ジンという名の酒があるのは知っている。
カンパリと名の付く酒はたくさんあるのだろうか。

あいにく猫には縁遠い話だ。



ある夜だった。
居候の彼女がごきげんな調子で、私に三角形のグラスを突きだした。


「ジン！　キングが作ってくれたの、カンパリソーダ。きれいでしょ！」

たしかに綺麗だった。鮮やかな赤色が透きとおってみえる。


「キングのはなんて言うの？」
「カンパリビア」
「ビアってビール？　ビールのカクテル？」
「あまり飲まないがショーコにそろえて。……じいさんが好きだった」

じいさんとは誰のことか私にはわからない。妙に明るい主あるじ　の声音はどこかで聞いた響きだった。

そうだあのとき。





主あるじ　のところに、時を置くと決まってかかってくる電話がある。忙しい主は大抵留守で、いつもピーという音に聞き覚えた声が続く。


『永楽ガーデンの三村です。こんにちは。今月のご報告です。とても落ち着いていらっしゃいますよ。食欲もあり夜もよく眠っておられます。前回のご訪問の折に頂いたお花が特に嬉しかったようで、何かの拍子にその話をされています。涼しくなったので身体も楽になったご様子ですね。ご心配はいりません。次回いらっしゃれるのは来月でしょうか。わかってないようで楽しみにしていらっしゃいますから、お顔を見せて差し上げてくださいね』

毎回こんな風だ。誰のことなのか私にはわからない。


主は帰ってくると必ず電話を確かめ、光が点滅しているとあの声に聞き入る。あまり遅くない時間だと、電話をかけることもある。


「鼓堂です。祖母がお世話になっています。変わりありませんか」

コドウとはたぶん主の名前だ。一体いくつ名前を持つのか。ソボと言うのも人の名前だろうか。


「ええ。来年十七回忌になります。……そうですね、元気でいてくれると。ええ、ええ」

そこに電話をかけるとき、主の声は少し低くて、少し哀しげに聞こえる。だから私はつい足元にすり寄ってしまう。背をかがめて抱き上げる彼の笑みもなんだか。





「おばあちゃん？　あたしは会ったことないなぁ」

彼女はあっけらかんと言った。おばあちゃんというのも誰のことだか。


「お母さんて北のほうの人らしいんだけど、田舎に帰ったことないし」
「そうか」

彼らの会話は遮る音などない。主が音楽を鳴らすことがあるが、それも稀だ。


「居るのかもしれないけど。わかんない。……キングは？」
「母方なら。じいさんはだいぶ前に死んだがな。可愛がってもらった」
「そうなんだ。キングが孫なんていいね。自慢だよ」
「どうだろうな。ばあさんは認知症で、俺を見ても俺とわからない」
「え」

口を噤んだ彼女は言葉に迷って、代わりに主の足元にすりよった。私にそっくりだ。手を伸ばしてその髪をなぜる主もまた、私をなでるのとそっくりだ。


「じいさんが死んだあとすっかり衰弱した。俺は家を出ていて留守がちだったから、いい施設を探して預けるしかなかった。預けっぱなしだ」
「そう」
「長く生きることは幸せかどうかと思ったりする。しょせん命は授かり物、借り物だといってもな」
「……でも」
「でも？」

一度切って、また伸ばしている髪をさらりと背に流して、彼女は主を見上げた。


「忘れずにいてくれる誰かがいるのは、嬉しいよきっと」

彼女の視線がまるで痛いかのように顔をそらせ、主は手のひらで彼女の頭を膝に倒した。何気ない会話は続く。


「ばあさんの作ってくれるオムレツが、好きだった」
「いいなぁ。あたしも食べたかった」
「今度、作ってやろう。直伝だ」
「やった」

主の手は髪をなで続ける。
膝に伏せた彼女はやがて、伸ばした両手で主を抱きしめた。



テーブルの上で寄り添っているグラスの、静かに注がれたカンパリみたいな、明るくてほろ苦い夜。

静寂を乱したくなかった私は、彼らの向かい側、ラグの上でそっと眼を閉じた。





　　　　　　　　　　　　　　　　　　＜　Campari　Night　／　end　＞