「助けて下さってありがとうございました」
どうやら逃げおおせたふたりは、表通りのファーストフードで乾いた喉を潤していた。座るなりえらく殊勝に頭を下げる彼女は、礼儀正しいお嬢さんそのもの。礼儀が勝ちすぎて堅苦しくよそよそしいのはしょうがない。
「別にいいわよ気まぐれだから。でもどうしてついてきたの。あなた、あたしのこと嫌いでしょ。昼間も睨んでたし」
「昼間は、ユキノリがデート中だってのに見とれてたから」
「ユキノリってのはさっきの彼氏?」
「元カレです。あんな人、もう知りません」
強気の印象は間違ってなかったらしい。フォローを入れてみる。
「警察呼んで来たでしょ? 戻ってきたじゃない」
「あなたがいなかったらとっくにどこかへ連れてかれてます」
否定は難しいなあ。
「でもさ。つきあってるなら好きだったんでしょ」
「バスケ部で人気があるしかっこいいし。申し込まれたからつき合うことにしただけ」
「あら」
「みんなそんな感じです。軽いの。お兄ちゃんだって」
「お兄さん?」
突然出てきた身内代名詞にヒデミは首を傾げる。彼女は急に口を噤むと、ヒデミを見据えた。感謝など欠片もない目つきだ。
「あの。あなた、ゲイですか?」
切り口上とはこのことか。やだなあ。
「まあ、そうね」
「おかま?」
「別にどうとってもいいけど。あたしは女装が好きなだけ。女になりたいわけじゃない」
「でも男で。男の人が好きなんですよね?」
「そうよ」
取り繕ったって事実は変わらない。ヒデミは頷く。
「それって、大変でしょ?」
「は?」
「家族とか知ってるんですか?」
「……ずっと会ってないから」
「どうして女の人じゃ駄目なの?」
時にヒデミは自分の性格を呪いたくなることがある。これが揶揄やゆ とかただの興味本位だったら、たとえ年下の女の子でもはったおして出て行くのだが。こんなに必死で真面目に聞かれると逃げるに逃げられない。だからって説明もできない。せいぜい。
「あたしを作った神様に聞いてくれる?」
「神様?」
「理由なんかわからないってこと。わかったってどうしようもない。家族に会えなくても人に嫌われても死ぬほど大変でも、これがあたし。男なのに女装が好きで男の人が好き。そういう風に生まれちゃったのよ」
こう口にすることがどれだけ苦いか、辛いかを、目の前の女の子に推し量れというのは無理だろう。だから笑ってみせたのに。重石を手渡されたように唇をかみしめて眉根を寄せる、そんな彼女をいぶかしむ。
「どうしてそんなこと、聞くの」
「……どうしても」
重い沈黙が挟まる。彼女のアイスココアは氷が溶けて薄くなり、ヒデミのアイスティーはまるでウーロン茶みたいだ。どちらもテーブルにだらしなく雫を広げている。ストローを咥くわ えてずっとヒデミが吸った音に、ようやく顔を上げた女の子はまるで違う話を始めた。
「……あたしの兄、すっごいもてるんです。とっかえひっかえっていうか、たぶん誰でも良いの。つまり誰も好きじゃないってことでしょ」
「うーん」
「誰とつきあおうが口出すなって。下手すりゃ義理の姉になるかもしれないのに。あたしにだって選ぶ権利はあると思いませんか?」
いやいやそれはどうだろう、と言える雰囲気ではない。
「なのにあたしのことにはうるさくて文句ばっかり。腹が立ってる時にユキノリに申し込まれて。いいかなって。まさか」
握り拳にこめられた怒りが怖い。
「あんなに弱虫だなんて。なっさけない」
女はいくつでも女だと実感するが。公平に言えば。
「あなたに彼氏を見る目がなかったってこと。お兄さんと張り合ってつきあってもしょうがないでしょ」
「そりゃそうだけど」
「大体、ああいう時はまず逃げるのよ。彼氏バスケ部なら足は速いでしょうに。あなたが鈍足とか?」
ヒデミの一言にプライドが傷ついたらしく、ギロッとまた睨まれる。
「あたし茶道部だけど、毎年リレーの選手です」
「ならなーんで逃げなかったの」
「ユキノリは逃げようって言ったんだけど……あんなマンガな悪役から逃げるなんて頭来ちゃって」
時々短気らしい。でもねぇ。不満げな顔の彼女にヒデミは一席ぶった。
「彼氏が一緒だからって油断しない。男には力じゃ勝てないの。腕によほど覚えがあるならともかく、そうじゃないなら即逃げる。逃げ足は立派な武器よ。女はもちろん男だってね」
「男も逃げるの?」
「無駄な喧嘩は避けるが利口」
「そんなの悔しい」
「負けるが勝ちってね」
「兄は喧嘩は絶対負けるなって」
「やるなら勝たなきゃ。今はやる前の話。ねえねえ、いざって時に狙うとこわかってる?」
「え?え? ……急所?」
「言うだけじゃなくて実際に蹴るのよ?」
「えー、やだあ」
初めて笑顔を見せた。やっぱり可愛い。笑ったら構えていたものがほどけたのか、あれやこれやとおしゃべりになる彼女。
「あの、名前聞いてもいいですか」
「ヒデミよ。あなたは?」
「ささらって言います。竹園ささら。ヒデミさん、彼氏います?」
「なんだか解剖されてるみたいね」
当初の嫌悪感がない、それだけでヒデミは嬉しくなる。
「残念ながらこのところフリーなの」
「どうして」
「前の彼氏に振られたあと仕事が忙しくて。でもそろそろ欲しいかも」
「仕事って?」
「美容師よ。そういえばあなたの髪。どこの美容室?」
「髪? ずっと同じところ。子どもの頃から行ってるの」
「今度あたしに、毛先整えるだけでいいから切らせてくれない? すごく綺麗なんだもの。さわりたくて」
褒められればやっぱり女の子。まんざらでもない顔をする。
「どこの美容室で働いてるの?」
「これでもオーナーよ。小さいけど」
変わった名前の彼女は目を輝かせた。
「すごい。遊びに行ってもいい?」
「わかりづらいけど来られるかしら。名刺あげとくから連絡して。携帯ナンバーも入ってるから」
「わあ、ありがとう」
嬉しそうに受け取るささらを見つめながらも、たぶんこれっきりよねとヒデミは冷静に考えていた。この出会いが思いがけぬ展開を見せるなんて、その時ヒデミにわかるはずもなかった。
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