その夜もブーケはにぎやかだった。

大勢で騒ぐ者、ひとり飲む者。待ち合わせ、誘い、媚びに拒絶といろいろ。一番にぎやかなのはやっぱり店主だ。エヴァのいるところが店の中心になる。集まる客も彼女と話すのを楽しみにくる。ここはゲイのハッテンバというより社交場だ。


ヒデミはカウンターの隅で飲んでいた。いつもならエヴァとすぐ興じ騒ぐのだが、今夜はそんな気分じゃない。あのあと店は閉めたまま。最近なかったことだ。

あり得ない時間に現れたヒデミにエヴァは何も言わなかった。そんな日もあると、ヒデミのボトルを出しただけ。あとは黙って好きにさせてくれている。いい店主だ。


「ちょっとぉー、いつまで落ちてるのぉー、タイムリミットぉー」

からみつく声と腕。前言撤回、良くない店主だ。


「何よもう。ほっといてくれるんじゃないの？」
「ほっといても浮上しないみたいだからぁ。カウンターの隅が電球切れてるみたいにぃ暗ぁーいんだものぉ」
「悪かったわねえ」
「悪いわよぉ。ほらどうしたのぉ」

これがエヴァなりのアプローチ、慰めなのはわかってる。愚痴をこぼせとの合図なのも。結局、ヒデミだってここに来たのはエヴァに聞いて欲しかったからだ。


「あたしさ、ゲイって自覚してもう二十年以上経つのに」
「んー？」
「まだ自分でそれを受け入れ切れてないかもって。情けない」
「何言ってんだかぁー」

パシンとエヴァがヒデの肩をはたいた。痛いんだけど。


「そんなのよくあるわよぉ」
「エヴァもそう？」
「馬鹿言わないでぇ。ここの店主がそれじゃ駄目でしょがぁ」

「そりゃそうか」
「でもねヒデぇ。自分自身を受け入れるってのは、別にゲイじゃなくたって難しいのぉ。一生もんよそれはぁ」

ゲイをでなく自分自身をと、エヴァは言った。躊躇もなく当たり前に。こういうところが敵わない。ヒデミはエヴァにグラスを差し出す。


「チアーズ」
「やったぁ。チアーズ」
「ヒデ、元気になったじゃん」
「こっちこいよー」

とたんにかかるあちこちからの声。皆が気にしてくれてたのがわかって、ヒデミは申し訳ない気持ちになる。まだまだ甘えてる未熟な自分。でも甘えさせてくれる場所がある幸せな自分。


「こんばんはー、ヒデミさんいますかー？」

入り口の方からショーコの声がした。


「ちょっとぉ、あんたは営業中来ちゃ駄目って言ったでしょ……どうしたのそれ」

ものすごく大きな花束が立っていた。持っているのはショーコらしいが見えないくらいだ。陰から声だけ聞こえる。


「ヒデミさんに」
「ヒデに？　ってきゃぁあああー、キングぅー！」

エヴァのきつい声が一瞬にして裏返る。その間にショーコから花束を渡されたヒデミが、驚いたのはショーコにでもキングにでもなく現れた人物にだった。カウンターに落ちる花束。自分も椅子から滑りかける。


「なんであんたがここに来るのよ！」
「店の前でその娘に会った」

ヒデミめがけツカツカと歩み寄ったのは竹園　颯だ。キングともアダムとも違う、涼やかな美貌にブーケの客やスタッフまで色めき立っている。


「居場所を知ってるっていうから」
「えっと、あの、まずかった？　ささらちゃんのお兄さんでしょ？　用があるって言うから、そのー」

渡した花束とヒデミと竹園の間に、バミューダトライアングルのような不穏な空気を感じ取ってさりげなく後じさるショーコ。ヒデミは竹園をにらみつける。


「こんなところまで来るなんてまだ納得してないわけ？　言ったでしょ。あたしは何も」
「悪かった」

遮った彼の言葉はヒデミにとって意外だった。からかっているかとも思ったがそうではなさそうだ。


「ずいぶん失礼なことを言った。てっきり君が仕掛けたと思い込んだ。ささらがこんな風に誰かの話ばかりすることが今までなかったから」
「……いいわよわかれば。あやまりにまで来なくても」
「ヒデぇ、ちっとも話が読めないんだけどぉ。いい人ぉ？　悪い人ぉ？」

