遠い小声のやりとりは何かの呪文にしか聞こえなかった。
抱きかかえられたのはぼんやりわかったが、ユラユラ揺れてまた意識はブラックアウト。そのまま沈没したのに。

今目覚めたのは自衛本能だろうか。


抱きしめられている。
額に頬に顎に触れるのは唇。やわらかな愛撫が気持ちいい。大きな手のひらが腰からおしりを撫でもう片方は首筋を這い上がる。おもわず背を反らすと喉元を食べられる。ゾクと走った戦慄はずいぶん忘れていた感覚で。闇の中、葵は固まった。

ここはどこ？　知らない部屋のベッド？　なんでどうして。


混乱の極みで身体も動かない。その間にも遠慮なくまさぐってくる手は、ブラウスの上から胸を覆う。服は着てるわ。ちがう、そこで安心してどうするの。今まさに危機なのよ。この人は誰。　とにかく現実を認識しようと顔をあげるやいなや、その顎をつかまれて唇が塞がれた。


衝撃だった。躊躇なく唇を割った舌に歯を、歯裏を上あごをなぞられ探られ征服される。それが甘くて官能的で。

「・・・かな・・」


うなじから耳へと口づけながら相手が誰かを呼んだ。擦れた低い声。耳たぶをはまれて快感と同時に、湧き上がった記憶の痛みがあまりに鮮やかで。葵は強い力で相手を引きはがした。

「っ、めてっ」


停止した十数センチの距離でようやく互いを確認し合ったが。

「源・・・」
「・・・秘書さん？」


飲んでた時は呼び捨てたくせにこの距離でそう呼ぶか、って違う。どうしてこの人が。葵の思考があがいてる間に懲りもせず相手は力に任せて距離を縮めようとしている。


「・・っんが」
「調子に乗らないで」

両手のひらであごもろとも唇を全面拒否してやると、いかにも残念そうな顔で光は苦笑した。


「やっぱあかんか」
「あったりまえでしょ！　大体なんでこうなってるのよ。ここどこ？　まさかラブホとか」
「ひどいわそれ」

やっと諦めて起きあがった光は胡座をかきながら葵に首をかしげた。


「タクシーで寝込んだの誰やねん」
「タクシー？　・・・あ、あれ。だってあなたも寝てて」
「俺は着いたとこで起きたけど、いくら起こしても葵は起きひんから。連れてくるほかないやろあの時間」
「じゃあここって」
「俺んち」
「・・・え・・・」


キングサイズのベッドはふたりどころか３人でもゆったり眠れそうだ。ラブホなんて口走ったがそんな安っぽさはない。


床に柱に窓枠に、年季の入った古さと美しさがあった。大きな出窓。バルコニーへのステップ。部屋全体を、おそらく家全体をエレガントな女らしさが支配しているのを感じる。


この部屋でそれに対抗しているのはベッドをのぞいても相当広いスペースを占拠してる机くらいだ。飾り気のないどっしりした重み。シンプルな椅子。机の上には機能的な品々が散乱している。パソコン、書類、腕時計、ＭＤ、ＣＤＲ、ボールペン、クリップ、本が数冊。



本能に従って部屋を探索していた視線は窓の下のソファで止まった。見覚えのあるコートとスーツの上着は自分のものだ。ブラウスとスカートをもう一度確かめるが、目の前の男の半裸も認識せざるをえない。


「なんで一緒に寝てるのよ。おまけに裸で」
「自分の部屋で服着て寝るかいな。ベッドでかいし問題ないやん」
「あったでしょ。ありすぎだわ」
「かんにんやて。ちぃと寝ぼけただけやし」
「だけ？」

ほっといたら続ける気満々だったくせに。睨んでも意に介さない笑顔がどうにも。


「そそられるのは魅力的な女性に対する礼儀や思わん？」
「はぁ？」
「葵は抱き心地さいっこうやから」


この人に２度も同じセリフを言わせるなんて。不覚だわ。抱き枕じゃあるまいし。二日酔いも手伝って今更頭痛がしてくる。額を指でもみながら目を閉じた。


とりあえず本気で寝込みを襲う輩でなくてよかった。夕べの状況では襲われても文句は言えない。昨日が初対面、しかも激怒した男相手にどうして滅多にないほど呑んでしまったんだろう？

…ダメだ。一時的な覚醒が薄れて眠気がぶり返してくる。脳みそが綿みたいな気分。


眼を開けたら隣で光は丸くなっていてムッとする。この男はどういう神経？　いや無神経なのか。


「ちょっと、まだ寝る気？」
「んー・・・」
「あたし帰らなきゃ」
「んー・・・」
「聞きなさいって」
「・・寝よ」

あっという間に抱き込まれてしまった。寝技みたいだ。暴れてもびくともしない。


「いい加減にしなさいっ」
「なんもせんしー。眠いんや・・・て・・・」


すぅーっと、あとは寝息のみ。どうして懲りもせずこの男のペースに巻き込まれてしまうんだろう。腹立たしくても、一度目を閉じれば葵も眠気に勝てなかった。


夜明けの攻防は葵の負け。結局起きた時とあまり変わらぬ体勢。なのに安らかに二人は眠り込んでいった。