師走の声を聞いても、キングからの連絡は一切なかった。

ショーコは毎日メールを送った。その日あったこと。その日にしたこと。エヴァやヒデミ、みんなの様子や自分のこと。

どうでもいいことばかりだけれどそれでいい気がした。返信がなくても読んでくれれば。戻ってきた時に空白を感じなくてすむように。何より、会いたいとかいつ帰るのとか早くとか、わがままを言わないためにいつもどおりを心がけたが、寂しさは否応なく求める心に降り積もっていく。

今頃キングはどうしてるんだろう。亡くなったおばあさんやたぶんおじいさんのことも思い出して、悲しんでいるのだろうか。たったひとりで、自分がそうだったように。確かに必要な時間だったけれど辛いことに変わりはない。

自分は幸い母との穏やかな時間も与えられたが、エヴァの話から察するとこの数年、キングは思い出をすり減らすばかりのようだった。ショーコには伺いしれない家族の事情。相手に自分とわかってもらえないだけでもきついのに、別の誰かと思いこまれ責められるなんて。キングは大丈夫だろうか。


クリスマスツリーはそんな心配を紛らわせる格好の材料だった。発端は例によってブーケでの雑談だ。仕事に励みながらキングを待つ生活は要するに以前と変わらない。寂しくなるとブーケに行くのも相変わらず。

エヴァとヒデミ相手に他愛ない話で盛り上がっている時だった。
「いい加減に笹も片づけなきゃなぁ」
何気なく漏らした一言がブーイングの嵐を呼んだ。ヒデミとエヴァが食いつく食いつく。

「笹ぁ？　笹ってあの笹ぁあ？　まだ飾ってるわけぇええ？」
「ヒッキーしててすっかりボケっちゃったのねショーコ」
「師走に笹ぁあ？　信っじらんないぃいい」
こんなハモリ要らない。心底思いながら無駄な抵抗を試みる。

「くれたのはエヴァじゃん。そりゃ欲しがったのはあたしだけど、キングが捨ててなかったんだもん。９月に戻った時そのままあってあたしもびっくりしたんだから」
「基本、キングは生き物に優しいけどぉお、それにしてもねぇえ」
ぎろっとにらむエヴァの殺気。ヒデミが口を挟む。

「１１月に戻った時もそのまま？」
「うん」
「キングがぁ単にぃ忙しかっただけじゃないのぉお？」
「そりゃそうかもしれないけど」

「この季節にぃ七夕飾りなんてぇ寒々しいってよりぃおどろおどろしいわよぉおお」
「そーそー、うらめしやーってさ」
「ヒデミさんまでやだ」
「ひとりで眺めてると寂しくならないぃい？」
図星だった。勝ち誇った顔のエヴァに説かれる。

「自分で飾ったんなら自分で片づけなさいよぉお。でもってツリーにすればぁあ？」
「ツリー？」
「１２月ならクリスマスでしょぉ。キングを喜ばせなさぁいぃいい」
「そうよショーコ、ツリーにしなさいって」

「クリスマスツリーかぁ」
しょげていた気持ちが上昇したが、ためらいが先立つ。
「喪中だよ？　……いいのかな」
言外にキングも含ませたショーコに、眉を上げたエヴァが肩をすくめる。

「クリスマスってのは本来、静かに祈るもんじゃないぃい？　家でツリー飾るくらいは問題ないでしょぉお。問題あるとしたらぁあんたのインテリアセンスだわぁあ」
「責任重大ってことねショーコ」
「えー。キングならおっきいのがいいかな。でもあんまり大きいと一人で立てるの大変そうだし」
「立てるぅうう？」

またまた殺気のこもった視線で射られて思わずショーコはヒデミのうしろに隠れる。

「なによぉ立てるってぇええ。あんたひょっとしてプラスチックの作り物のツリーを考えてるんじゃないでしょうねぇええ」
「え、え、だ、だって」
「キングにそんなもん似合うわけないでしょぉがぁあ。もちろんツリーはああいう本物に限るわよぉおお」

