忙しい。仕事に追いまくられるヒデミは、休みなどあれっきりだ。半休がせいぜいで遠出など問題外。ひたすら予約をこなす毎日。

シザーズラッシュはそれでも少しずつ落ち着き、新規の客はなだらかに一見いちげん　さん９割・常連さん１割へと移っていった。地の利や好み、相性もある。押し寄せた客の定着率は概してそれほど高くないが、それでもこれまでよりは遙かにたくさんの客がヒデミの存在を知って来てくれる。ありがたいと思う。


驚いたことにあの後、ささらは本当に店にやってきた。

初めて来た日、駅からの電話にあわてたヒデミはツトムに迎えに行ってもらった。美人の年下の女の子にツトムは緊張しまくっていたようだが、ささらは物珍しげに広くもない店の隅々まで鼻をつっこみ、ヒデミの仕事ぶりを眺め、たまたまやってきたショーコとしゃべる、その様子に敵意や嫌悪など皆無だった。

急だったのでヒデミはあまり相手をしてやれなかったが十分楽しかったらしく、二度目は一人でやってきた。休憩時間だったので、近くのパスタ屋で夕飯を一緒にした。打ち解けたささらの話題は学校と友達と、それから兄のことばかりだ。


「忙しい忙しいって愚痴るけど実は忙しいのが好きなんです」
「面倒くさがりなのに外面がすごくよくて」
「女の人みんなだまされるんですよね。見た目に。中身は全然シビア」

可愛い子の話を聞くのは全然構わないヒデミだが、余りに多い兄の話につい聞いてみる。


「ささらってほんと、お兄さんが好きねえ」
「嫌いです」

即座に否定する彼女の額をつつく。


「ツンデレなんだから」
「そんなことないです。ほんとに嫌いなの」

半分真面目に応戦する彼女だが、言葉遣いとかちゃんと躾けられてるお嬢さんだなとヒデミに思わせる。


「ちっともおしゃべりしてくれなくなったし。忙しいのはわかるけど、たまに会っても子ども扱いばかり」
「子どもでしょ」
「だからー」

思い切り笑ってやったら、ささらは怒りもせず嬉しそうな寂しそうな変な顔になった。


「前はお兄ちゃんもよく、そんな風にあたしをからかって笑い飛ばしてくれたんだけど」

整った綺麗な顔に翳りがさす。


「どうしてこの頃、ヒデミさんみたいに笑ってくれないんだろう」

ぽんぽんと頭を叩くとヒデミの肩に頭を乗せた。甘えてくれることは嬉しいが、屈託のある表情が気になった。



二、三週間などあっという間だ。或る夕方、予約が２件続けてキャンセルになった。貴重な空き時間だ。ツトムを早めに切り上げさせ、自分も夜まで休憩にした。たまにはゆっくり晩ご飯もいい。

鼻歌で片付けをしていたヒデミだが、カランとドアが開く音を聞いた。さっき表の札をひっくりかえしたはずなのに。


「すみません。準備中で」

顔を上げたヒデミは鏡の中で男とみつめあった。誰だろう。いい男だがそれだけではない。

無造作に着こなしたスーツは地味に見えてブランド物。革靴、タイピン、袖からのぞく時計、フレームオフの眼鏡。どれも上等だ。反面、細い眼とたっぷりした口元。黙って立ってれば美形でしゃべるとビジネスマンになりそう。

外見はビンゴでも実はヒデミの苦手なタイプに見えた。もっともそれは男、というか彼氏としてみた場合だと気を取り直す。相手からも何故か躊躇を感じる。


「えーっと、うちに何か」
「ヒデミ」

深く響く声で呼ばれてドキッとした。瞬間夢を見そうになる。


「ってのは君？」
「……聞く前に名乗るのがふつーでしょ」

パチンと夢は割れた。にっこり笑ってぐっさり刺す、いつもどおりのようでいつもより尖ったヒデミに、相手は予想外だったのか口を噤んだ。失礼な野郎をフォローする義理はない。せいぜい笑みを絶やさずみつめていると、切れ長の眼と細めの眉が誰かを思い出させる。

