蒼白になったショーコの途切れ途切れの説明を聞いてすぐ動いたのはエヴァだった。電話をひっつかんで二言三言。切るなり振り返る。

「タクシー呼んだからぁ、こんな時間だけどぉ運ちゃんあたしの知り合いだから心配ないわよぉ。何か持ってくるものあるぅ？　あるならマンションに寄ってもらいなさいぃ。急いでぇえ」

戸口へ押しながらコートを着せかけるエヴァと、バッグをつかんで持たせるヒデミにはさまれてショーコは人形のように足を動かすだけだ。扉手前で立ち止まらせたエヴァはショーコの頬を両手でパンとはたいた。ショーコがうつろな眼を瞬かせる。

「ぼうっとするのは後でもできるからぁ、今は急ぎなさいぃい！」
ごくりとつばを飲み込んでうなずくと、ヒデミが肩をギュッと抱いた。

「大丈夫、きっと大丈夫だから」
「エヴァ、車きたぞ」
「ほら行ってぇ」
「あの」
立ち止まったショーコがエヴァとヒデミをみる。

「キングに」
それだけしか言えないショーコの思いをふたりはくみ取ってくれる。

「わかってるぅ」
「伝えるから。行って」

アダムの後を追いかけながら思った。現実じゃない、夢だ。きっともうすぐ起こされる。ジンに顔をひっかかれてベッドとか、エヴァに頭をはたかれてブーケとか、宝円に揺らされて珍品堂とか。早く早くと願う。

いつになっても夢は覚めなかった。





ついこないだ元気に退院したはずの病院で、真夜中にたどり着いたショーコを迎えた母はすでに白い布をかけられ横たわっていた。とりすがって泣き崩れているのは見覚えのある女の子たち。立ち上がったトモミの眼も赤く濡れていた。
「ごめん。ショーコちゃんごめんなさい。間に合わなかった」

枕元に誘われて布がとられる。驚くほど穏やかにほほえんですら見える母の顔。見たことない綺麗で遠く離れた表情。頬の冷たさに触れてショーコの中の何かが凍った。

「母さん」

呼んでも答えはない。泣き声が大きくなってショーコを取り巻き包み込んだが、冷凍された芯のようにショーコだけ涙が出てこない。

キング。
無意識のつぶやきは口の中で消える。


医師は死因を急性肺炎による呼吸困難と告げた。もともと気管支も弱い人だった。インフルエンザで熱が出て三日、休むようにトモミが言っても聞かなかったという。
『そうそう休めないよ復帰したばかりでさ』

解熱剤で強引に熱を下げるやり方は、これまでにも何度もやってきたらしいが、弱った体にはぶり返しが大きく症状をさらに悪化させた。衰弱は一気だった。
「ごめんなさい。あたしが無理にでも病院へ連れていけば」

涙するトモミを責められはしない。かたくなになった時の母をショーコは知っている。
「トモミさんのせいじゃないよ。わかってる」

懸命に慰める頭の隅でキングと呼ぶ。凍った心、涙は出ない。流れの中に自分だけ取り残されるみたいだ。だからって放っておいてももらえなかった。すべきことが津波のように襲ってきたのだ。

何もわからぬショーコに代わって、トモミをはじめ地元をよく知る女の子たちが葬儀にまつわるすべて取り仕切ってくれた。
「ショーコちゃんは喪主だから。座ってていいよ」

そう言われたからといって座っていられるものでもないが、勝手が分からない。さらに喪主として決めなければならないことが多くてわかりづらかった。親族がほかにいないショーコはひとりで悩み、決めた後もよかったのかと自問自答を繰り返した。頭がパンクしそうなのに心はしんと冷えきっていく。

驚いたのは母が墓を決めていたことだ。トモミに聞かれて探したらそれらしいパンフレットに契約書がはさまれていた。永代供養料も含めた小さな個墓。何年かするとすべての骨が共同墓に合祀されるという。

『墓ぐらいは自分で用意しとかないと、娘はあてにならないし』

母が漏らしたという言葉にショーコの胸にはやりきれなさがあった。ありがたいと思うべきだろうけれど、せめてそれくらいやらせなさいよと矛盾した思いも湧く。わかりあえずに過ぎた二十年余り。仕方ないといえばそれまで、最後に少しでもわかりあえたのを喜ぶべきなのか。

キングと心が呼ぶ。
凍えてしまいそうだ。


友引がはさまったせいで翌々日になった通夜は、雨だった。見えないほど細い雨が一気に冷え込みを連れてくる。市営の斎場の中でも小さなホールでしめやかに流れる読経の中、ぱらぱらと参列者がお焼香をあげる。頭を下げるのは見知らぬ人ばかりで心がこもらない。

ふと斎場がざわめいた。目をやると喪服なのになぜか華やかな雰囲気のふたり。エヴァとヒデミだ。思わず腰を浮かせそうになってはっと座り直す。進み出たふたりはお辞儀をすると、力づけるようにショーコをみつめてから後ろの席についた。トモミが隣からそっと尋ねた。

