こないに強いんか。
畏おそれ入谷いりやの鬼子母神きしもじん　やわ。


あけられたお銚子の列に光は舌を巻いていた。全く顔色を変えず潔く盃をあけるさまはなんだか武士を思わせる。



葵が選んだ店は和風で落ち着いた雰囲気。今時はやりの個室なんてない代わりに誰もが声を潜め穏やかな飲み方をする、どちらかというと年配の男が好みそうな処だ。

おまけに日本酒。光が焼酎の水割りにしたのは自分が潰れてはまずいと思ったからだが、これだけ呑んでも相手は完璧で鉄壁だ。

お銚子をつまむ指先のマニキュア。細いチェーンとシャツカラーの首筋を上品なブラウンのスーツが彩る。横顔だけならここがオフィスかと見間違えるほどスキがない。


「ウサコちゃんと雰囲気真逆やな。でも仲ええね」
「いい娘だから」
「ウサギ神社の噂は西まで鳴り響いとるけど、どこまでホンマなん？」

光をチラリとみた葵はまた盃を口にする。


「美羽に占いとか縁結びの力があるのかってことなら、ＮＯでしょうね」

美羽自身そういうタイプには見えなかったから別に驚きはしないが、それにしては噂が化けすぎの気はする。


「意図的にどうこうする力なんてないけど。あの娘と話してると皆ホッとするらしいわ。心を打ち明けやすい。いわゆる『相談』をして失望した人はいないんじゃないかしら。高揚感だったり満足感だったり安堵感だったり、受け取るものは違うでしょうけど何かを得る、もしくはそのきっかけになるのね」
「相談、て男もおったんやろ。今までよう惚れられんかったな。奇跡やん」

不意の笑い声のてらいのなさが光を惹きつける。


「亀沢さんは美羽の鈍さに悩まされてるみたいだけど、ほんとは感謝すべきなのよ。誰にモーションかけられたってちっとも気づかなかったんだから」
「あちゃ、ホンマ？」

「美羽はね、人の裏を読もうとしないの。一生懸命いいところだけ見る。本気で。すると人って知らずに自分の一番いいところ、いつもはガードして隠してる人間らしい柔らかな部分が現れるのよ。癒されるの。そういう娘に惹かれないわけないじゃない？」

葵の口調は再び鬼子母神を思いださせた。我が子を慈しむような。それでいて縋るような。　−すがる？


「あたしがはっきり聞くまで、亀沢さんたら美羽への気持ちに気づいてなかったのよ。あの焦った顔、思い出すと笑っちゃう」

そう言う彼女はでも笑わず、視線が落ちる。


「それでわかったのよ。あぁ大丈夫。この人はきっと美羽を大事にしてくれるって。ちょっかいやゲームだったらタダじゃおかなかった。美羽は親友だもの」

クイと呷った彼女の横顔を掠めて消える何か。追いかけていた光に盃が突きつけられた。


「へ」
「さっきから全然呑んでない」
「飲んでるて」
「ほらもっと」
「うわ溢れる」
「すみませーんお銚子追加」

軽やかに注文されてさすがに光もたじろぐ。


「ちょうまて、まだ飲む気ぃかい」
「宵の口でしょ」
「そら大分前の俺のセリフ」
「江戸っ子は朝まで宵なの」
「江戸っ子てなぁ」


問いは継がれた酒に消えた。
俺、日本酒は苦手なんやけど。言い訳なんて聞く耳あらへんわ彼女。
乱れることのないそんな飲みっぷりは。


「サギやっちゅうねん」
「何」
「や、独り言」
「あたし関西弁苦手」

すっとぶ会話に四苦八苦だ。


「なんで」
「わからないもの」
「わかっとるやん」
「今更本社へ異動なんて実は困ってるんじゃない？」
「俺実家は東京やし」
「え」

少しは驚かさないと面白くない。光の笑いに葵のしかめ面。


「大阪は大学からやねん」
「ええ？」
「カメさんの後輩言うたやん」
「そうね言ったわね。でもなにそれ。あっちの大学しか受からなかったわけ？」
「あっちしか受けんかったんや」
「ばっかじゃないの」
「ちゃう。　・・・アホやねん」

