| １-10．夜更けの攻防 ーハンターお出迎えー
「んー・・・ぅん」
寝苦しそうだ。さっきから彼女が漏らすのは呻き声ばかりで見下ろす光を不安にさせる。病院へ連れて行こうかとも思ったが、彼女の説明が本当なら行って楽になるものでもなさそうだった。
『…生理痛だから。いつもじゃないけどたまにきつい時があって…』
眉間の皺よりも青を通り越して白くなっている顔色が痛々しかった。タクシーに乗せるや強引に膝の上へ寝かせた光に、ろくに抵抗もしなかったのだから相当だろう。
そういえばさっき、会場で背後から近づいた時も気づくのは遅かったと思い出す。
「み、なもとさん。驚かさないで」
「堪忍。別に忍び足は使うとらんけど」
「来てたの。営業のホープだもの当然ね」
皮肉混じりなのは具合の悪さも手伝っていたのだろう。
「そのホープは社長からの伝書鳩や。有能な秘書さんに」
「社長から？」
「本日の業務はこれにて終了やて」
葵の表情が険しくなった。
「何言ってるの。まだ会合が残って」
「ひとりで間に合うそうや。もう行ったんちゃうかな」
あわてて時計を見、社長を捜す葵を光は改めて眺めた。こんな美人は確かに触りたくなる。男の性さが だ。だからってさっきのエロ爺を許す気にはならない。振り返った葵の血の気が足りない顔を見れば尚更。
「やられたわ。社長ったら」
「大事な秘書さんやし。思いやるんは当たり前やろ…真っ青や」
思わず頬に手をやる仕草が頼りないものの、口調だけは強気だ。
「悪かったわね。真っ赤ならお気に召して？」
「青よりや安心やけど。やせ我慢してもええことないで」
反駁しかけたが葵は口を閉じた。光の瞳にからかいとは別の真面目な心配を見て取ったのかもしれない。諦めて呟く。
「そうね。帰るわ」
「送るし」
また上がる眉。口を開く前に光は、社長の筆跡が残るコースターを印籠の如くかざしてやった。
「社長命令。自宅なんやろ？ 家の前までならええやん」
不承不承従った葵はタクシーに乗った後も調子が悪そうだった。光の膝に乗せた横顔。額にかいている汗をハンカチで拭ってやるが、青白い頬は冷たい。
姉妹にはさまれて育ったのもあり、月経と聞いても風邪と同義語にとる光だが、考えてみれば女性は毎月こうした痛みを経ているわけで。楽やないなぁと今さら実感する。濡れた前髪をかきあげてやるとギュッと寄せていた柳眉が少し緩んだ。
『弱音を吐かないのは長所で短所』
陸見の言葉は葵の性格を言い当てていた。さすがによく見てると思う。それなら自分が彼女に抱いている邪よこしま な感情もわかっているだろうに。そういえば。
『ハンターに気をつけろ』
あれは一体？
細くなった道を速度を落として走っていたタクシーがゆるゆる止まった。
「お客さん。多分この辺だと思いますが」
「すんません。葵？ うちどこや？」
声をかけても目は開かない。熟睡だ。呻き声もなくなっている。仕方なく葵を抱いて光はタクシーを降りた。
どうもこのパターンが多いなぁと苦笑しながら周囲を見回す。いかにも下町だ。葵の日頃のイメージとはずいぶん違う。
「ちょっと、あんた」
「は？」
乱暴な声だった。エプロン姿の女性が葵をのぞき込むのでギョッとする。
「やっぱり、葵ちゃんじゃない。どうしたの」
知り合いだろうか。疑わしげな表情が説明を求めていた。
「ちょっと具合が悪うなったんで送ってきたんやけど。家がようわからんで」
「あら大変。すぐそこよ。棟梁ー」
走り出した女性をあわてて追いかけながら、光は首を傾げた。
棟梁て？
女性が駆け込んだ家は確かにすぐそこ。タクシーが止まった場所から十数メートルの古そうな木造の家だった。葵を抱え直した光の前に、そこから飛び出してきた影がふたつ。
「葵？」
「葵！ どうした？」
飛びかからんばかりの二人の男。殺気を感じて光は葵をかばうように半身になる。街灯の逆光で見えづらいが、二人は背の高さも体つきもよく似ているようだ。
「あんたら誰や」
「そりゃこっちのセリフだ。おまえこそなんで葵を」
「鉄」
先に怒鳴った方が背は高いが、あとから止めた方が年嵩のようだ。さっきから胡散臭そうに見られてばかりで、割に合わない。
「仕事先で具合悪うなって。タクシーで送ってきたんやけど途中で眠ってしもうたんや」
顔を見合わせたふたりの、さらに向こうから野太い声。
「銀、鉄。とにかくあがってもらえ。夜中に近所迷惑だろうが」
外は冷える。腕に抱いた葵が気になった光は二人の返事を待たずに家の方へと急いだ。
玄関に仁王立ちして待ちかまえているのがどうやら、日高家の主・葵の父親らしい。じゃあ後ろから付いてくるのは？
『ハンターに気をつけろよ』
陸見の声が過ぎって舌打ちする。前後を挟まれてどうしろと。狼が本性出せる状況ではない。
下心もシッポも見破られないことを光はひたすら祈った。
沈黙が居間を支配している。