誰だっけ。


「竹園　颯　たけぞの　そう　だ」
「は？」
「名乗るんだろう」
「たけぞの、って」

記憶に眼と眉が合致する。相手は不機嫌といかぬまでも無愛想な顔で続けた。


「ささらが世話になった。妹は頭は悪くないが気が強い上に思慮が足りない。助けてくれたことには感謝する。ありがとう」

横柄なはずの男にしっかり頭を下げられてヒデミはうろたえた。人を見る目は持ってるつもりなんだけど、読み違えたかしら。


「だが」

ヒデミの内心が聞こえたのか。顔を上げた竹園　颯は、間違いなく横柄な顔に戻っていた。


「妹が君にまとわりつくようになったのは、はっきり言って好ましくない」

しゅっとヒデミも表情を改める。不穏な空気だ。


「どう見ても高校生向きじゃない。ここは美容室でも周りを歩いてるのは酔っぱらいばかりじゃないか。妹がたびたび来るようなところじゃない」

確かに正論ではあるのだが。


「ましてや、僕が君とつきあうなど論外だ」
「……は、あ？」

漏れた声はまぬけだった。
相手が何言ってるのか、ヒデミはちんぷんかんぷんだ。


「女に不自由していないし、美人だろうと何だろうと相手は自分で選ぶ」
「相手って」
「恩を売って高校生にデートをセッティングさせようなんて」
「デート」

「大方、バンブーガーデンのことでもささらが口にしたんだろうが」
「バンブー？」
「計算高い女はなおさらごめんだ。そんなのは……っ」

垂れ流されていた文句は、ヒデミが顔面に繰り出した拳で止まった。眼を見開いただけで声も立てないのはほめてやってもいいが、腹の立つ男に変わりはない。ヒデミはゆっくり拳を退く。マシンガントークはこっちの番だ。


「つきあう？　誰が。デート？　誰と。セッティング？　冗談は休んだってごめんよ。あんた一体何言ってんの。頭おかしいんじゃない？」
「……おい」
「高校生に彼氏を斡旋してもらうほど、ヒデミさんは落ちぶれちゃいませんって」

背の高さはヒデミが負けるが、ヒールのおかげで差はほとんどない。思い切り間合いを詰め思い切りねめつけてやると、眼鏡の下、切れ長の眼がさらに細まる。


「確かにここらの治安は褒められたもんじゃないけど、少なくとも彼女には気をつけてるわ。帰りは必ず誰かに送らせるくらいの配慮はあるわよ。あんな可愛い子当然でしょ」

ヒデミの言葉が意外だったのか、竹園が眉を上げる。


「それからバンブーガーデンって何のこと。それこそ初対面で計算高いなんて言われる筋合いないわよ」

口にしたところでふと、その響きが記憶にひっかかった。胡散臭そうな相手とにらめっこするうちに、パッと情報が下りてくる。


「……春頃オープンしたブライダルハウスにそんな名前あったわね」
「ご名答」

知ってるじゃないかと言わんばかりの彼にまたムッとした。だからどうなのかやっぱりわからない。


冠婚葬祭は美容師に縁が深く、中でも結婚式と披露宴は仕事のチャンスだ。常に情報は拾っている。ブライダル産業もバブル以降沈滞気味だったが、一部の企業は客のニーズを敏感に察知することで客足を伸ばしていた。

