四十九日とは、魂がこの世からあの世へ向かう区切りだという。

母の旅立つ日は雪だった。黒い傘に散る白。ショーコは法要をトモミと店の娘たち数人とで簡素に済ませた。母が決めた墓に骨を納め、白木から漆塗りに変わった位牌を抱く。そこに意味はあっても命はない。

明け渡す準備ができた母の部屋にはトモミが越してくることになった。ショーコにすれば願ったりかなったり。なんとか段ボール三箱程度にまとめた残りの荷物も預かってもらえて助かった。東京へ持っていくのは位牌と振り袖。それだけで十分だ。

「ママが寂しくないように時々お参りするからね」

トモミたちの言葉にありがたく頭を下げた。これからは墓参りにしか来ることはないだろう。母が居たからふるさとだった街。もう母はいない。ここはふるさとじゃない。ならばどこが。


キング。
不安と切なさと後悔でつぶやく名前。


彼が言いたかったことはおぼろげにつかめた気がする。あそこで逃げるのは愚かなことだった。母についてはわからないことの方が多いし、もうわかることはないだろうが、責めても悔いてもしょうがない。

『人を許すことや自分を許すことは、逃げちゃできないんだぞ』

わかっていた気がする。その通りだからこそ反発してしまったんだ。帰ろう。ぶつけてしまった心にもない言葉を謝らなきゃ。それより何より。

逢いたい。

何かを叩きつけて叫びだしたいほど、強まる一方の気持ちを、ショーコはもてあまし気味だった。





十一月下旬。マンションは前と変わらなかった。クールな眼で迎えてくれるジン。ふんぞり返ってソファに陣取るぬいぐるみのプリンス。季節をはずれすぎた笹竹もそのままあってショーコはホッとする。でも肝心の姿がない。

「ジン、キングは？」
「みゃっ」

抱き上げられて勢いよくショーコをひっかこうとするジンは、なんだか怒っているようにも見えた。キングはどこにいるんだろう。まさかまた海外とか。携帯で連絡すればいいのに別れ際の愚かな自分を思うと指が止まる。

待ってれば帰ってくるよね？　ついそんな風に逃げを打って相手任せに構えたが、夜になっても朝になってもキングの気配はなかった。さすがに不安になったショーコは、仕事に行く前に意を決してメールした。

『ショーコです。マンションに戻ってます。こないだはわざわざ来てくれたのにひどいこと言ってごめんなさい。いつ帰ってくるの？』

送ってしばらく携帯をにらんでいたがすぐ返信があるとは限らない。肩を落としながら珍品堂へと部屋を出た。


宝円と珍品堂は時の流れを感じさせない。変わらずそこにあるもの、そこにいる人のありがたさ。古いものの魅力はそういうところなのかもしれない。

「帰りを待っとったんじゃよ」

宝円の一言に泣きそうになったのは内緒だ。変わらぬ人と仕事に安らぎを覚えた。


夜になってもキングから返信はこなかった。やっぱり怒ってるんだろうか。風船のように不安が膨らんで耐えられなくなったショーコは、仕事が終わるなりLemonへ向かった。ブーケはキング同様敷居が高いから最後の砦にしておく。ヒデミはいつもと変わらず飛びついてきてくれた。

「ショーコ、いつ戻ったの？」
「夕べ。ヒデミさんこないだは」
「あたしに謝ったりしたら怒るから」
機先を制されて口をつぐんだショーコの、申し訳なさそうな顔にヒデミは微笑む。

「身近な人が死んだら誰だって気持ちが動転して荒れるものよ。みんなわかってるから気にしないの」
「そう、かな」
「そうよ。キングは怒ってなかったし。エヴァはまぁエヴァだから」
思わずヒデミに食いつく。

「ほんと？　キングほんとに怒ってなかった？」
「えっと、たぶん」
「たぶん？」
「何。怒ってたの？」
逆にきかれて口ごもる。

「まだ会ってないの」
「やだ」
「一晩待って帰ってこないからメールしたけど。返信もこなくて」
「忙しいんじゃない？」
「キング、忙しそうだった？」
そこで初めて、ヒデミが顔を曇らせて困った顔になった。

「ヒデミさん？」
「……ここしばらくあたしも会ってないのよ」
「しばらくって、いつから」
「えーっと」

「はっきり言って」
「あの夜以来」
ぎょっとした。あの夜ってまさか。

「お葬式の、夜から？」
うなずくヒデミに茫然とした。がっくりとしゃがみこみそうになる。
「嘘」
目の前が真っ暗になった気がした。あれきり姿を現さないなんて、もしかしたら。

「ショーコ、バカなこと考えないの」
「だってだって。あたしがあんなこと言ったから怒ってそれで」
「それでどうするの。あんたに怒ったからって帰らないわけないでしょう？　きっと仕事が忙しいのよ」

