「ヒデミ」　と。
フルで呼び捨てにするのは彼氏だけ。自分でそう望んできた。

友達がみんな「ヒデ」と短く呼ぶからというのもある。もちろん彼氏を声だけで聞き分けることぐらいできるけれど。それでも欲しいと思うじゃない？

彼氏だけが呼ぶ、特別な呼び方。
自分の名前。

頼まなければ誰もそう呼んでくれなかった。今は頼む人すらいない。
それでも夢はみる。夢くらいみさせて。
いつかきっと。





「恋がしたいなぁ」

ヒデミの一言にLemon　のバイト・ツトムがぎょっとした眼を向けたのは、状況を鑑かんが　みると無理ないかもしれない。


Lemon　は多忙を極めていた。極めたくもないのにと愚痴るほどヒデミは世間知らずでも恩知らずでもない。これまでの努力が実ったと喜んでくれる仲間をありがたく思っているし、３，４ヶ月先まで予約は埋まりキングやエヴァに借りっぱなしの借金も返すメドが立ちそうだ。

良いことずくめじゃないかと言われそうだが、全て満足とはいかないのが人の性さが　だ。ヒデミには今、圧倒的に足りないものがあった。そして冒頭に戻る。


「恋がしたあああい！」

ようやく客が一段落してぐったりと鏡前に伏せていた店主が、むくっと起きていきなり叫ぶ一言がこれだ。うろたえない方が難しい。とうとう切れたかとツトムが恐れるのにも理由はある。


ヒデミはいわゆる「恋愛体質」だ。ほれっぽくて尽くしたがり。いつも誰かに恋していたい。キングに対する憧れとはまた違う、生身の強烈な恋情が彼女(彼)のエネルギーだというのに、シザーズからこっち彼氏を作るひまもない。ガス欠なのだ。

だが、その恋がたびたび災いとなるのもツトムは見てきた。ゲイなのはともかくとして、彼女の相手はツトムでも首を傾げる輩が多い。いつもは鋭い眼力が恋の相手に限ってまるで効かないから困りものだ。


「いい男落ちてないかしら。拾ってくるのに」

冗談どころか半分本気まじ　だ。かなり切羽詰まっている。ほうきで床を掃きながら、ヒデミの見えないところで両手を組み合わせツトムは祈った。神様どうか、優しくて金遣いに綺麗で泣かせたりしない人を店長に授けてあげてください。お願いしますと頭まで下げてしまう。

バイトを始めて一年余り。起伏の激しいヒデミの恋愛事情を、短い間だが目の当たりにしてきたツトムならでは。店主を思うと同時に自らの平穏を欲しての、心からの願いだった。


幸か不幸か、時に願いはあっさりと叶えられたりする。
微妙に希望とずれた形で。





初秋のその日は、シザーズのあとでヒデミが得た久々の完全オフだった。さすがに嬉しい。前日も遅かったというのにあまりの嬉しさでいつもより早く目が覚めた。

休日となると予定を詰め込みたがるタイプで、約束がないと落ち込むのだが今日だけは逆だ。ああ自由！　予定がないなんて最高！　人間忙しすぎるのはやはり考えものらしい。

嬉々としてバスルームに飛び込んだヒデミは全身を磨き立て、休日仕様のお洒落に気合いを入れた。


休みの日は人の集まるところへ出向く。骨の髄まで美容師でスタイリストのヒデミは流行を肌で感じる時間が必要不可欠だ。というわけで何よりもまず人間ウォッチングを楽しみたい。店にカンヅメでは見過ごしてしまう季節の変わり目。歩く人も街も真夏の原色系から赤茶黒灰といった紅葉を思わせる色合いへと模様替えしている。


「んー楽し。いい感じよねえ」

街角のオープンカフェに陣取ると、行き来する人たちのファッションや髪型に鋭くチェックを入れ、流行はや　り廃すた　りを拾い、似合う似合わないを吟味するのに余念がない。行き交う人々にとってはそんなヒデミがまた一見の価値ありだった。

白いファーの短いベストにチョコレートブラウンのカットソー・アンサンブルをあわせ、革のミニスカートと赤茶のチェック柄ブーティーという出で立ち。カフェの椅子に深く座り、長い足をこれ見よがしに組んでカプチーノをすすっている。肩を過ぎる長さのブラウンの髪は外巻きにくるりとはね、前髪に金色の大きなサングラス。