カッコンカッコン、やたらに響くのは時計の振り子。柱時計なんてすでに骨董の域かと思っていた。普通に動いているのを光は初めて見る。
年季入ってそうやなぁ。
それを言うならこの家全てが、かなり時代物かもしれない。中でも一番はやっぱり、光の目の前にでんと胡座をかいて腕を組んでいる人物だろう。
浴衣の下からのぞく股引が何の違和感もない。昭和を題材にした映画なら絶対出てきそうなキャラだ。ふさふさした眉毛は太い。眼光も鋭かったが、さっきからまぶたを閉じて一言も発しない。座った当初こそ気合いを入れて構えた光も３分、５分と経つにつれキョロキョロし始めていた。
一間ほどの玄関へ挨拶もそこそこに上がり込んだ光は、先に立つ相手に従って葵を抱いたまま階段を上った。通されたのは多分葵の部屋なのだろう。座り机、鏡台、座布団。女性らしい配色と小物が散らばっていた。
押し入れから手早くのべられた布団に光はそっと葵を下ろした。ヒールは落としてきたがコートは着たままだ。のばしかけた光の手はいつの間にか付いてきたさっきの二人に押しのけられる。
「世話をかけた。あとはやる」
有無を言わさぬ雰囲気に仕方なく諦めた。眼で誘う男のあとから階段を下りると居間へ通される。八畳ほどの広さ、奥に見える台所。とりあえず正座した光。男は危なげない手つきで茶を入れると、茶托にのせた湯飲みを光の正面に置き、そして沈思してしまったのだ。
すでに１０分。向かい合う男の頭上、針を進める柱時計を見て思案するが諦める。明日は休みだし急ぐ用があるわけでもないし。トントンと階段をおりる足音がした。さっきのふたりが連れだって現れると男の横、光の斜め前あたりに並んでこれも胡座をかく。
待ちかまえていたように男が眼を開けた。きっつい眼しとんなぁ。営業でいろいろな人物と渡り合ってきた光だ。臆することはないが手強そうなのは確かだ。相手にはどう見られているのだろうか。
「葵の父親だ。世話をかけた」
頭を下げられて緊張する。葵の父は横の二人にも顎で促した。渋々といった風にふたつの頭が下がる。
「弟だ」
やっぱりと思った。さっきはいきなりで余裕もなかったが、顔立ち、顎と鼻筋、眼。よく似ている。つまりどっちも男前。なんだか腹が立つ。
「…同じ会社で営業やっとります、源 光、言います。夜分にすいませんでした」
ぴくぴくと相手の眉が動いている。なんやなんか、まずいこと言うたやろか。光は焦る。
「立ち入ったことを聞くようだが。 …あんたと葵はどういう？」
「どういう、て」
「なんであんたが送ってきたんだ」
焦れたように弟のひとり、背の高い方が口を出した。光には意味がわからない。
「俺やとなんかまずかったんやろか」
「そうじゃなくて」
「鉄」
多分年上の方がいなすように声をかけるが、光を見る眼の鋭さは大して変わらない。
「あんたがどうこうじゃない。葵はずっと、とにかく男を寄せ付けることがなかったから」
「は？」
言われた意味が伝わらず光は瞬きを繰り返した。
寄せ付けない。男を。葵の上、が？
なんやそれ。彼女は社内一デキル上にもてる女やろ。百戦錬磨の手練れとちゃうんかいな。
「うそやろ。あない別嬪が？ ええ？」
否定も説明もなく、また沈黙がしばし。葵の父親がじっと光をみすえ口を開く。
「だから、俺たちがあんたを見てどれだけ驚いたか、わかるだろう」
「いや、俺はたまたま社長命令で」
「社長だろうと会長だろうと、あいつが承知しなきゃありえん。ここに来たということは葵がそれを容認したということだ」
だったらどうやっちゅうねん。言外のプレッシャーにわめきかけた光をさらに睨め付ける相手。
「…源さん、だったか」
「は、い？」
ずいっと顔を近づけられ、その爛々とした眼に光もびびる。
「せっかくの葵の客人だ。つきあってくれ」
突然どんと置かれたのは一升瓶だった。差し出される茶碗を唖然としながら受け取る。いきなり酒。なんで？ また日本酒？ 他の二人の手にもいつのまにか茶碗がある。
なみなみと注がれた最初の一杯を飲み干すや即座に、弟二人もそれぞれ注いできた。飲めるものなら飲んでみろと言わんばかり。仕事での挑発はのらりくらりとかわす光だが、ここで逃げるのは癪に障る。酒量で何が計れるのか知らないが理屈はともかく。
光は続けざまの三杯をあっさり飲み干すと、相手の手元の一升瓶を奪い取って注ぎ始めた。それにしても三対一。どう考えても不利だ。舌を巻くほど強かった葵。父親と弟はどれだけうわばみか推して知るべし。でもいまさら。
ちらと視界に入った神棚。まさに苦しい時のなんとやら。光は心で手を合わせ祈った。神さん仏さん、この際誰でもええから。明日、自分が無事でありますように。頼んます。
ハイペースで続く無言の酒盛りに、天啓はなかった。
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