びっと指さしたエヴァの長い爪は雪の結晶をデコされてキラキラだ。その先にあるのは師走に入ってすぐ飾られたブーケのクリスマスツリー。天井につくほどの大きな木はもちろん本物だ。深い緑の枝には電飾とオーナメントが映えてこっちもきらきら。そりゃあ美しいけれど。

「いっくらなんでも大きすぎるよ。大体どこから買ってくればいいの？　無理無理無理」
すっかり及び腰になったショーコを、眼を細めたエヴァが鼻で笑った。

「しょうがないわねぇえ。いいわぁ、あたしが手配したげるぅうう。キングにクリスマスプレゼントよぉおお」
「あたしも乗った。エヴァ、折半ね」
「きゃーヒデぇえ、だから好きぃいい」
「まっかせなさーいっ」

カウンター越しに抱き合うふたりは見慣れた光景で誰も注目しない。ぽかんと眺めていたショーコにエヴァがくぎを差した。

「言っとくけどぉお、プレゼントは木だけだからぁあ。飾りは自分で調達しなさいねぇえ。木にふさわしいちゃんとしたのよぉお。シックにゴージャスにぃい。安っぽいイチキュッパなんて勘弁しないからぁああ」
「はっ、はい！」
「証拠写真、写メって見せなさいよぉお」
「頑張りますっ」

「やだーショーコったら、雇われたばっかのバーテンみたい」
「ヒデぇ、こんなの雇ったら商売上がったりよぉおお」
「エヴァっ、だからひどいー」
「きゃーっはははは」


大騒ぎで終わったブーケの夜。だが約束はしっかり守るのがエヴァだ。三日後ショーコの携帯に突然電話が入った。

「ショーコさん、ですか？」
「はい、いえ、えっと？」
「ブーケのエヴァさんからご注文されたツリーをお届けにあがりたいんですが。いつならご在宅でしょう」
うわ、仕事はやっ。まだ笹も片づけてないのにとショーコは焦る。

「えっとえっと、すみません、明日でもいいですか？　明日の午前中。住所は」
「エヴァさんからお聞きしてます。では明日の１０時でよろしいですか」
「はいっ」
帰ったら即行で笹かたづけなきゃ。飾りはずして竹はどこに置こう。リビング？　あたしの部屋？　軽くパニックに陥ったショーコに電話は続く。

「かなり大きいものですが、場所は大丈夫でしょうか」
「大丈夫にしときますっ」
うわずったショーコにくすっと笑い声が聞こえた。やわらかい女性の声。

「承知しました。では明日１０時に」
「よろしくお願いしますっ」
珍品堂の通路ではたきをもって最敬礼だ。顔を上げたら宝円に怪訝な顔をされる。

「なんじゃショーコ、また頼みごとか？」
「ちがうちがう。マスター、あした午後出でもいい？　ツリーがくるの」
「ツリーだ？」
「うん、エヴァがね」

説明しながらショーコは久しぶりのわくわく感。キングにメールしようか。ううんサプライズかな。彼が喜びそうなツリーってどんなのだろう。シックにゴージャス？　ゴージャスはわかるけどシックって正直、どんな風？　いろいろな思考がショーコの頭で飛び交っていた。


願い事の短冊は捨てるのも忍びなくてしまいこみ、飾りをとっぱらった笹の鉢を引きずるようにして自分の部屋に持ってきた。

ショーコの部屋、チェストの上には母の位牌が置かれている。このごろの線香はアロマみたいな香りもあるが、選んだのはごく普通のもの。朝はあわただしいので夜、眠る前に一本くゆらせながらその日あったことを報告して手を合わすのがショーコの新しい日課だった。


翌日午前中、ツリーを届けにやってきたのは男女ふたり。昨日連絡をくれた人だろう、女性の元気な挨拶にちょっと圧倒される。
「こんにちは、スノーラビットです。エヴァさんからのご注文をお届けにあがりました」

