女ばかりの家に育つのは良い面・悪い面があるが、おしゃべりに慣れるのは確かだった。

光の実家は常に会話が渦を巻いていた。母と姉ふたり妹ふたり。５人全員が黙ることなんて世界が終わろうともあり得まい。環境については３つくらいで諦めた。


男としての対処法はふたつだけ。全てを聞くか、全てを聞き流すかだ。父は前者を選んだ。もっともそれは家族誰もが父に話しかけるから、話を聞いてもらいたかったからだ。光自身は後者を選んだ。母はともかく姉妹の話を全てを聞いてなどいられない。

もっともあからさまに聞き流すと姉妹から総スカンをくらうので、聞いたフリして聞き流すというワザをずいぶん早くに会得した。やがてそれは聞き流しながらも大事なところは聞き取るという、聖徳太子なみのレベルにまで磨かれた。


要するに光はにぎやかな中で生まれ育ち、そういう環境に慣れている。



「どうぞ」
「…あ、おおきに」


差し出されたご飯茶碗。うずたかく盛られた白米の輝きが光を今へと引き戻した。

畳の上でちゃぶ台に向かって胡座をかいている自分。彼の前には茶碗の隣に汁椀が並び、みそ汁が湯気をたてている。その先の平皿には卵焼き。隣に海苔。漬け物。ちゃぶ台の真ん中にある大皿の上には、少し焦げたししゃもがこんもりと、少し崩れた山を成している。


もしかしたら自分は昭和ドラマの撮影に紛れ込んだんじゃなかろうか。馬鹿な考えが光の頭を過ぎる。もちろんそんなわけはなかった。

光の真向かいに銀が、左には鉄がでんと座りはす向かいに葵がいる。およそ家とは真反対の和風設定と男女比率、何よりそこにあふれる沈黙が光を落ち着かなくさせていた。



１５分前のことだ。
葵が手早く用意した朝食をかきこむように腹に収めた鋼は、何かはさがったのか爪楊枝で歯を梳こうとする。

「ちょっと父さん」
「にらむんじゃねえ。いつものことだろ」
「だって」

葵を光が制す。


「俺なら気にせんといて」
「行儀が悪いわよ……みっともない」
「葵」

光の声が低くなった。

「親父さんにそないな言い方あかん」

葵が黙った。目を見張った鋼は、光と葵を見比べ爪楊枝を折った。


「あわただしくて悪いな」
「いや。俺こそ朝飯まですんません」


直後に玄関から人の声がする。

「棟梁ー、行きますぜ」
「おう」

鋼と葵が立ち上がった。ひとりで食べるわけにもいかず光も後を追った。

「忘れ物ない？」だの「お酒残ってないでしょうね」だのうるさく言いながら葵は、これもいつの間に用意したのか弁当と水筒を手渡している。


「鉄と銀もぼちぼち起こせよ」

水筒をつかんだ彼の大きくごつい手を凝視していると、鋼がもう一度光を見た。


「なかなかの飲みっぷりだったぜ。下手な関西弁は耳障りだが」
「ちょっと、父さん」

その言いぐさに声音を傾ける葵に構わず。

「良かったら、また来な」

「は？」
「…父さん？」


意外すぎたセリフだった。言い捨てて乗り込んだ鋼の車はエンジン音を遠ざからせて。ぽかんと遺された葵と光。


「…棟梁て？」

思わぬ問いに葵がのろのろと光を見る。

「ゆうべ言わなかった？」
「しゃべったんは俺ばっかりや」
「大工なのよ。火事と喧嘩が大好きな江戸っ子だから」
「あぁ。関東じゃ結構居てるな。関西弁の駄目な人」
「なのに」


どうしてあんなこと。
呑み込んだ葵の言葉がわかる。光とて胸に同じ問いがあった。


なんでやろ。てっきり。



戻った食卓には、さっきまで寝ていたはずの銀と鉄が座り込んでいた。

「いつの間に」
「眼は覚めてた」

髪を逆立てて目をこする鉄の横で、ティッシュで眼鏡を拭きながら銀が言う。


「朝から文句いわれるのはごめんだ」
「文句？」
「関西弁の奴に負けるなんざ、だらしねぇってさ」


銀の言葉に鉄が拗ねた顔をして光をにらんだ。つい笑ってしまう光に口をへの字に曲げる。

「綺麗な顔して飲むんだな。驚き桃の木」
「鉄。おまえ時々、古いよな」
「何だよ。銀だってつぶれたんだろ、同罪」
「おまえのほうが先だった」
「目くそ鼻くそってなぁ」

