運なんて信じちゃいないけれどあるとするなら。
今日の運気はきっと、　最低。

その日、葵は何度もそう思った。





取引先からの会合延期の連絡で始まった朝、体調の悪さに構っていられなくなった。

あくまでも向こうの都合。こっちに落ち度はないから単にその時間が空くだけのはずが、入れ替わりに別の会合が飛び込んできてややこしくなった。空いた時間に入れれば一件落着だと思ったのに、その会合の場所がやけに遠かった。おまけに終了は予定を大幅にオーバーしてくれて。


１日の最初が狂えば当たり前ながら全部狂う。調整に大わらわ。


今日に限って欠席もままならない重要会議が目白押し。押しまくり。なのに高速は渋滞に陥って動く気配がない。滅多なことでは取り乱さないと自負しているが、どんどん押していくスケジュールが眉間に皺を寄せてくれる。


ついでに下腹部の痛みが後押しする。弱り目に祟り目とはこのことか。閉じた目の間を指先でもみほぐしていた葵は、クラシックの曲にまぶたをあげた。彼女の隣でにっこり微笑むのは上司で社長の陸見くがみ　。


「美人が台無しだ。待つしかない時は待つのを楽しまないと」
「…すみません」


葵は自分を恥じた。まだまだと思い知らされる。上司に恵まれているのは喜ぶべきだけれど、そこに胡座をかいていてはいつになっても半人前だ。





秘書として引き抜かれた葵だが、実務経験は短い。高校在学時に秘書検定準１級を取得。卒業後の就職先で秘書として２年働いた。わけあって部署が変わりキャリアは途切れた。数年後さらに転職した先も事務職だったが努力を続け、改めて１級にチャレンジ。見事取得したのだ。


陸見はそんな葵を高く評価し、自分の秘書としてキャリアを生かすよう１年かけて説得してくれた。もっともこれは二人のみが知る事実だ。


『ふたりで、一流の社長と秘書になろうじゃないか』


当時、半ば人間不信だった葵を奮い立たせ、前に進ませたのは彼だ。その期待を裏切るまいと努力してきたつもりだけれど、足りない。のろのろ動き出した車に安堵しながら、葵は自分に歯がみする思いだった。




ようやくこなした会合のいくつかも今日に限って小さなミスが多かった。どれも相手側の連絡不足なのだが、葵の神経をすり減らしてくれて体調はさらに下降線をたどるばかり。


とどめは夜に待っていた。取引先の事業記念パーティーが控えていたのだ。社長と葵はもちろん、営業からも数名招かれたパーティーは人数はともかく重要度ではランクＡ。顔は出さねばならない。


会場先のホテルで準備してきたドレスに着替えながら、葵はいまさら女であることを呪いたくなった。女でなければ装いに気を遣わなくてもすむし、なにより今日の体調そのものが女故。やまない痛みが苛立たしさを増してくれる。

女で良かった、そう思ったことなんて数えるほどしかない。それだって最後は−だめだ。今そんなこと考えちゃ。流し込んだ痛み止めが今度こそ効いてくれることを祈った。



上品なデザインのドレスは黒。くるぶし丈のラインが細い足首を美しく見せる。シンプルなドレスとシンプルなアクセサリーが葵のスタイル。ぴしっと伸びた姿勢とまっすぐなまなざしがそれを引き立てるのだが、今夜はその目も曇りがちだった。それを隠して社長と、或いは一人で取引先との挨拶をこなしていたが、追い打ちをかけてくれる輩もいる。

「やあ日高くん。相変わらず美人だねぇ」


赤ら顔で近寄ってくる相手から逃げ出さないためにはかなりの気力がいった。別の取引先の重役だが、いつあってもセクハラまがいで交わすのに苦労する。今夜は会いたくなかった一人だ。だからといって。