「でもでも」
「たぶん、エヴァなら知ってるわ。キングの理由」
「……ほんと？」
確信ありげなヒデミの言葉をワラにもすがる思いで確かめる。

「キングのこと、あたしよりも知ってるのはエヴァくらいよ間違いなく」
言い切られてちょっと安堵して、でも現状を思い出す。エヴァにひっぱたかれて怒られたっきりの自分。

「……エヴァ、あたしのことまだ怒ってるかな」
「口ではね。知ってるでしょ、エヴァの性格」
「う、ん」
「ちゃんと聞けば教えてくれるわ、エヴァだもの」
「うん」
「戻ってきたら遅かれ早かれ会いに行かなきゃならないでしょ。さっさと行ってきなさい」

反論の余地はないが甘ったれてみる。
「ヒデミ、さんも、一緒に？」
「友達に会うだけじゃないの。あたしは今夜予約が入ってるし」
「……ひーん」
「キングに逢いたいんでしょ？　行った行った」

押し出されるようにしてLemon　を出たショーコは覚悟を決めてブーケに向かった。夜の街。久しぶりのにぎやかさや華やかさも意識になかった。いつも無邪気に飛び込んでいった扉がやけに大きくて重そうで怯む。キングに逢いたい、その思いだけでショーコは飛び込んだ。

「ショーコじゃん」
「おおっショーコだ」
「なあ、母ちゃん亡くなったんだって」
「言うなよ」
「だってさぁ」
「元気出せよ、な」

「ちょっとぉ何やってんのぉ？　出るか入るかどっちかにしてよねぇ」

集っていた客がわっと散ってショーコひとりが残された。きまずい思いでエヴァと顔を合わせる。

「あらああ、どっかで見た誰かさんじゃないのぉおお。なんの御用かしらぁあああ」

いかにもエヴァらしい口調と顔つきだったが、母の死とキングの不在が思う以上に堪えていたらしい。つっけんどんな態度にテンパってしまったショーコの、眼からぶわっと噴水のごとく涙が吹き出してきた。相手はもちろん本人も周囲もびっくり仰天。

「ショーコぉ？」
「おいおいおい、どした」
「エヴァがショーコを泣かしたー」
「ショーコが」

右往左往する様子はまるで小学生の集団だ。笑えたことに一番あわてたのがエヴァだった。
「ちょ、しょ、え、なにぃ、やだぁ」
おろおろしながらショーコの周りをくるくる飛び回る。滅多にみられないうろたえぶり。

「ショーコったらぁやめなさいってぇ、やだわぁもぉおお」
「だっ、てっ、えっ、がっ、いじわっ、でっ」
「あぁあわかったからぁ、もういいからぁ、アダムぅ、おみずぅ、タオルもぉ、なんでもかんでも持ってきてぇええ」

「泣くな、ショーコ」
「ほら、エヴァもこう言ってるし」
「な、な」


１０分後、ショーコはカウンターのいつもの席で、エヴァと向き合っていた。両手に包んでいるのはブーケに似合わぬミルクティーのカップ。

「ーったく参ったわよぉこの子にはぁあ」
「ご、めん」
「もういいけどぉお」
エヴァにしては疲れた様子でゆっくりとくゆらすのはメンソールだ。エヴァの匂いだとショーコは思う。なぜかキングを思い出す。そうだ、キング。

「エヴァ」
「なにぃ？」
「キングにメールしても返事がないの。どこか行ってるの？」
メンソールをはさんだエヴァの指先が止まった。深く吸い込んだ煙をゆっくり吐き出しながら眼を上げる。

「あの晩んー、キングがあんたに言ったことぉ覚えてるぅう？」
「うん」
嘘じゃない。忘れられない。

『人を許すことや自分を許すことは、逃げちゃできないんだぞ』
そう言ったキングの声は真剣で、疲れて聞こえた。

「あれはさぁ、自分に言ってたのよぉ」
「……え？」
エヴァに向かってショーコが眉をよせる。
「人を許して自分を許したかったのは、キングのほうだってことぉお」
「エヴァ。意味がわかんない」

ふっと口をつぐんだエヴァが視線であたりを払う。なにしろ店主が一番いばっている店だ。こういう眼をしたエヴァのそばには誰も近寄らない。身の安全のためだ。それでも少し声を潜める。

「キングにおばあさんがいるんだけどぉ、認知症でねぇえ」
「うん。聞いてる」
「はぁあ？」
ショーコの返事が思いがけなかったらしく、エヴァが思い切り眼を見張った。血の筋までみえそうだ。

「聞いてるぅ？　誰にぃ」
「キングに。詳しくじゃないけど」
「マジでぇえ？」
「もう自分のことはわからなくて、預けっぱなしで申し訳ないとか」
「……ほんとなのねぇえ」
まだ信じられないと言いたげに繰り返すエヴァ。

