ブーケからの帰り道。

いつもよりもゆっくりしたキングの歩調は、隣のショーコにあわせたものだ。判っているのかどうか、歩くたびに右左と小さな頭が揺れる。さしのべた両手がぎゅっと握りしめるバラ。


「ヒデにもらったのか」
「うん。いいなーって言ったら」
「大きな花束だったな」
「シザーズでキングにもらったのも大きかったよ」

くくっと、キングの喉の奥から笑いが漏れる。あの花束がこれほど喜ばれるとは思わなかった。軽い気持ちで贈ったのにずいぶん大事にされて、驚かされたのはこっちだ。ドライフラワーになって今なおショーコの部屋を飾る花束を思い描いていると、また話しかけられる。


「あたし、初めて聞いたな」
「何を」
「ヒデミさんの本名」
「そうか」
「キングは知ってたの？」

笑みで肯定する。長いつきあいでは、否応なく本名を出さざるを得ないようなあまり良くない状況も幾度か経てきた。


「そっかあ」

ためつすがめつバラをみているようで、ショーコの思考は別の方に飛んでいるらしい。


「キングの名前も、あたし知らない」

確かに言った覚えはない。そのことに深い意味などないが。


「ヒデミさんもエヴァもキングもみんな、源氏名っていうかあだ名っていうか、ここらはそういうものなの？」
「ショーコもじゃないか」
「あたしはほんとにショーコだよ」

「ヒデだってそうだったろ」
「うー」

口を尖らせてブツブツ言う彼女。こだわっていることはなんとなく判るので、キングはなだめるように言い足す。


「夜の街の人間はトラブルが多い」

バラを見る目の端から、ショーコがチラッと見上げてくる。


「自ずと用心深くなる。本名を言いふらす必要もないしな。通称でとおす奴がほとんどだ」
「……わかるけど」

「言霊、って知ってるか」
「ことだま？」
「人や物の名前には不思議な力が宿ると昔は信じられていたそうだ」

まだどこかいぶかしげにショーコはキングの話を聞く。


「本名を知られると相手に身も心も支配されるといってな」
「ほんとに？」
「だから本当の名前は決して人に知られぬよう隠して、日頃は仮の名を使ったらしい」
「へえ」

「本名を知るのは親兄弟と、連れ合いくらいか」
「連れ合いって？」
「夫や妻、恋人。いわゆる伴侶だな」

「伴侶」
「心の奥底まで許す相手にだけ、名前も許した」
「……ふうん」
「人間関係も名前も。今より狭いが、深い時代だったんだろうな」

聞き入りながらうつむいたショーコに、立ち止まってキングは尋ねる。


「俺の名前を知りたいか？」

頷けば告げようと思っていた。古いにしえ　はともかく現代、今の自分にそれほどのこだわりも警戒もない。ましてや相手はショーコだ。

ところが彼女は首を振った。握りしめたバラを差し出し、決然とキングを見上げて唐突にしゃべり始める。


「あたしの名前は、あしかわしょうこ、っていいます」
「……は？」
「字は、水草の芦あし　に川、咲くに子どもで、芦川咲子あしかわしょうこ　。　　えっと、よろしく、お願いします」

バラがぐいと押しつけられた。ぴょこんとお辞儀をしたショーコは、まだ戸惑っているキングに言い足した。


「いつか」
「いつか？」
「キングの名前も教えてね」

くるり翻って走り出す背中。


「ショーコ」
「先に帰るー」

あっという間に小さくなる姿に、やられたと思った。
自分の名だけを伝える。それもまたひとつの告白だ。

『心の奥底まで許す相手にだけ』


また宿題が増えた気がする。この調子ではショーコに想いを告げる時には、何もかも根こそぎ持って行かれかねない。名前にまで意味を持たせてしまった自分。墓穴とはこのことか。


薄曇った闇空にかざすバラ。
柔らかな明るい黄色はショーコに似合いそうだ。


呟いてみる。
まさかその字をあてるとは思わなかった、名前。

「咲子しょうこ　か」


街に携帯があふれ、衛星からＧＰＳで現在地を教える時代になっても。
言霊ことだま　はきっとある。

早く咲け。
この胸いっぱいに。


バラを手に、キングは足早に彼女の後を追った。





口にするだけで笑みがほころぶ。
全てを攫さら　う可能性を秘めた。

君の名前。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　Your name　　/　end　＞