長い髪をポニーテールにしてキャップにまとめエプロンをして、ショーコよりも年上だろうが小柄なせいで変わらなくみえる女性。同じキャップとエプロンをつけた男性が後ろでツリーと控えている。

「どこに置きましょうか」
「えっと、こっちです」
あわてて案内するショーコに続いた彼女は、指定したリビングの場所に敷物と板を据えてから男性スタッフとツリーを持ち込んだ。思わず感嘆するショーコ。女性スタッフが言葉を添える。

「お気に召しました？」
「はい、すっごい綺麗」
「エヴァさんは眼が肥えてらっしゃるから。特に選んできたんですよ」
「エヴァ、さん、を良く知ってるんですか」
「お店にお花を届けにあがったり、ご贔屓にして頂いてます」

にこっと笑うと逆に大人らしさが滲んだ。すでに玄関まで戻っていた男性スタッフが声をかけてくる。
「彩芽さん、先行きます」
「はい、すぐ」

あやめと呼ばれた彼女が差し出す受取伝票。サインしている間、やけにまじまじと顔を見つめられた。なんだろう。眼を上げるとまたにっこり。きれいに笑う人だなぁと思う。

「ありがとうございました。いいクリスマスを。失礼します」

和やかにもぴしっと挨拶して彼女はドアをしめた。やけに印象に残る人だった。今度エヴァに、帰ったらキングにも聞いてみよう。

帰ったら。

思考が止まる。毎日送るメールに返事は一度もないけれど、クリスマスには帰ってきて欲しい。帰って来るよね？

ペタペタとリビングへ戻ると、運び込む騒ぎの間どこかへ逃げていたジンがソファに舞い戻っていた。ちらっと目線だけショーコに向けたものの微動だにしない。

「ジン、クリスマスツリーよ。綺麗でしょ」
「にゃ」

どこが、とでも言いたげなジンの横を通ってツリーの前、フローリングにショーコは座り込んだ。美しい円錐形はまるで緑のピラミッド、静かなリビングに現れた聖域だ。

この時期の街はどこに行ってもエンドレスなジングルベルと、定番の赤白黒ほか色の洪水だ。慣れてしまってうるさいとも思わない代わりに特に心にも留まらないそれらにひきかえ、無音の中、緑一色の木はまっすぐ躊躇なく心に切り込んでくる。神秘的で温かな。

この木をどう飾ろう。どんな風に飾ればキングを迎えるのにふさわしいだろう。ショーコは時を忘れてツリーを見つめ続けた。





２３日、２４日、キングは現れなかった。２５日、ショーコのクリスマスは静かにあけた。ヒデミやエヴァは今頃ブーケで例年の如く身内だけのどんちゃん騒ぎを繰り広げているだろう。
「くればいいじゃない。喪中なんか誰も気にしないって」
「ひとりじゃ寂しくてぇえ泣いちゃうわよぉおお」
「キングなら戻ってきたら絶対ブーケに寄ると思うよ」

ヒデミもエヴァもアダムまでそう誘ってくれたが、どんちゃん騒ぎに不思議と気持ちが向かなかった。寂しさが極まるとほかのことはそぎ落とされてしまうのだと知った。足りないものはひとつ、ひとりだけ。それ以外じゃ決して満たされない。

前夜のイブ、リビングのソファに陣取ってツリーを肴に、チキンもケーキもなしで安いワインとチョコレートだけ手元に置いた。キングのコレクションから適当に抜き取ったＣＤを流しながら、プリンスにもたれてジンを膝にゆるゆると過ごした。ワインは半分も飲まないうちに酔いつぶれた。

ソファで眠り込みながら胸の奥底で期待した。朝になったら彼が居る気がしてた。居て欲しかったのに。

目覚めた部屋で、どれだけ目を凝らしてもキングはいなかった。胸がからっぽになる。からんと寂しさが虚ろに音を立てる。

どうして。

足下に落ちていた携帯にショーコはのろのろと手を伸ばした。メールが何件かきているけれど、欲しい人からは音沙汰がない。毎日送り続けていたメールを昨日は送らなかった。送れなかった。泣き言になりそうでやめた。きっとこっちに向かってるって信じたかった。