バンブープランはバブル以後の急成長株だ。臨機応変なウェディングプランで成功し、とうとう自社持ちの会館をこの春オープンさせて大きな話題になった。その名前がたしか。


「バンブーガーデンねえ。熱帯イメージ？」
「実際は和テイストだ」
「和？　バンブー。そうか竹ね。竹の園。……あれ？」

今更気づいた名前の一致に目を丸くするヒデミを見て、彼が胸元から取り出したのは名刺入れだった。


「バンブー・プラン　代表取締役　竹園　颯」

こういうことかと納得する。つまりささらの兄は若手実業家、それもばりばりのやり手なわけだ。おまけにこの顔。そりゃもてるわよ。


「ふーーん。新進気鋭の実業家なら見知らぬ女も飛びつくってこと」

そうだと言わんばかりの顔。ガチンコでかみあわせる視線。ぶっとヒデミが吹いた。堪えきれずに腹を抱えて笑い出す。身構えていた相手は気が抜けたように見下ろしてくる。


「っかしい、もう。ささらったら馬鹿ねえ」

笑いはため息に消える。ヒデミは竹園に真顔で聞いた。


「本当にささらがそう言ったの？　あたしがあなたとつき合いたがってるとか、デートのセッティングを頼まれたとか、ほんとに？」

思っても見なかった問いかけらしく、竹園は顔をしかめた。


「それは……直接そうは言わなかったかもしれないが。君が優しいとか話を良く聞いてくれるとか、彼氏はいないとかすごい美人だとか、顔を合わせるたびに君の話ばかり思わせぶりに繰り返される。耳にたこができるほど」

「タコならひきとるわよ。あたしの作るタコ飯は絶品だから」
「……ユーモアもあるとか」
「あら嬉しい」
「美人ってのも確かだ」
「お褒めにあずかり光栄。でもね、ささらは単にあなたと話したかっただけじゃない？」

ヒデミは首を傾げてみせる。


「あたしとしゃべってるささらは、あなたのことばかりよ」
「僕の？」
「そう。たぶんあなたもあたしの話を少しは面白がってたんでしょ」

ぴくりと目尻が動く。


「それは、あったかもしれないが。だからって」
「ささらは引き合わすつもりなんかなかったわよ。あたしだって頼むもんですか」
「証明できるのか」
「できるわ。簡単よ」

ヒデミは迷うことなく言い切った。


「あたしは男で、ゲイだから」

カミングアウトするときのくせで相手をじっと見据える。表情、態度、わずかな動きに狼狽や嫌悪を探してしまうのは、防衛本能の裏返しだ。

だが、意外なことに竹園からはそういったものが伺えなかった。眦まなじり　一杯に見開いた眼とぽかんとした口元に驚きと衝撃は見えはしたが。視線がヒデミを上から下までなめていく。


「男？」
「そう」
「ゲイ？」
「そうよ。でもあなたは好みじゃないから安心して」
「ささらは」
「知ってるわ。だからあり得ないでしょ。大事なお兄さんに女装のゲイを薦めると思う？」

「卑下してるのか」
「何ですって？」
「自分を恥じてるのかって聞いてるんだ」

こんな問いを投げかけられるとは思わなかった。軋む過去に負けまいと相手を見据える。


「恥じるってのは後悔でしょ。しなきゃよかったやらなきゃよかった。でもね、ゲイは選んだわけでも望んだわけでもないわ。やめようたってやめられない。だから、恥じてなんかいないわよ。これがあたし。精一杯。勝手に解釈しておしつけるのはやめてよね」

必死で怒りをかき立てて相手をドアの向こうへ押し出した。


「もうひとつ、あたしは惚れた相手としかつきあわないの。自分で選ぶなんて言ってるけど、ささらに言わせればあんたは誰でもいいみたいじゃない？　どうでもいい相手より妹を大事にしてやれば」
「おい」
「その顔、二度と見せないで」

バン、と力任せに閉め鍵もかける。中断した片付けを続けようとしたヒデミだが、すぐに座り込んでしまった。


『自分を恥じてるのか』

恥じてない。恥じたってしょうがない。でも、普通の性癖だったらと思うことはある。もっと楽な人生を想像して見るのは、後悔じゃなくてただの憧れだ。空を飛べたらとか鳥になれたらとか、それと同じ。

簡単に見透かされるなんて。
ああそれに、ささらはもう来ないかも。来られないかもしれない。
せっかく懐いてくれたのに。別れはいつだって突然だ。


悔しくて悲しくて寂しくて、それから辛くて。誰もいない店でヒデミは少しだけ泣いた。ドアの小窓からのぞく影には気づかぬままだった。





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