ここまで決めていると、軽いナンパ男には荷が重いのかそうそう声はかからない。男よりも女の子の方がずっと積極的だ。カメラを手に頼みに来る子もいる。制服の集団は修学旅行だろうか。


「すみません。一緒に写ってもらえますか」
「あたし芸能人とかじゃないけど。パンピーでもいいの？」
「いいです！　すっごいお洒落で東京っぽい！」

そう言われると悪い気はしない。にっこりフレームにＶサインつきで収まってやるとキャーキャーと喜ばれて笑ってしまった。そんなことを小一時間もやっていただろうか。やってくる二人連れがヒデミの興味を引いた。まだ高校生ぐらいか。どちらもなかなかの外見だ。特に女の子が。


「わっかいけど、絵になるわねえ」

腰まで届きそうなストレートの髪。黒のホットパンツに青紫のタイツを合わせ煉瓦色のショートブーツをはいた女の子は、黒にラメがちりばめられたＴシャツに白の丈の長いニットカーデを羽織っていた。６，７０年代を思い出させるが、彼女らの世代には逆に新しいのだろう。

男の子はというと、長Ｔの上から半袖の綿シャツ、古着風ジーンズにスニーカーは普通の格好だが、ブレスレットに指輪にネックレスにベルト、シルバーアクセサリーをそこら中にぶら下げていた。歩く風鈴じゃ言い過ぎかしらとヒデミはこっそり笑う。顔は整ったイケメンだがちょっとひ弱そうだ。

視線を感じたのか男の子がこっちを向く。ヒデミを見て顔がだらしなくなるのは男としては健全な反応だが、隣の彼女にバレバレだ。察知した女の子がキッとヒデミをにらみつけた。切れ長の眼、細い眉。日本人形みたいな顔は歪めても綺麗だと感心する。高校生の嫉妬の視線などヒデミにとっては無害そのもの。可愛いだけだ。

この際とにっこり愛想をふりまいたらぎょっとした顔になった。あわててプイとよそを向く。その顔がみるみる赤く染まるのをヒデミは見逃さない。これは世に言うツンデレってやつだろうか。　かーわいい！

最近ではショーコに感じて以来の、あるはずのない母性本能をキュッとくすぐられる感覚。事態に気づいた男の子が隣であわてている。


「行こうよ早く」

女の子が彼氏をぐいぐい引っ張る。意外に尻に敷かれてるのかも。どちらも微妙な未練をヒデミに残しつつ、遠ざかっていった。


「うーん残念」

なかなか目の保養になるカップルだったのにと惜しみながら、ヒデミもぼつぼつ腰を上げることにした。せっかくの休日。チェックしたい店がたくさんある。海外ブランドの新店も目白押し、美味しい店も増えたはず。

まだまだ動き回る気満々で颯爽と歩き出すヒデミの背中を、たくさんの眼が追いかけていた。



日暮れて数刻。街灯と闇が路に落とすアシメトリーな模様の上、ほろ酔い加減のヒデミはご機嫌だった。初めてのレストランでちょっと贅沢なコースを食べ、初めてのバーで渋いバーテンと気の利いた会話を楽しんできたところだ。楽しくないわけがない。

こんな夜もたまにはいい。互いの長所短所を知り尽くした仲間と過ごすのはもちろん好きだが、ひとりで気ままに過ごすのもヒデミにとってはかけがえのない、且つ必要な時間だ。


ゲイだと自覚した少年時代に、自分はずっと一人なのだと漠然とした覚悟を抱いた。悲壮感とまでいかない未熟な悟りとでもいうのか。幸いなことに当時想像できなかったほど現在の自分は恵まれている。人生の半分はろくでもないが半分はいいことばかり。自分を偽らなくともそばにいてくれる友人達は得られると期待してなかった宝物だ。

それでもなお、最後はひとりだという思いが消えることはない。結婚という社会制度に収まるべくもない自分の性癖。惚れっぽくて尽くしたがりの性格も実は、長い人生を連れ添うパートナー欲しさかと思うことがある。だからこそ一人を楽しむ余裕と術をなくさぬように自分を律することは必要だった。興味と好奇心は仕事にも通じるし、損はない。