「鉄、銀も。ご飯よ。いただきます」


そうして始まった食事がやっぱり無言の行で続いている。しゃべらないというよりしゃべるヒマがないのだろう。男二人が食べる量は半端ではない。光の家族もよく食べると思っているが、所詮男と女では基本が違った。

ししゃもの山は跡形もなく消えようとしていたし、ご飯はすでに３杯目。みそ汁が２杯目。細身に見えるががっちりした身体にがつがつと吸い込まれていく。バキュームみたいだ。夕べの酒はまるで問題ないらしい。


しゃべらされてばかりの光だったが観察も怠らなかった。

眼鏡をかけた銀は弟よりも背は低いが理知的な瞳。口も頭も切れそうだ。背もガタイも大きい鉄が実は末っ子。いかにも体力勝負なタイプで、裏表ない単純明快な性格に見える。どちらも荒削りだが魅力的な顔立ちの父親似だった。

さっきの会話からすると鋼と仕事をしているらしいが、二人とも大工なんだろうか。


「食欲ないの？　和食じゃ口に合わなかった？」

葵の声に、停止ボタンでも押したみたいにふたりの箸も止まる。黙ったままの注視はひどく痛い。


「とんでもあらへん。ここ何年かまともな朝飯の方が珍しかったんやで。ひとり暮らしで」

大げさに首を振ってぼつぼつ食べることに気を入れようとしたところで、鉄と銀はガタガタ立ち上がってしまった。


「ごっそさま」
「…あんた懲りたよな？」

いまだ敵意を含んだ確かめるような鉄のまなざしを光は鏡のようにはねかえした。こいつ、親父さんのセリフ聞いたらなんて言うやら。答えのないのを答えと悟り舌打ちする彼。


「銀、先に車、行ってる」

上着をつかんで飛び出した鉄に対して銀は真っ向から聞いてきた。


「親父、あんたに何か言ったのか？」
「…なんや知らんけど、又来いて。社交辞令やな」

鋼を思い出して苦笑する光に、銀は眼鏡の上の眉をよせた。


「…逃げる気か？」
「銀？　何言ってるの」

葵の当惑が声ににじみ出ている。


「逃げるてなんや。あんたも弟と同意見やろ」
「だとしても素直に従う奴には見えなかったけどな」

意外な銀の態度に光は黙る。見透かすように目を細めて銀はさらに言った。


「ふぅん怖じ気づいたわけか。ならいい。そういう奴に用はない」
「あんたなぁ」
「女のケツ追う前に自分のケツ拭くのが先かもな。でも。逃がすと後悔するぜ、必ず」
「銀！」
「はいはい。行ってくる」

薄笑いを返し、怒っている葵の腕を軽く叩いて銀は出て行った。葵が追いかける。

残された光はイライラ。親父といい息子といいどういう奴らや。お見通しみたいなセリフ吐いてくれて。頭の中で文句をたれつつ何気なく玄関に目線を投げた光は、瞬間全てを忘れた。


三和土たたき　の向こう、彼女は自らを抱きしめるように両腕をまわして立っている。すっぴんの顔。襟足で切りそろえた髪が北風に乱される。セーターとジーンズはすらりとした身体の線そのまま。半纏が細さを強調する。

降り注ぐ太陽が浮かび上がらせる彼女はゆうべの装いとはかけ離れていた。クールで理知的でデキる女の権現たる「葵の上」ではない、でもそこにいるのも間違いなく、葵自身だ。


光の鼓動がトン、と打つ。


逃がしたら？　後悔するやて？　……そやな。そやろな畜生。
逃げるんも後悔も俺の主義やない。
交わすかぶち当たるか。どっちにしろ正面からやろ。


胸の奥に陽炎かぎろい　立つのは、ずっと忘れていた何か。



車を見送った葵が振り返る。　そこには再び、　狼。
起きがけの弱気はどこへやら。
期待と予感に光はいつしか微笑んでいた。