「もしもし、鉄？」

『葵？　何やってんだよ。連絡もしないで』
「ごめん。ちょっと飲み過ぎちゃって」
『へぇ珍しい。うわばみの葵が』
「人を化け物にしないで」


葵が話しているのは洋館の庭だ。広々と野原みたいで心休まる。広い庭の向こうにはもう一つ平屋があるらしい。庭の真ん中に背の高い生け垣があり、その上から屋根だけが見えている。


それにしても美事な庭だった。ガーデニングに詳しくない葵でも、世話の行き届いていることは容易に見て取れた。だからといって整然としてるわけでなく気ままさもある。花も草も木も伸びやかに天を仰いでいる。
自由に。


『葵？』
「ああごめん。午後には帰るから」
『なるべく早くな。うるさくてしょうがねえ』
「はいはい。じゃね」


携帯を切った葵は周囲の草木に倣って空を見上げた。すでに雲に隠されがちの冬の陽ざしはどこか儚く透明だ。眼を閉じてやっと感じ取れる温もり。


「寒うないか」

この男はどうも心臓に悪い。葵は上がった心拍数を悟られまいと平静を取り繕った。隙だらけに見えて気配が読めない。


「平気。素敵な庭ね」
「そうか？」
「そうよ。思わない？　みんな・・・生きてるわ」

見開いた相手の瞳で自分の言葉の大仰さに気づいた。恥ずかしくて顔をそらしたが返ってきたのはどこか驚いたような声。


「・・・せやな。変わったんかもしれん」
「変わった？」

意味が分からず繰り返す葵。光はあたりに視線を彷徨わせている。


「気づかんかったわ」
「自分の家でしょうに」
「戻ったんは暮れやけど旧交を温めるのに忙しぃて。庭なんか改めて見んし」

「そんなに久しぶりなの」
「そやなぁ。ここ何年かは盆暮れぐらいや」
「丁稚奉公みたいね」

光がクッと喉を鳴らす。


「葵はほんま時代物好きやな」

真実なので反論できない。それだけではないのだが。


「ゆっくり庭見るんはそれこそ、十年ぶりかもしれん」
「そんなに変わった？」

問われて光の眼はゆっくりと葵へ戻る。


「生きとる」
「・・・人のセリフ取らないで」
「ちゃうねん。葵はやっぱ鋭いわ。他に言い様あらへん」
「意味わからない。前はどうだったの」

光の眉間に皺がよった。追求されて気に障ったのだろうか。沈黙に話題を変えようとした矢先、ポツンとこぼれた語彙が彼には不似合いすぎた。


「がんじがらめ…やった」


それっきり口を噤んだ彼に葵は気まずそうにしていたがすぐ、まだ鮮やかな色のポインセチアの群れにひかれてしゃがみこんだ。襟足で切りそろえてあるストレートが、頭のてっぺんで綺麗なつむじを描いているのを光は上から見下ろした。



変わったのは自分か、庭か。
それとも母なのか。


ここに居た最後の１年はむちゃくちゃだった。怒鳴って暴き立て傷つけあって。どれだけ月日が経っても、こんな風に穏やかに戻れるなんて思えなかったあの頃。

なのに今、ここに居る自分。
結局−



「・・・・これって」

とまどった声に振り返る。いつのまにかそぞろ歩いていたらしい葵が庭の隅で立ちつくしていた。ああ、みつけたのか。ゆっくり光も近づいた。


白い大理石の碑はさほど大きくないが、作って１０年も経つとは思えないほど綺麗だ。白さと艶が大切にされていることを伝えてくる。表に彫られた文字も。


「と、お、る、ね、む、る」


ゆっくり葵が読み上げた名前にいまだ痛みを覚える光。

「親父や」


葵は伸ばした手でそっと触れた。すべすべした感触は冷たい。
小町の夫。彼の父親。


「これ、お墓？　ここに作ったの？」
「いや。小町さんが親父の物を集めて埋めて作ったんや。墓もそんなに遠ないのにな」

父に惚れて惚れぬいていた母。残されたのが許せぬくらい。光は記憶を辿る。


「これ建てたん、親父が死んで４年も経ってからやで。４年経ってもまだこういうもんが要るなんて普通やない思わん？　早死にするんも罪やでほんま」


小町が甘く綴った『融さん』という声が葵の耳に甦った。２９の光が中学の時というならもう１５年近く。なのに今も焦がれているのだろうか。もしそうならきっと。辛かったのは彼女だけじゃないはず。


「・・・そういう親を持つのって大変よね」


光が葵をまじまじと見た。まさかそんなことを言われるとは思いもしない。理解も共感も滅多に得られるものじゃなく、せいぜい「お気の毒ね」「可哀想ね」それが関の山だった。今まで。


「余人に代えられぬ唯一人がいること、そういう人と過ごせる幸運と不運を、どうしても刷り込まれてしまうでしょ。究極の理想を、ね？」

彼女が知らないはずの自分の過去をえぐりだされるようでギョッとする。


「そんな相手に人生でそうそう出会えるわけないのに。地球の人口、知ってる？　６５億よ。出会えなくても不思議じゃないでしょ」

空の彼方を探すように見やって、光にというよりも独り言みたいに葵が呟いた。


「６５億の中のひとり、なんて」



返答に窮した光を顧みもせず、葵はきびすを返す。伸ばした手の先をすり抜けた彼女を光はただ見ていた。


６５億分の１の奇跡。


そんな相手がいる幸せを目の当たりにしてきた幸運。
そういう互いを親に持ったことの不運−か。


「光？　彼女タクシーで帰ったけど、送らなくてよかったの？」

ぼんやりしていた光は藤尾の声にギョッとした。

「あほな。マジ？」


ぽかんとして、それから光は笑い出したくなった。
やられた。

なるほど、葵の上、か。　一筋縄じゃいかない。



再び仰ぐ冬空。曇天の中を彷徨い、おぼろげな輪郭だけぼんやりと浮遊させる太陽はさっきの葵の眼に似ていた。

つかめない幸せの影だと、何故か思った。