エヴァが追い出そうかと言外に聞いてくる。どうしようかと迷ったヒデミは、直後さらに驚かされた。


「僕とつきあってくれないか」
「……は？」
「えーーー？」
「なんですってぇええ」

ちなみに、最初がヒデミ、次がショーコ、最後がエヴァの絶叫だ。その他の面々もおおっとのけぞり、店中が驚きに包まれている。冷静なのはカウンターを挟んで顔を見合わせたアダムとキングだけだ。ヒデミが甲高くわめく。


「なんでそうなるのよ。妹にデートを押しつけられたって怒ってたんでしょ？　女性だと思っててそれだったのに。実はゲイだったの？」
「そうだ」

目が点になって言葉を失う。まさか肯定されるとは。あごが驚きでがくりと落ちる。


「派手な女性関係はカムフラージュってやつだ。もっとも男関係も似たり寄ったりか。決まったパートナーはいなかったし」
「……最っ低！」
「だな」

自嘲でゆがむ顔まで綺麗なのは兄妹同じだ。つくづく憎らしいと思いながら棘をむける。


「あたしはそんな十把じっぱ　どころか百把一絡ひゃっぱひとから　げにされるなんてごめんよ」
「プライドが高いのも知ってる」

「わかってるなら」
「惚れたんだ」
「はああ？」

ボクサーのパンチで滅多打ちされるサンドバッグの気分だ。頭が痛い。


「店で会ったとたんにグラッと来た。とびきりの美人だ。当然だろう」
「とてもそうは見えなかったけど」
「怒ってたんだしょうがない。妹にデートを斡旋されて喜ぶ兄なんているものか」

「だからそれは」
「ああ。たぶんささらは知ってるんだ。そうじゃないかと恐れてたんだが」
「何を」

「僕の性癖。それを隠すための女性遍歴だってことも」
「ええ？」
「だから君を引き合わせようとした。パートナーとして」
「なんですって」

思っても見なかったことばかり並べられてただ唖然とする。あの娘がそんなことを企むなんて信じられない。


「それほど妹は君を気に入ったんだと思う」

あり得るだろうか？　期待して失望する辛さは身にしみている。


「僕もだ」

浸っていた感傷から一気に意識がひきあがる。その場しのぎの台詞を聞き逃すわけにはいかない。


「うそよ」
「だから、君を泣かせたことがひどく気になって」
「泣いてなんか」
「さっき。見えたんだドア窓から」

口を噤んだヒデミの代わりにエヴァが胡散臭げな合いの手を入れる。


「泣かせたのぉ？」
「君の泣き顔が頭から離れない。自分でもどうかしてると思うんだが」
「それって」

今度はショーコが口を挟む。


「ヒデミさんに本気ってこと？」
「一目惚れってあるらしいな」
「マジかよ」

アダムまでぶつぶつ言う。疲れ果てて怒る気力も萎えたヒデミが、なんとか言葉を紡ごうとする。


「……だから、そんなのただの気の迷いで錯覚。あんたみたいな表舞台の実業家、ちょっと毛色の変わったのにびっくりしただけよ。あんたなら誘いは一杯」
「男だからじゃなくて、君に。君という人間に惚れたんだと思う」
「ろくに知らないくせに」

「僕はゲイをオープンにするなど考えたことがなかった。ささらにも、もちろん言えなかったし知られたくなかった。嫌われるのが怖かった。なのに。あっけらかんと君にカミングアウトされて驚いた。これが自分と言い切られて、自分がひどく臆病に見えた。恥ずかしかったよ」