「知り合い？　すごく垢抜けた人たち」
「うん、東京の」
「やっぱり。わざわざ来てくれるなんて。男の人も？」
「男？」

エヴァとヒデミに気を取られていたショーコは焼香台に眼を戻す。叫びそうになって口を手で押さえた。じんと眼の奥が熱を帯びる。親不孝な娘だ。母が死んでから一度も泣いていないのに、彼を見て泣きそうになるなんて。

キングがいる。
それだけで。





短いお礼で通夜を終えたショーコは母の知り合いだという人たちにつかまった。お悔やみの下から不審や敵意、好奇心がのぞく。しらぬふりで頭を下げながら内心ジリジリしていた。ようやくホールを飛び出すと、車のそばに見つけたエヴァとヒデミに駆け寄る。

「あぁ濡れちゃうじゃない」
「ショーコ。なんていったらいいか」
乱暴な口調に赤い眼のエヴァ、涙がとぎれないヒデミ。それから。

「ショーコ」
ふりむいたら、彼がいた。

「大変だったな」
「キ、ングッ」
抱き止められる、それだけでひたひたと満たされて安らぐ心。逢いたかった。

「遅くなって悪かった」
ぶんぶんと首を振る。来てくれるなんて、来られるなんて思わなかった。まだ数日あとだったはずの帰国。疲れてるはずなのに。ありがとうって言わなきゃいけないのに。言葉が出てこなくてバカみたいに彼の胸に顔を押しつける。抱きしめてくれる彼から離れるのがいやで、くぐもった声でささやいた。

「もうやだ、帰る。帰りたい」

怖かった。心の一部が凍ったままなのも、見知らぬ人に囲まれていることも。どうしたらいいのかわからなくて、他の誰でもない、彼にすがりたかった。

「帰る、連れてかえって」
「葬式を放り出してか。逃げるのはたやすいぞ」
子どもをあやすようにキングの声はいたわりに満ちて、だがぴんと張った何かが混じる。

「ほんとにそれでいいのか？」
「いいの。元々仲良くなかったもん。あたしなんかよりお母さんのことわかってる人がここにはいっぱいいるんだから」
「そうじゃない、それじゃだめだ」

どうしてそんなことを言われるのかわからなかった。キングに逢いたかった。キングと居たかった。キングのそばなら凍った何かも溶けると思ったのに。

「いやなの、もうつらい」
「わかりあえなかった人でもどれだけつらくても、これはショーコがやらなきゃいけないことだ」
「どうして」

「ショーコの母親だからだ」
「なにそれ？　回りくどい言い方しないで、連れて帰るのなんかごめんだってはっきり言えばいいじゃない」
「ショーコ」
両腕をつかまれた。正面に見慣れたサングラスが据えられる。

「人を許すことや自分を許すことは、逃げちゃできないんだぞ」
「もういい、頼まないっ」
わだかまる思いが思い出がつらくてキングの腕を振り払う。
「キングにあたしの気持ちなんかわかんないっ」

夜の闇と同じ色のサングラスをして、霞のように彼が息を吐く。
「そう思うならそうなんだろう」
カッと頭に血が上った。なんでもいいからぶつけたかった。物がないなら言葉で。

「なによ、キングはあたしなんかどうでもいいんだ。だからそんなこと言うんでしょ。キングなんかだいっき…っ」
怒鳴りかけたショーコの耳元でパンと大きな音が破裂した。じわり頬が熱くなる。鬼のように目をつり上げたエヴァに、ヒデミがくってかかる。

「エヴァ、何すんのよいきなり」
「口で言ってもわからないおバカにはぁ実力行使しかないでしょぉお」
「あんた一言も言ってないくせに」

「キングの代わりよぉ。殺されたってこの人は女を殴ったりしないんだからぁ」
「でもね」
「いいからぁ、ショーコぉ！」

びくっと震える。見据えてくるエヴァは見たことがないほど真剣だ。

「勢いで言いたい放題なんてぇ、ぜぇったい後で後悔するんだからぁ。自分で嘘だってわかってることぉ言うもんじゃないわよぉ」
「エヴァ、いいから」
「キングぅ、バカなお子さまが賢い大人になるためにはぁ、ちゃんと叱ってやらなきゃ駄目よぉお」

じわじわとしみてくる頬の痛みがショーコを責める。わかっているけど今は認められない。認めたくない。

「どっ、どうせあたしはバカだもん」
「バカバカバカバカ大バーカ」
「エヴァやめなさいって」
「いいもん、あたしのことなんかほっといて」

「合点承知よぉ、バカの相手なんかしてやんないわぁあ」
「エヴァったら」
「ショーコ」

キングに呼ばれても彼の顔が見られない。

「ほっといて」
「わかった。もう帰るから。……無理するな」
返事なんかできない。唇をかみ頬をおさえて水たまりに濡れたパンプスをにらむ。ヒデミがおろおろと迷う。

「ショーコ」
「ヒデぇ、ほっときなさぁいぃい。いきましょぉ」
「メールするから。ね？ね？」

ヒデミの声が遠ざかった。肩をぬらす雨が冷たい。
エンジン音とともに車は出て行った。


母は死んだ。エヴァもヒデミもキングも行ってしまった。
ひとり。
あたし、ひとりっきりだ。


引きちぎられるみたいに胸が痛んだ。雨はやむ気配もなく、ショーコの髪を肩をいつまでも濡らし続けた。