「エヴァだって聞いたんでしょ」
「必要に迫られてよぉ。何年か前もおばあさんの具合が悪いのに海外行きでぇ、いざって時はぁ駆けつけて欲しいって頼まれたわけぇ」
「そうだったの」
「キングが自分のこと話すのはやむを得ない場合がせいぜいよぉお。あんたにはでもふつーに話したのねぇえ。びっくりだわぁあ」
少し悔しげに聞こえたが、今のショーコはそれどころではない。

「それとあたしのことと、どう繋がるの」
「あぁ、そうだったぁあ」
のんきな言い方にこけそうになる。ほんとに忘れてたんだろうか。
「そのおばあちゃんがねぇえ、具合悪くて」
ぎょっとした。老齢で具合が悪い。それって。

「ずっとぉ、夏中危なかったらしぃのぉ」
「夏中？」
「仕事にもいろいろ影響あってぇ、ロンドンもそれで予定がずれ込んだらしいわぁ」
ショーコの脳裏にいつかの疲れた声がよみがえる。
「それでもあんたのこと連絡したら飛んで帰ってきたのよぉ、キング」
ぎゅっとグラスを握りしめる。なのに自分は。

「あんたぁ、認知症ってどんな病気か知ってるぅ？」
急に話が変わってきょとんとした。首を振るショーコ。身近に認知症はもちろん、認知症を抱えた人もいなかった。

「いろんなこと忘れるほかにもぉ、人格変わったりぃ、こっちが誰だかわからなくなったりするのよねぇ」
「聞いたことはあるけど」
「別のぉ恨みのある相手と間違えられたりしたらもうぅう、大変よぉお」
「恨み？」
「大事に思ってる相手に会いに行ったらぁ、自分じゃない誰かに対する恨みつらみをぶつけられてぇ、それでも黙って聞くしかないのよぉお」

ひたと見据えられて問われる。
「あんただったらぁどうするぅう？」
喉に縄でもかけられたように息が詰まった。

「キ、ングが？　おばあちゃんに？」
「この何年かずーっとぉ。症状は良くなったり悪くなったりでぇ、毎回毎回ってわけじゃなかったらしいけどぉお」

『自慢の孫だよ』
以前、自分は彼にそう言った。何も知らないで。

「エヴァ、あたし」
「お母さんのお葬式からちょうど一ヶ月後だったわぁ、キングのおばあちゃんが亡くなったのぉ」
ガン、と頭をトンカチで殴られたみたいなショックを受ける。

「どうして知らせてくれないのっ」
「無理でしょぉ、あんた自分のことだけで精一杯だったくせにぃい」
そのとおりだったから黙り込む。

「しょうがないのよぉ。年も年だしぃずっと衰弱してたんだしぃ。キングだってとっくに覚悟はしてたはずぅ。ヒデにだって知らせてないわよぉ」
トントンとたばこを指で弾くと、ぽろりと崩れ落ちる灰。

「だからねぇ。キングはあんたに言ってるようで自分に言ってたのよぉ」
「自分に？」
「許すことができるのは当人だけだって」
「……キングがおばあちゃんを？」
しゃべっているうちに燃え尽きたメンソールを灰皿にごりごりとこすりつけて、エヴァはショーコを見た。

「……四十九日は十二月半ばぁ。キングが戻ってくるのはそのあとだと思うぅ。メールは読んでるかもしれないけどぉお、返事はこないかもぉお」
「エヴァ」
「あんたの役目ぇ、今すべきなのは待つことぉ。戻ってきた時キングを迎えることぉ、それだけよぉ。わかったぁあ？」
「エヴァ、あの」
「あたしが話せるのはここまでぇ。あとはキングに直接聞きなさいぃい」

エヴァはそれだけいうと、さっさとカウンターを離れてしまった。これ以上は話す気がないということか。

『キングに直接聞きなさい』

その言葉が意味すること。キングは戻ってくる、必ず。ならエヴァのいうとおり、ショーコにできるのは待つだけ。待って、迎えることだけだ。十二月中旬が四十九日。ならクリスマスには戻ってこられるだろうか。


『自分じゃない誰かに対する恨みつらみをぶつけられてぇ、それでも黙って聞くしかないのよぉお』

キングが、あのキングがそんな思いをするなんて。

『許すことができるのは当人だけ』

やっぱりあの言葉はショーコのためだと思う。彼はそういう人だ。いつもそうだった。それとわからなくても様々な気遣いや思いやりを示してくれた。ショーコのために。

今度はショーコの番だ。
彼のために。


すっかり冷めたカップにもう一度口を付ける。かすかな温みと甘みがキングを思い出させる。逢いたい。逢いたい。事情がわかったからといって減るはずもない思い。待つしかないのに、希こいねが　う気持ちの強さに負けてしまいそうになるショーコだった。