ほんとに帰ってくるんだろうか。
もしかしたらずっと。


携帯をいじる手は無意識にキングの番号を呼び出していた。耳に当てると繰り返す発信音。やがて切り替わる紋切り型の案内。

『おかけになった番号は現在電波の届かないところにいるか電源を』

無表情で聞いていたショーコは発信音が鳴るや、怒鳴った。

「いつまで待たせんの、バカキング！　戻ってこなかったら承知しないからねっ！　とっととっ……」

言葉に詰まって一気に勢いが失せる。声から力が抜ける。

「……ぃたいよ」

ぷつっと切った。眼を閉じて握りしめた携帯ごと膝にもたれこむ。いつのまにか床におりたジンがみゃあと鳴いてスエットのふくらはぎにすり寄った。彼と同じ金色の眼。見下ろしたショーコはひどく疲れを覚えた。

「大丈夫。泣いてないよジン」
「みゃ？」
「シャワー浴びて、仕事行かなきゃね」
「みゃあ」
「やっぱりブーケに行けばよかったかなぁ」
「みゃみゃ」
こう言うときのジンはまるで、言葉がわかるみたいで慰められる。

「おいで。朝ご飯でしょ」
「みゃーっ」
ぴんと尾をたてたジンにショーコはどうにか薄く笑った。


ずっしりと重いのは身体より心だ。ソファでなんか寝るからと自分を叱りつつ、ショーコは珍品堂で一日仕事に追われた。鈍く続く頭痛に顔をしかめるたび宝円の気遣わしそうなまなざしを感じたが、敢えてなにも言わないのがありがたかった。

帰り道、小さな洋菓子店の前でクリスマスケーキが安売りされていた。半額だ。クリスマスが終わってしまう。キリキリ痛むのはどこ。
「買っていきなよ。おまけするよ」
「ごめんね、昨日食べたから」

アスファルトは自分の心にみたいにでこぼこだ。携帯は鳴らない。飾り付けたツリーも見てもらえない。だからって泣いてもしょうがない。

帰ろう。帰って寝てしまおう。キリスト様に恨みはないけどクリスマスが嫌いになりそうだ。キングのバカ。向かい風に突き進むショーコの頬は青白く眼下には薄く隈ができていた。

ジンに餌と水だけやると、ツリーを飾って初めてリビングに留まらず自室に戻った。シャワーを浴び位牌に線香をあげてベッドに倒れ込む。一日中しくしくと小さな虫に噛まれるみたいに止まなかった胸の痛みを早く忘れたかった。まぶたの闇がやわらかい毛布に思えた。



深く潜った眠りが途切れた。聞こえたのは遠い鳴き声。
「……ジン？」

寝ぼけながらベッドから下りたショーコは、廊下であれと思った。リビングの灯りがついている。消し忘れたんだろうか。それで起きちゃったのかな。
「ジンー？　どしたの……」

まぶしさに細めたショーコの眼に、ツリーの前の背の高い影と踊るようにまつわりつくジンが見えた。寝ぼけた頭で夢と現実を行き交いながらつぶやく。

「き、んぐ、？」

ゆっくりと振り返った影。オッド・アイが煌めく。
「起こしたか」

干潮のように夢が引いていった。ジンを抱いてツリーの前に立つ彼。夢じゃないと誰か言って。息が、苦しい。

「ショーコ？」

フローリングがうねうねと波打つ。足取りが怪しい。
やっぱり夢？　なら覚めちゃだめ。覚める前に。


不確かな床を蹴ってまっすぐ彼に身を投げた。
受け止めてくれる温かい腕。
頬に響く鼓動。

「ショーコ？」

彼の声。
ほんもの？


鳴き続けるジンの声も、今はショーコの耳に届かなかった。