社長室へとつながる仕事部屋に着いたのは定時１５分前だった。いつもよりずいぶん遅れている。

大急ぎでパソコンを立ち上げコーヒーを準備する。届いている郵便物を仕分けしながらのメールチェックも忘れない。緊急の案件はなさそうだ。
今日の予定を確認し終えると定時５分前。立ち上がったとたん笑い声が響いて葵は驚いた。


几帳面な社長はいつも葵より早く登社しているが、ひとりで笑い声をたてたりはしない。よく聞くと話し声もする。誰かすでに社長室にいるらしい。
しまったと思いながらコーヒーカップを追加した。来客用もセットしたトレーを手に社長室のドアをノックする。

「おはようございます」

葵の挨拶は社長の爆笑に迎えられた。滅多にある事じゃない。


「・・・っはっは。そうか。そんなにベタ惚れなのか」
「そらもう笑えるほど。クールなんてどこの国の言葉やっちゅうくらい」
「確かに顔がにやけてる。からかいがいがありそうだ」
「俺より鬼ですやん、社長」


社長の手前。シックな革張りのソファに背を預けている人物がいた。
関西弁としか言いようのない口調はともかく、社長への態度のなれなれしさに葵は驚く。今朝は驚いてばかりだ。眉間にシワを寄せぬよう意識して笑みを作る。


「遅れて申し訳ありません」
「おはよう日高くん。いつもどおりじゃないか」
「ですがお客様をお迎えもせず」
「客じゃない。第一こいつが早すぎるんだ。大阪に長かったせいですっかりせっかちになったようだな、源みなもと　」


「そらおれのせいやのうて、いつまでもこっちへ戻さへんかった社長の責任ちゃいますか」
「よく言う。思い切り堪能してたくせに。辞令に女子社員が号泣したって噂、届いてるぞ。日高君も気をつけろよ」
「うわぁ勘弁やわ。社長ご自慢の美人の秘書さん、会うのん楽しみにしてたんやから」


ぼやきながら立ち上がって振り向いた男は笑顔で手を差し出した。磊落らいらく　な態度が板についてる。これが多分。


「大阪からようやっと本社勤務になった源　光　みなもと　ひかり　言います。よろしゅうに」


ビンゴだ。
同時になるほど、と思う。色素が薄く柔らかそうな髪から淡い色の眼鏡まで、そこら辺のモデル顔負けのビジュアルは女子社員が騒ぐわけだ。眼鏡の奥のこれも色素の薄い瞳がしかしやけに鋭い。こちらを見定めにかかっているようで妙に反発心を覚える。


「日高くんは初めてだったな。このところあっちが忙しくて東京へは顔出すヒマもなかったし」
「社長も電話ばっかりでちぃとも顔見せてもらえんかったし」


拗ねたフリの茶目っ気のある口調が似合っていて吹き出しそうになった。辛うじて表情を保った葵は差し出されたままの手に気づいたものの、生憎両手はトレーで塞がっている。困っていたら彼はニコッと笑ってトレーを葵の手から取り上げた。


「社長、毎朝こんな別嬪さんにコーヒー入れてもらうやなんて贅沢過ぎるんちゃいます？」

慣れた手つきで社長と自分の前にカップを置きながらのセリフは、文句ともうらやみともおべっかともとれるがその実どれでもない。会話を楽しんでいるだけだ。


「そんなこと私に言えるのはおまえくらいだよ。確かに贅沢かもな。一日の始まりとしちゃ最高だろう」
「社長らしいわ」

源の笑い声には相手を知る者の余裕があった。社長への確かな信頼。





株式会社　ＬＥＡＰ　社長　　陸見　音　くがみ　おん　　４０歳。

葵の上司である彼が前社長から今の地位を引き継いだのは６年前だという。破格の若さだ。まさにお家騒動並みの騒ぎだったらしいが、彼はじきに周囲を納得させた。

旧態然としていた社内体制を３年で改革すると同時に業績を飛躍的に伸ばした手腕。しきたりに囚われず流行に媚びず、自由な発想と潔い決断は他に類を見ない。いいと思えば迷うことなくつかみ取る。


取引先で事務職に携わっていた葵の、能力を見抜いて引き抜いたのもその一端だったと思う。秘書として１年余。葵もまた、選ばれた誇りと深い信頼を社長に置いている。初めてあったこの男もやっぱりそうなのだろうか。



つい凝視していたらしい。
目線があって真顔になった彼が突然、陸見に問うた。


「社長」
「なんだ」
「大事な秘書さん口説いたら怒られますやろか」



葵の口がポカンと開いた。陸見の爆笑が再び響く。
源だけが二人をよそに悠然とコーヒーに口をつけていた。