祖母はクリスマスが好きだった。きれいに飾ったツリーを飽きもせず眺めては喜んだ。

「麻人あさと　ほら。きれいね」

そんな祖母のために、祖父は毎年手頃な大きさの木を選んで掘りだした。庭師と一緒に運んで植木鉢に移し換えると、祖母が脚立に乗って三本のリボンを枝先へと張る。赤、白、黒。オーナメントはキングも一緒に飾る。

てっぺんに乗せるのは金色の大きな星だが、母が死んだあと祖母はどこからか銀の星のオーナメントをみつけてきて、キングに飾らせた。

「麻人、おかあさんの星よ」
「おお、麻美の星じゃな」

そんな祖母が、祖父が、そして母が大好きだったあの頃。



クリスマスの季節にここに居るのは十数年ぶりだった。位牌の祖母はツリーを欲しがっているかもしれないがそんな気は起きなかった。ひとりで木を探して掘り起こしてくるのも、オーナメントを飾るのもごめんだ。供えたのはキャンドルが一本と星ひとつ。

そういえば施設へ移ってからも、クリスマスに祖母を訪なうと必ずと言っていいほどツリーのそばにいた。クリスマスだけはキングにあの形相を見せなかったように思う。穏やかにほほえんでくれる祖母に安堵しながら、逆に責められている気もした。どうしてあの洋館に連れて帰ってくれないのかと。


家を出てから仕送りは欠かさなかった。余裕がなかったときも、やがて十二分に余裕ができてからも。そのために一人立ちしたのだからキングにすれば当然だったが、祖父母がどう思っていたかはわからない。

なぜなら、祖父が亡くなってから経済状況を調べると、苦しい暮らしにも拘わらずキングの送金はそっくり口座にあって、手を着けた形跡がなかったからだ。

祖父母の家は明治の初めに貿易で財をなし、さらに株と土地持ちになったという。代々それらが受け継がれてきたが、事業は先細りして祖父の先代で辞めた。株と土地で生活に困ることはなかったが、年月とともに切迫してそれらを切り売りしていた。

送った金を使ってくれなかったのはプライドだったのか、それとも？　わからずじまいだ。孫からの送金が、家を出たとき以上に祖父の気持ちを傷つけたのでなければいいが。今となっては願うしかない。


祖父の死後、祖母の処遇でキングは迷った。たとえ記憶が途切れがちでも祖母はここを離れたくなかっただろう。人を雇って世話をさせるという選択肢もあったが、そのためには自分がここへ戻らねばなるまい。戻りたくなかった。それは祖父母に対する生涯の負い目であり、見るまいとしてきた真実だ。

祖父母が居て母が生まれ育った家。皆がキングを愛してくれた。ここしか戻る場所を知らない。にもかかわらず彼にとってここは寂しく、振り返る場所ではあっても戻る場所にはならなかった。だから、いたれりつくせりではあっても見知らぬ施設に祖母を移したのだ。



祖父が眠る墓のある菩提寺で、祖母の四十九日法要をひとり営みながら、キングはふと思い至った。もしかしたらあれは祖母の抗議だったのかもしれないと。すべてを忘れ父と間違えて自分を責める心の奥底には、住み慣れた場所から引き離された悲しみ、共に洋館に住もうとしなかった孫への恨みがあったのではないだろうか。だとしてもすでにできることはない。


しめやかな読経が本堂の高い天井へ放たれていくのを聞きながら、キングは祈った。

許してほしい。許すから。
あなたたちが心安らかであるように。


そしてひとりか。
いまさらの事実が痛いほど心に食い込んだ。





これが最後になりそうなので法要が終わっても滞在をひきのばした。洋館も土地も手放そう。年明けそうそうにずっとせっついていた不動産屋に連絡しよう。アンティークの家具は値段でなく大事にしてくれそうな引き取り手を自分で探すつもりだ。

メールの着信音が鳴った。見るまでもない、ショーコだ。きつい別れ方をしたのに彼女が東京へ戻ってからは毎日送ってくる。綴られている日々は同じようで少しずつ違う、いかにも日常で現在で、過去に浸っているキングをホッとさせた。

『宝円さんと居酒屋に来てるのー。おでんがおいしいんだよ、ほっけともろきゅう。チーズコロッケがとろっとろ〜』

チーズがとろりと流れ出るコロッケの写メが映っている。大きな口を開けたショーコも。

『晩ご飯、食べた？』

思えば七夕からろくにあってない。母親の葬儀が三月ぶりだったのにあの始末。それからまた三月か。よく愛想を尽かされないものだ。二十歳そこそこの彼女が見せる意外性は健在らしくて、その頑張りが切なくもあった。



昔をなぞるように、さまよう亡霊のように、家のあちこちを数日歩いた。廊下や壁の小さな傷、重かったり軽かったりする扉のクセも覚えている。庭の木々ひとつひとつの名前まで。

すべて取り壊されて真新しいマンションになるのだろうか。庭や洋館を生かしてもらえるに越したことはないが、改修も維持も金がかかるから難しいだろう。それも世相だ。世相か。

見上げた銀杏は暮れ近いというのにまだ葉を残していた。
曇り空。温かい冬だ。

この庭も家も嫌いだったことはない。いや好きだった。こんな風にどっぷり浸かっていると離れるのがつらくなるほど。もう少し居ようかとつい、後ろ髪をひかれるくらいには。



クリスマスの朝に携帯が鳴った。メールじゃない？　液晶が示すショーコの名。すぐ伝言に切り替わってやがて切れた。この二ヶ月、ショーコが直接かけてきたのは初めてだ。そういえば昨日はメールがこなかった。何かあったとか？


