思いこみだろうか。


実はラーメン好きな葵が満足するほど「中華そば」は美味しかった。「葵の上」をラーメン屋へつれていこうなんて考えるのは社内では彼ぐらいだきっと。とっくに食べ終えてニコニコこっちをみている光を横目に、葵はスープを飲み干した。


店を出た後、ぶらぶら歩いてたどり着いたのはハンドクラフト品を扱う有名店だった。店内でデパートとつながるその店は、おもちゃ箱をひっくりかえしたみたいに雑貨で溢れている。

葵ももちろん来たことはあったがいつも目的まっしぐら、こんな風に上から下まで眺めて歩いたのは初めてのこと。葵がはまったのは布地だった。専門店にしばらく行く暇がなかったので綺麗な柄につい舞い上がってしまったのだ。素敵なのがたくさんあって。


「…面白かったわね」
「店が？　俺が？」

聞き返されてから口に出していたことに気づき、あわてた。相手はそれこそ面白そうに葵を見ている。


「そうねどっちも」
「そら上出来」

嬉しそうに笑われると、言葉を間違えた気がする。あまのじゃくな自分。


「俺も楽しかったし」
「ふぅん？」
「ほんまやて。　…なあ？」
「何」
「俺ら相性ええて思わん？」

テーブルに頬杖つきながらのぞきこまれての言葉は、それまでと違う色があった。訳もなく跳ねる鼓動を隠して葵は平静を装う。


「そうかしら。どっちかというと悪いんじゃない？」
「ごまかしたらあかん。葵かてそう思うとる」
「思ってません」

目を伏せながらミルクティーをひとくち。


「そらな。唯一無二の相手ちゅうわけにはいかんけど」


気管に入りかけたミルクティーのおかげで盛大にむせた。ゲホゲホ咳き込む葵の背中を大きな手のひらがなでる。

「落ち着きぃて」


感触にパッと身体を起こす。中腰の光が首をかしげながらまた座る。相手の挙動にいちいち反応する自分への忌々しさは置いて、葵は光をまっすぐにらんだ。

「…何言ってるの？」

眉をあげた光は、片手に持ったままだったアーミーナイフを彼女に差し出した。受け取った葵は光とナイフを見比べながら、すべすべした表面を撫でてみた。


「大阪におる時から葵の噂は聞いとったんや」

親指でメガネの中央を押し上げる仕草は彼のクセらしい。


「才色兼備の秘書サンて。始めは眉唾思うとったんやけどな。２年経っても噂やまんし。暮れに本社戻ることになったところへカメさんが来て。興味は倍掛け」

渡されたナイフを手の中で遊ばせながら、葵は胡散臭そうに光の話を聞いている。


「カメさんに誘われて歯牙にもかけんかったいうし。そのカメさんは巫女さんにつかまっとるし。こら天のお告げや思うた」
「つまり」

葵は光から目をそらさない。


「あなたもゲームがしたかったんでしょ」
「…始めはな」



否定はしない。噂通りなら大人のつきあいができると思ったことも。後腐れのない楽しい関係。

「生憎ね。私そういうのに興味ないわ」


なんやろな。まるっきりの初うぶ　にも見えんのに慣れてる風とも違う。冷たいような熱いような。

キルトに使うという正方形の布地に眼を輝かせた彼女は、何時間でも張り付きそうに見えた。装飾品とかバッグ、服があるエスカレーターの向こうのフロアを気にもとめず、小さな布地に夢中になって。さほど高くもないのに買おうかどうしようか迷う姿は可愛らしくて。


光だって驚いていた。自分にこんな気持ちがまだ残っているとは。
思いもしなかった。


たなごころを上にして差し出した手。

「欲しいんやけど」


あっさり持っていたナイフを乗せようとした葵の手をつかんで、握りしめる。彼女の驚きと緊張がダイレクトに伝わってくる。

「え…え？」

「葵が、欲しいんや」


見開いた眼。瞳孔を囲む虹彩のグラデーション。



二人の視界の外を走り抜ける電車が、小春日和に似合いののどかなＢＧＭを奏でていた。