向こうを出たのが遅かった。
夕日に染まった久しぶりの街をショーコは急ぎ足で駆け抜ける。

「たっだいまーっ」
「……にゃあ？」
「ジン？　ひとりなの？　キングは？」
「みゃあ」

居心地のいいソファからそれでも飛び降りてきて足下にすりよったジンを、抱きあげながらショーコはリビングを見回した。ほぼ二月ぶりだ。すっかり涼しくなってエアコンもいらなくなったというのに。

「……なんで、まだあるの」
「みゃあ？」

リビングのソファにある大きなぬいぐるみはショーコがおいて行ったプリンス。その横にこれもショーコが飾った笹が、季節はずれをものともせずに鎮座している。びっくりだ。ほこりもかぶってもいない笹をみていると時間の感覚がおかしくなりそう。

「……９月よね、今」
「みゃっ」

抱かれるのに飽きたジンがするりと腕から下りて、またソファに飛び乗った。ここまできたら早くキングの顔がみたい。ショーコはあわてて携帯を取り出した。その手にキングからもらったブレスレットが揺れる。しかし。

驚かせるつもりで知らせずに帰ってきたのに当てが外れた。電話に出たキングは信じられないことを言ってのける。

「こっちは朝だぞ」
「こっちって」
「ロンドン」

ロンドンっていうと。

「え。え。イギリスの？」
「日本にあったか？」
「喫茶店の名前とか」
「どこの」
「……知らない、けど、さ」

電話の向こうで爆笑されて頭にきた。

「なんで？　どうしてイギリスなんか」
「急用だ。戻ってくるなら考えたんだが」
「うっ」

自業自得と言外に言われてがっくりくる。聞くのが怖い。

「……帰るのいつ？」
「ちょっと長い。２、３週間かかるか」
「えーーーっ？」

誰かを呪いたくなったが、ここでキングを呪ったらさらに帰りが遅くなるかもしれない。リビングのフロアに力なく座り込んだショーコに、慰めるようなジンの鳴き声がみゃあみゃあと続いた。



「ショーコっ」
飛びついて抱きしめてくれたのはヒデミだった。真っ平らな胸板に押しつけられて、帰ってきたなぁと思う。

土産持参で飛び込んだブーケ。ショーコの顔を見たエヴァの開口一番は「遅いじゃないのぉ、バカ娘ぇ」だ。笑っていた。エヴァもアダムも、ブーケのほかのスタッフも。

ショーコの帰りを聞きつけてあちらこちらから顔見知りが集まってくる。ヒデミが来る頃にはブーケは満員だった。その人波をかき分けてきたヒデミは仕事を早仕舞したに違いない。髪を乱して冷え込んでるのにコートも着ないで、店からすっ飛んできたのは一目瞭然だった。嬉しい。

「待ちくたびれたわよーっ」
「ヒデミさん、会いたかったー」
「それはこっちのセリフでしょうが。お母さん良くなったの？　退院したのよね？」

「おかげさまで今晩から仕事に復帰なの。さっきシャメ届いたよ。店のみんなと写した奴」
「良かったー、ショーコいないと寂しくて。もうもう話したいことがいっぱいよー」
「あたしもー」
「あぁあ、うっとぉしいぃいい」

恋人みたいに抱き合い叫びあうふたりをエヴァのすごい腕力が引きはがした。

「ヒデったらぁ、社長がこない夜で良かったわねぇ、ぜぇえったい焼き餅焼かれてるわよぉお」
「来ないんじゃなくて断ったの、当然」
「あらぁ」
「断ったって」

カウンターに並んで座ろうとしたショーコがあわてる。

「え、デートだったの？」
「いーのいーの。毎晩見る人よりショーコの方が大事」
「毎晩？」
「やだヒデ、まだ言ってなかったのぉ？」

エヴァが飲み物を出しながら楽しそうにくるりと眼を回す。

「ヒデったらついに陥落したんだからぁ」
「きゃーエヴァひどいっ、自分で言いたかったのに！」
「ひっかかないでよぉ、ってショーコ？　どしたのぉ？」

あまりの驚きに固まっていたショーコが爆発する。
「返事したの？　竹園さんに？　もちろんイエスよね？　なんで、どーして教えてくれなかったのー！」

「え、ヒデ、落ちたのか？」
「マジ？　それってあの美形？」
「ないないない」
「ありか？　あり？」

わめきだしたのはショーコだけではない。集まった客の大半も知らなかったらしく、あちこちから驚きと悲鳴と雄叫びがあがって店内騒然。先棒を担ぐのはショーコとエヴァだ。ヒデミたじたじ。

