パチッと。
突然スイッチが入ったみたいに開いたまぶた。


見慣れた自分の部屋だった。薄暗さも静けさもいつも通り。なのに何か違う気がして、葵は瞬きを繰り返した。変わった様子は見えない。

布団から手を伸ばすと空気が冷たい。古い木造の家はどうしてもすきま風が入る。慣れてはいるが、冬の朝の冷え込みは厳しい。ゆっくり起きあがった葵はそこでようやく違和感のてがかりをつかんだ。下着で眠るなんてまずしないのに。

沸々と断片的に浮かんできたのは夕べの記憶。

調子が悪かった。
忙しかった。
パーティーがあった。

「あ」

葵の脳裏に浮かんできた顔。羽のように優しく耳を掠めた声。

『ええから寝とき。着いたら起こしたるから』


そうだった。パーティーのあと光がタクシーで送ってくれたのに。
又寝てしまったらしい。

眉をしかめながら両手で頬を包み込み、冷気で顔を洗うようにこすってみる。日頃警戒心が強くて、たとえ社長だろうとそばに誰かいて眠るなんてあり得ないのに。彼に限ってすでに２度目。どういうことなのか。

お腹に手を当ててみる。月に一度のやっかいな痛みは、綺麗さっぱり消えている。

「あ”」


さらに思い至った。寝てしまった、ということは光をひとりで、父や弟達と対峙させてしまったということだ。まずい。どうなったんだろう。まさかとっくみあいとか？

光はともかく家の男たちは短気で喧嘩っぱやい。嫌と言うほど知り尽くしている葵はあわてて立ち上がると着替えに手を伸ばした。鏡台の目覚まし時計は６時過ぎを指している。



階段を下りて洗面所へ行こうとした葵は、半開きになっている障子から見えた居間の光景に立ち止まった。空の一升瓶がある。飲むのは毎晩だがいつもより気合いが入っていたようだ。

広くない面積に丸太が転がっている。腹が、背が寝息で上がったり下がったり。暖かい布団で眠れるのに雑魚寝なんて男のやりそうなことだ。

ひとりだけ毛布をかぶっている利口者がいた……おかしい。着の身着のままで雑魚寝してる丸太が３本。毛布をかぶって１本。この家に丸太の如き男は３人しかいない。ということは。


一升瓶をよけながら忍び足で居間へ滑り込んだ葵は、毛布を上下させている丸太へ近寄るとのぞきこんだ。くしゃくしゃにした上着を枕にネクタイを下敷きにして首元を緩めただけのＹシャツ姿で眠っているのはまさしく、光だ。

少し赤らんだ顔。片手に握りしめている眼鏡。乱れた前髪が額にかかって。見惚れるべきか怒るべきか、酔いつぶれても魅力的な男なんてやっかいなだけだ。葵は誰にともなく文句が言いたくなる。


「結構強いじゃねぇか」

背中からの声に振り向いた。寝起きにしては、雑魚寝するほど飲んだにしてはさっぱりした顔で、胡座をかき首を左右に鳴らしている父親がいた。


葵の父・日高　鋼こう　は大工だ。曾祖父の代からの三代を数える。大工の棟梁は昔、火消しの長として名高い者が多かったらしい。大工の日高組は今も自警消防団の核として名が通っている。

還暦を迎えてもまだまだ現役の彼の身体は、小柄だが力仕事で鍛え上げた強靱さとしなやかさがある。まさしく鋼はがね　の如く。年の初めに近所の神社で梯子に乗る町内行事は多分来年もやめさせられそうにない。そんな父親。


「三人がかりで酔い潰したの？」

声に込められた非難に、鋼がのぞかせるきまり悪さはあくまでも少しだけ。つまり平然。


「言っとくが銀と鉄の方が先だったぜ。潰れたのは」
「ほんと？」

驚いた。そんなに強かったのか。自分と飲んだ時は先に酔ってたと思ったのに。


「スーツにネクタイ、おまけに胸くそ悪い関西弁のくせしてな」
「そんな言い方失礼じゃない。あたしを送ってくれたのよ」
「ほめてんじゃねえか。乱れもしねえでよくしゃべる、なかなか面白れぇ酒だった」
「一体何をしゃべってたんだか」