今日訪れた店はどこも当たりだった。レストランもヒデミ基準で三つ星。バーは二つ半。今度キングにも教えてあげよう。早耳の彼はレストランはすでに知ってそうだが、バーは出来たばかりらしいからきっと威張れる。エヴァも連れて行こうか。ショーコの好きそうなスイーツの店もあったっけ。ひとりを楽しむなどと言いつつ、結局誰かを連れて行こうとする自分に苦笑が漏れる。

余韻を味わいながら地下鉄を目指していたヒデミが、短い横断歩道を渡り終えた時だった。


「……やだって」
「…んだよ、お……」
「……だっていっ…るで…」

夜の街はどこもいざこざにきりがない。大抵聞き流すのだが女の、それも若い声が混じっている。ヒデミはチェックのブーティーを左へ向けた。表よりもさらにお洒落な店が並びまだまだ明るい裏通りの、ビルの陰でもめている数人。どうやら見過ごせなくなってしまった。


「…なしてって言ってるでしょ」
「すっげえ美人ちゃん。ラッキー。なあ」
「や、やめろよ」
「るさい。ぼうやはさっさと消えな」

突き飛ばされた男の子が地面に倒れる。女の子が叫ぶ。どっちも昼間見た顔だ。


「やめて」
「おらおら」
「怪我するぞ」

腹と頭に蹴りを食らっておびえたのか、男の子がぱっと逃げ出した。女の子が叫ぶ。


「ユキノリっ？」
「やっぱ軟弱だわ」
「だーかーらー俺たちとー」

「なーにをしたいのかしらー？」


ヒデミのいかにもからかった声に三人が振り向いた。絡んでいるのは若い、ちんぴらとも呼べない男がふたりだ。ヒデミに気づいた女の子が声をあげる。


「あなた」
「うわー、また美人のおでましだぜ」
「ちょうどいいや。この娘と４人で遊びにいかねえ？」

「えー、あんまりそそられないわねえ。あなたたちじゃ」
「何？」

どっちも頭は良くなさそうだ。ヒデミは一応諭してみる。


「そんな若い子つかまえて。淫行条例でひっぱられるわよ」
「るせえよ。遊ばないんならあっちいけよババア」
「しっつれいねえ。生憎あたしはババアじゃないの。ケーサツ呼んじゃおっかな」

シャッと携帯を取り出した。普通はここで退くのだがどうやらふたり組は酔っていた。ヒデミを挟むようにして飛びかかってくるふたりをかわす。


「やめなさいってばー」
「この、のらりくらっり」
「つかまえろ」

武術の心得などないヒデミだが場数による経験則はかなりなものだ。逃げながら後ろの女の子に叫ぶ。


「お嬢ちゃん、さっさと逃げなさいって」
「え？　だって」
「邪魔！　早く」
「きゃあうしろ！」

気がそれた一瞬を突かれた。ああもう。仕方なくヒデミは地声で怒鳴りつけた。


「ええ加減にせんかーーい！」

女と信じて疑わなかった相手から男そのもの、ドスのきいた声が飛び出せばそりゃあ驚くだろう。仰天しておののくふたり。女の子の目に嫌悪が浮かぶ。慣れているけどめげそうだ。


「うげ？　お、男？」
「うそだろー」

その隙を突いてひとりを肘でのすと、とびかかってきたもうひとりの向こうずねをブーティーのつま先で狙う。尖り具合が丁度いい。


「ぎゃあっ、っってえええ」
「…すごい」

嫌悪も忘れポカンとしている女の子の向こうから、走ってく来るのはさっきの彼氏か。役立たずでもなかったようだ。


「お、おまわりさん、こっちですー」

ヒデミはとっとと逃げだした。面倒だ。ところが角を曲がったヒデミのうしろには女の子もついてきていた。


「な、なんで？　あなた逃げなくてもいいのに」
「聞きたいことがあるんです」
「ええ？」

ヒデミのミニの裾をしっかり握りしめて、様々な感情が入り交じった顔は何か切羽詰まって見える。緑の黒髪が綺麗だ。毛先でいいから切らせてくれないかな。


状況もかえりみずに、ヒデミはそんなことを考えていたのだった。





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