メッセージを再生したキングは耳をつんざかんばかりに怒鳴られた。

『いつまで待たせんの、バカキング！　戻ってこなかったら承知しないからねっ！　とっとと……』

携帯を耳から離すほどの大声が急にしぼむ。押しつけなくては聞こえない小ささに。

『……ぃたいよ』

ぷつっと切れた。ツー音の向こう、ショーコを思い浮かべようとするとまた、泣き顔だ。かかっていた灰色の薄雲が切れて弱い陽が射す。

ショーコに蹴飛ばされるとはな。いつまでも過去に、感傷に浸っているなんて確かに自分らしくない。

冷たい空気を吸い込むと肺が大きくふくらむ。昔に費やす時は尽きたようだ。バサッと枝を飛び立っていく鳥の羽ばたきをふり仰いだ。どこへ行くのか、それとも帰るのか。帰る場所があることを羨んでいた。





マンションについたのは日付が変わる手前だった。

掃除とジンの世話をかねて一日おきに家政婦を頼んである。平日の午後に限っているせいかショーコとかち合うことは滅多にないらしい。ろくに戻ってこない薄情な飼い主にジンもさぞやあきれているだろうと苦笑がもれる。嫌われたかもなと思いながら鍵穴にキーを差し込んだ。

ショーコのブーツはあったが室内は暗かった。眠ったのだろう。録音されていた声も疲れていた気がする。リビングにそっと忍び込んだとたん突進してきた固まり。ふわふわの毛の下から立てられる爪に思わず顔がほころぶ。

「ジン、元気だったか」

いつもクールな彼女にしては珍しく興奮状態だ。みゃあみゃあと足下からよじのぼる。抱いてやっても胸から肩まで駆け上がり、落ちては着地してまたむしゃぶりついてくる。

「落ち着け、踏むぞ」

なんとかジンを制しながら手探りで灯りをつける。その眼にツリーがとびこんできて、息をのんだ。

まさか。

サングラスをはずして瞬きする。ここに、自分のマンションにツリーなんてあり得ない。しかも、電飾や色とりどりの飾りはなく枝には白い綿、てっぺんに金の星、そこから枝先へ赤、白、黒、三本のベルベットリボン。銀色の星がいくつか散りばめられた緑の三角錐はまるで、かつて祖父母と飾ったツリーの再現だった。


時間と空間を超えておそわれる記憶の津波。母の、祖父の、祖母の笑顔。笑い声、プレゼント。母に見せたジャグリング。抱きしめてくれた母のにおい。祖母の細い腕。頭をなでる祖父のてのひら。どうして幸福な思い出ばかり甦ってくるのか。

息が詰まりそうだ。
だから嫌だった。ひとりでツリーなんて。


「ジン？　どしたの…」

考える前に振り返る。クリーム色があせたスエットの上下に素足。寝起きの髪。寝ぼけた瞳がキングを認めて大きく見開く。色気皆無のショーコの姿がもたらした、天啓。

ひとりじゃない。

襲われた津波の第二波は安堵と発見。その大きさに居心地が悪くなってなんとか自分を保とうとする。

「起こしたか」

滅多なことでは驚かないキングを、驚かせるのがショーコだった。いつもいつでも、その容姿からは想像できないパワーを秘めている彼女。

今もそうだ。アメフトのオフェンスもかくやと思うほどの鋭いタックルでとびかかられた。さすがのキングも後ろに倒れ込みそうな勢いだった。そのくせしがみついたショーコはそのまま一言も発しない。

「ショーコ？」

返事もない。

「おい、ショーコ」
「……ゆ、め」
「ん？」
「夢、じゃない？」
夢でも離すまいと言うようにセーターの袖を握りしめる指。

「どう思う」

からかったつもりの言葉にあわてて顔をあげたショーコと眼があって、何かが変わった。黒い瞳に映し出される感情の色と波。泣きそうなくせにまさかここで。

「逢いたかった」

笑うなんて。
無理矢理一生懸命に。

「おかえりなさい」

強くなったと思った。
ひとつ越えたな。越えてきたんだな。


抱きしめるのはキングの番だった。
自分よりずっと華奢な体にしがみついているような錯覚。


ひとりじゃない。帰ってきた。
ここが、ホームだ。


いい大人が口にするのはあまりにもベタで大仰な気がしたから、言い方を変えた。伝えたいことは同じだ。つまり。

「愛してる」


身体を強ばらせたショーコがあわてて顔を上げた。ゆれる視線でキングのオッドアイを奥までのぞきこみ、確かめようとする。小さなてのひらが左の胸におかれた。心臓の上。ハートの上。

「咲いた、の？」


まだ信じてない、信じられない声の響き。キングはにやっと唇をゆがめた。大人の男のずるさを告げる。

「とっくにな」


ぽかんとあけた口は笑おうか怒ろうか迷ったらしいが、想いがどちらも押し流す。涙になって。

「っ……ずっ……ばっ……ひっ」


あふれる雫をキングは唇で吸い取った。星が降るように口づけを降らせる。一日遅れでもクリスマスはクリスマスだ。孤独を潤し満たす魔法を感じる。


重なる唇。
キングの胸の奥で、ショーコという名の花が満開だった。