やばいこと言ってないでしょうね。ヒヤヒヤする。


「六甲おろしなんか歌おうもんなら殴り倒してやろうと思ってたのによ。生まれは東京だって？　しかも山の手」
「大きな家だったわ」
「なにぃ？」

膝頭の上で頬杖をついていた鋼が眉を上げさっと身を起こした。つい思い出していた葵は失言に気づく。


「おい。おめえこいつの家に行ったことあんのか」

気色ばむ父を知らん顔でかわそうとする葵。


「あるわけないでしょ。そういう噂ってこと。社内でも有名人なんだから彼」
「有名人？」
「バリバリの営業マンで色男」

交わしたはずが鋼は別のところを突いてくる。


「その色男がなんでおまえを送ってきたんだ」
「彼言わなかった？　社長が気をまわしてくれたのよ」
「おまえが承知したからだろう」
「調子が悪かったんだもの」

「帰り着かないうちに眠り込むなんてことなかったじゃねえか。ずいぶん信用してんだな。四つ木の倅せがれ　以来だ」

その名前は禁句だった。いまだに。きっと父を睨んだ葵が言い放つ。


「今日も現場じゃなかったの？」
「・・・ちっ。おめぇもとっとと朝飯作れよ」

時計を見上げて立ち上がった鋼はしかし、娘をやっぱり見下ろした。


「その男、信用するにゃ早すぎる」

葵は笑い出しそうになった。鋼に言わせれば２０年でも早すぎたのだ。胸が痛い。


「…鉄と銀は起こさなくていいわけ？」
「資材を取ってくることになってる。あと１時間寝かせとけ」
「わかった」

洗面所へ向かう父にため息を吐いた葵は、膝に触れた手にギョッとした。光がどこか寝ぼけた眼を毛布の陰からのぞかせている。


「何よ。起きてたの」

焦る。いつから聞いてたんだろう。


「タイミングがあるやろ」

目尻を爪先でほじくりながら起きあがった光はううんと伸びをした。


「あぁ寝不足や」

口ではそう言っても二日酔いには見えない。父と弟を相手にして平気だなんて、豪の者だ。


「迷惑かけちゃってごめんなさい。朝ご飯食べていって。今作るから」

台所へ向う葵はざっくりしたセーターにジーンズ。半纏の下のすらりとした体つきを光はじっとみつめた。



ゆうべ、話していたのは光ばかりだった。自分のこと。仕事のこと。会社のこと。葵があまり話さないのだろう。日高家の男たちは無口ながら興味津々という姿勢で聞き入って。そこにつけこんで銀と鉄に酒を注ぎ、なんとか先に潰すことに成功したのだが。

さすが年の功、いや鋼？　彼はまるで動じず。自分がいつ眠り込んだか記憶にない。でも毛布をかけてくれたのは鋼しかいなかったはずだ。


さっき、眠りの中にぼんやり忍び込んできた父と娘の会話。


『ずいぶん信用してんだな。四つ木の倅せがれ　以来だ』
『その男、信用するにゃ早すぎる』

四つ木の倅？　誰のことだ？　過剰なまでの父と弟の反応。人知れぬ葵のガード。それらが示すことを光は考える。


信用を裏切った男がいたんだろうか。
彼女には。


眉を寄せかけた光の顔は不意に苦笑になった。
人のことは言えないくせに。自分だって、こと恋愛に対して信用とか信頼は失せてしまっている。あの時から。なら、深入りはしない方がいいのかもしれない。



台所で立ち働く姿を遠目に、光は葵に逢ってから初めて、迷いとためらいを感じていた。