「大下さま。お変わりありませんか。本年もよろしくお願い致します」

すでに１月も終わり近くとはいえ、年開けて会っていない取引先への挨拶は大事な仕事だ。


「固い挨拶はいいさ。おや飲んでないのかい」
「いえ私は」
「君はいつもそう言うけど、実は酒豪だって聞いてるよ。年明けの乾杯くらいはいいだろ」

秘書をただの付属物としか考えない態度。いつもなら平気なそれも今夜はひどく気にさわる。軽いワインも身体にきつい。


「おお、言い飲みっぷりだねぇ」

クラブの女の子じゃないんだから勘弁して欲しい。あぁもう。強張った笑みで大げさに視線を動かしてみせる。


「あらあれは…すみません。まだ皆様にご挨拶がすんでなくて。失礼します」
「おやそうかい？」

一礼して去り際のそこで、するりと腰から尻を撫でられた。背中をゾッと悪寒が走るが足を留めたら怒鳴りだしそうだ。知らんぷりするしかない。


足早にそこを離れた葵は別の相手に会釈しつつ断固とした笑みを浮かべた。悪寒が煽った痛みを意志の力でねじ伏せながら。


遠くから注がれている視線に気づく余裕などありはしなかった。





「源、ほらグラス」


話しかけた同僚はふりむいた光に驚いた。


「なんだよその仏頂面」
「え。いや。やなもんみてもうたわ」
「やなもん」

光が見ていた先へ目を遣った相手は、不思議そうに首を傾げる。


「葵の上だろ。やなもんどころか目の保養」
「彼女やない。あの赤い顔した奴。露骨に触りよんで」

相手も同じしかめ面になった。


「あー大下常務な。あれはセクハラで訴訟おこされかけたらしいし」
「そやろ」
「まあなぁ。葵の上じゃあの人でなくても触りたいだろ」
「自分な」

光の剣幕に相手が引いた。


「おい冗談だって。おまえが怒ることないじゃん」
「別に…怒ったわけやない」

差し出されていたグラスをようやく受け取った光の、目線は葵を追い続けている。



正月気分もぬけ、仕事が日常になれば社内で顔を合わせることはそうそうない。実際、あの日以来まともに会っていなかった。携帯の番号も聞かなかった自分が光はおかしかった。

（光の君、形無しやなぁ）


だからこそ楽しみにしていたのだ。出先から直接のため遅れて着いたパーティー会場。葵は社長とともに来ているはず。

陸見社長のモットーはいくつかあるが、ふさわしい場所にふさわしい装いを要求するのもその一つだ。スーツの葵しか見たことがない光の、期待は裏切られなかった。


すでにセレモニーは終わって三々五々散らばった人が歓談している。とりあえず営業としての挨拶をすませた光は人波にも負けず、吸い寄せられるように葵をみつけた。いや、目を奪われた。


黒のドレスは何の装飾もないあっさりしたデザイン。にもかかわらず洗練されている。フレアに広がる裾はイレギュラーで、ちらちらとのぞく足首に惹きつけられる。広すぎない胸元には一連の長い小粒のパールが無造作に一結びされていた。スッと伸びた背筋が綺麗だ。その、眼？


馬鹿みたいに見とれていた光はそこで、いつもと違う彼女の様子に気づいた。ともすればしかめがちの眉。笑みに晴れやかさが足りない。気のせいかとも思ったが、さっきの不愉快なジジィのおかげで−せいで、確信した。おかしい。体調が悪いのか？


近づこうかと思ったそこで彼女の背がまたしゃんと伸びる。別の相手にむける笑み。わずかな翳りを読み取らせまいとする。自分が気づいたのが不思議なくらいの気力。葵は今仕事中なのだ。プライドをもって。退けといっても退かないだろう。迷った。


「源」
「なん…　わぁ」

無防備に振り向くとそこに社長。あわてた。


「なんだその顔は」
「や、その、驚かさんといて下さい」
「どういう意味だ。ボケッとしてるな。恋わずらいか？」

涼しい顔して突っ込む洞察力に舌を巻く。葵を見ていたことはばれてるんだろう。気にはしてるが恋じゃないと訂正しようか。いやそれより。


「社長、あの」
「ちょっと頼まれてくれるか」
「え」

手にしたグラスがたいして減っていないのは光と同じ。こういうところでは飲まない人だ。


「このあとも予定があるが、私ひとりで足りる。日高くんを送ってくれ」
「送る？」
「弱音を吐かないのは彼女の長所で短所だ。ぼつぼつ限界だろう」
「社長知って」
「金曜だからな。週末は休めるからと見てたんだが」

陸見が苦笑いする。


「辛いと言わせられんようでは、私もまだまだ」
「…そういうとこが彼女をまた追い立てるんやないかと」
「おまえも言うな」
「そやけどなんで俺に。却って危ないんとちゃいます？　第一彼女が素直にきかんやろに」
「社長命令だ」


胸ポケットからペンを取り出した陸見は、テーブルにあったコースターにさらさらとメモして光に渡した。


「彼女の自宅住所だ。ハンターに気をつけろよ、狼」

陸見の背中を見送った光は、首を傾げながらコースターを見直す。


「…言うてくれるわ。しゃあない。せいぜいシッポ隠してこうか」


口調とは裏腹になんとも楽しげな笑みを浮かべた狼は、辛うじて気力で自らを律している赤頭巾の捕獲へと歩き出した。