柔らかな微笑が妙に切なく葵の胸を締め付けた。それを気づかれぬよう言葉がきつくなる。


「つまりバカの二乗ね」
「きっついわぁ、葵」
「呼び捨てはやめてって」
「夫婦の仲やん。気にせんとき」
「誰が、め　・　お　・　と　なの」

葵の眉間がさらに寄ったが、光は全くおかまいなしだ。


「葵の上ゆうたら光源氏の奥方やろ」
「あたしは葵の上じゃないし」
「早死にしたんが可哀想やったなぁ。葵は身体に気ぃつけなあかんで」
「人を病弱にしない」
「美人薄命ちゅうから」
「証明したかったらあなたがすれば？」


ヤバイと思いながらも、打てば響くような反応が楽しくて光はやめない。
周囲の忍び笑いをよそに二人の夫婦漫才はそこから延々続けられた。光はもちろん葵の限界も超える量まで。





飲み過ぎた。そんな自覚もふらふらと漂ってる感じだ。

ようやく腰を上げたふたり。勘定をワリカンですませた葵はきっちり２分割したおつりをもって店を出る。深夜の冷気が気持ちいい。


「ほら、手出して」
「釣りぃ？　いらんーとっときぃ」
「何偉そうに言ってるの。３００円を粗末にすると３００円に泣くんだから」

プッと吹き出した光が腹を抱えて笑う。そこまで受けるだろうか。


「あ、葵て近所のばーちゃんみたいやん」
「悪い？　年寄りをバカにする奴は嫌いよ」
「いや悪うない。ツボやー」

眼鏡の向こうで大きく見開いた眼がギュッと細くなる。見入ったら抱きしめられていた。


「ちょ、こら、何するのよ」

伊達に武道は習っていない。酔っぱらいをあしらうなんて朝飯前のはずなのに。そういえばさっきも突きを受け止められたっけ。この人有段者？　って感心してる場合じゃ。


「放しなさいってば。この狼藉者」
「ろっ狼藉ぃ？　葵て時代劇ファンなん？　最高やん。可愛ぃー」
「可愛いわけないでしょうが」


ふりほどこうとする葵の動きもどこか緩慢でかわされる。千鳥足の光は葵を抱き込んだまま下手なワルツみたいにクルクル回りだす。いくら深夜だからっていい見せ物だ。うわ、酔いが余計に。


「あーええ気分や。このまま寝てまおかー」
「バカ。やめなさい」

冗談じゃない。少しずつこっちへ体重がかかりつつある。この人ほんとに寝そう？


「待て。待ってって。タクシー、タクシー呼んでから」
「いややー葵の抱き心地さいっこうやのに」
「こんなところで、誤解が六階になりそうなことを叫ばないでよっ」

緩んだ腕を強引に引きはがすと、ゆらゆらしている身体を引きずって表通りまで。なんとか空車をつかまえる。


「ほら乗って。行き先言って」
「葵も乗りぃ」
「なんであたしが」
「かまへんかまへん」
「かまうわよ」
「お客さん、乗るんですか乗らないんですか」
「すみませんだから」
「はよ乗らんとー」
「きゃっ」

油断したところをグイと引かれた葵は車内へ倒れ込んでしまった。閉まるドア。あわてて起きあがっても後の祭り。流れる車窓は光と闇の筋。

「世田谷の○○公園あたりまでぇ・・・」
「ちょっと」
「世田谷ですね」
「あたしは逆方向・・・なんで寝てるのよーっ」


瞬時に寝付いてしまった男はゆすろうと怒鳴ろうとまるで応ぜず。その間にもタクシーはどんどん進んで、葵は諦めざるを得なかった。怒りのぶつけどころは寝息をたてて、これ以上うるさくすると放り出されそうだ。第一自分も眠くてしょうがない。

「着いたら起こして下さい・・・」


呟きは眠りの淵すれすれ。今日という日は絶対厄日。ううん呪うべきはこの男だわ、間違いなく。わけのわからない確信を胸に、車の振動は子守歌に変わっていった。



撃沈した二人をバックミラーで確認した運転手がやれやれと首を振る。フロントガラスの向こうは晴れわたる冬の夜空だった。