「ごめっ、その、ついこないだでねっ」
「まだ１週間くらいよねぇ」
「えーーー？　ずるいーっ」
「ずるいったってあたしもまさか」

「あたしにだって事後報告よぉ、ほんとずるいわぁ」
「エヴァ煽んないでってば！　ずるくはないで、、、いたっ、ショーコ痛いって」
「ヒデミさんのばかーっ」
「はいはいはいぃ、ブレークブレークぅうう、全員着席ぃいい」

再び両者を引き分けたエヴァがほかの連中も鎮めにかかった。乱闘になってはまずいと思ったようだ。アダムに合図しながらカウンターのふたりにすかさずグラスを並べる。

「とりあえずぅ乾杯しよっかぁ。再会ぉとショーコのお母さんの快気祝いとぉヒデミの婚約を兼ねてぇ」
「エヴァったら婚約なんてそんなっ」
「みんなもほらグラスとってぇ、奢るわよぉ」

アダムやスタッフが手早く店中にシャンパングラスを運んでいく。

「さすがエヴァ、太っ腹」
「よっしゃ、祝いだ祝い」
「なんでもかまうもんか、乾杯だー」
「かんぱーいっ！」

店中がうわんと鳴った。その中心でショーコは泣きたくなった。キングの不在で萎んだ気持ちが慰められる。迎えてくれる場所が、人が、ちゃんとあることに嬉しくなって。ヒデミとエヴァと三人で合わせるグラス。

「お帰りー」
「チアーズ」
「ヒデミさん、おめでとうー」

シャンパンは格別の味がした。



たくさん話した。ヒデミが恋バナを、エヴァがあちこちの噂話を、もちろんショーコも。母の手術から入院退院、経過や口の悪さやなんでもかんでも。母ともしゃべっていたが友達との会話は違うと実感する。

「キングはなんで一緒じゃないの？」
しゃべるだけしゃべってから思い出したようにヒデミが聞く。

「そうよねぇ。だいたい二月も留守したらぁ、戻った夜は彼氏に離してもらえないのがふつーでしょぉ」
エヴァがさらりと際どい発言をするが、ショーコはここぞとばかりに怒りをぶちまけた。

「聞いてよ、帰ってきたよって電話したらキング、ロンドンにいるっていうの」
「ロン？」
「ドンー？」
間の抜けたハモリがやけにみごとだ。

「ロンドンってどっかの喫茶店とかじゃなくて？」

思わずショーコはヒデミに抱きついた。ああやっぱりヒデミさんは同志だ。なによふんふん、キングのバカ。

「バッカねぇヒデぇ。キングがロンドンっつったらイギリスでしょぉがぁ」
「イギリス？　って海外？　なんでそんなとこ。あんた連絡したんでしょ？」
「えっと」
口ごもった一瞬で察したふたりに今度こそ綺麗にハモられる。

「バカ」
「バーカぁ」
泣きそうだ。

「だって驚かそうと思ったんだもん」
「でぇ驚かされたってぇ？」
「やっぱりバカ」
「ひーん」

突っ伏したショーコの頭をふたつの手がなでる。大きいのにしなやかなヒデミの手と、意外にごついエヴァの手。

「まぁショーコだし？」
「ショーコじゃねぇえ」
「待たせたんだから、待ってなさいってことよ」
「そういうことぉ」
「あたし、七夕だって待ってたのに」

ぶつぶつ言いかけたショーコはふと、リビングにそのままあった笹竹を思い出した。待ってくれてたのかなキングも。うん。

「でもでも。２、３週間かかるっていうの。長くない？」
「そりゃ仕事じゃねえ」
「ねぇえ？」

「もーやだふたりして、キングの味方ばっかり」
「どうどう」
「はいはい」
「遊ばないでーっ」

かんしゃくになるショーコに笑い出すふたり。周りがまたちょっかいを出して、ブーケの夜はいつまでもにぎやかだった。