言われるほど吹っ切れているわけではない。黙り込んだヒデミにさらに近寄った竹園が問う。


「名前は」
「知ってるでしょ」
「そうじゃなくて、フルネーム」

「なんで」
「いいから」

押しの強さに負けて、つい呟いてしまう。


「……たなか。　田中秀美」
「ヒデミは本名か」

笑った彼は突然、ヒデミの足元にひざまづいて手を取った。再びおおっと店中が湧く。


「田中秀美さん。パートナーを前提に、僕とつきあって欲しい」

まるでおとぎ話。夢と現実の境目で世界がぐるぐる回る。嘘の見えない彼のまなざしに思わず頷いてしまいそうになる。ふっとヒデミはカウンターに座るキングと眼を合わせた。サングラスを通しても何故かわかる彼の問いかけ。

大丈夫か？

ブルンと頭を振ってヒデミは正気に返った。何やってるのあたし。流されちゃ駄目。取られていた手を引き両腕を組む。


「言ったでしょ。あたしは惚れた相手としかつき合わないの」
「可能性は考慮しないのかい」

立ち上がる彼を怖じずに見返す。


「もし、万が一本気だっていうなら。口説いてみれば？」

こう言えば退いてくれるかもという密かな期待はあっさり覆された。にっこり笑った竹園に、不覚にもヒデミはドキリとする。元々あのささらの兄だ。美形に血が通うと人目を集めずには置かない魅力が生まれる。


「いいだろう。おもしろい。必ず口説き落として見せる」

「うわー」
「言ったよ」
「ヒデさんがプロポーズされたー」

「あんた度胸あるな。よし、一緒に飲もうぜ」
「いいね是非」
「ちょっとあんたたち、何を」

「ヒデミ？」
「……は、い？」
「覚悟してくれ」

あの声で呼び捨てられるのは二度目だ。唖然とするヒデミを尻目に、竹園は店の常連と飲み始めてしまった。嘘でしょう？　エヴァが不審げな顔を行ったり来たりさせている。


「ヒデぇ、いいのぉ？」
「……知らないわよ。勝手にやらせれば」

崩れ落ちるように椅子に座り込んだヒデミに、今度はショーコが飛びついてきた。眼が期待に充ち満ちている。


「ヒデミさんすごい、一目惚れされたの？」
「んなわけないでしょ。冗談よ冗談」
「こんな人前で？　あれ本気だよ絶対」

「ありえません」
「嬉しくないの？」
「ヒデは惚れて押してばかりだったからな。惚れられてとか告られては初めてか」

キングの指摘でそうかと腑に落ちた。こうも混乱してあわてるのはこれまでとまるで違うパターンだから。経験が役に立たない不安感。カウンターにこぼれんばかりの花束が非現実的だ。


「あたしを？　嘘よ。ぜーーーったい信じらんない」
「ならどうして引導渡さないんだ？　いつものヒデならそうだろう」

ぐっと詰まったヒデミにキングが優しく笑いかけた。


「いいじゃないか口説かせれば。夢を見せてもらえ。駄目なら覚める。ひょっとしたら正夢になるかもしれないぞ」
「……へ？」

「えーー、あんなおぼっちゃんにヒデが扱えるのかしらぁ」
「エヴァったらお似合いじゃん。王子様のプロポーズだよ？　あたしドキドキしちゃった」
「子猫が生意気言うんじゃないわよぉ」

とがった爪でデコピンされてショーコがわめく。


「いったあーい、やだもう。血が出てない？」
「あーうるさぁいぃ」
「きゃー、キング助けてー」

いつもの騒々しさがもどった店内。頬杖ついたカウンターから、意外なほどすんなり常連に馴染んで飲んでいる竹園をヒデミは茫然とみつめる。


王子様？
夢？
自分には決して縁がないと思っていたものだ。でも。

『ヒデミ』

そう。夢見るくらいはいいかもしれない。子どもじゃないから、訪れるかもしれない痛みも悲しみもわかってる。全て承知の上ならば。


竹園と眼が合う。潜んでいる熱に身体がうずく。まだ何ひとつ知らない男だっていうのに。ううん、誰だってそうよ。明日のことは誰にもわからないんだし。人生はギャンブルで恋は勝負。

負けなきゃ良いのよ。負けるもんですか。
よし、勝負！



望んでいるのは勝ちなのか負けなのか。
己の心もわからぬまま、ヒデミはダイスを振った。
結末は。


神のみぞ知る。





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