「ショーコ。取れるかい？」
脚立を押さえている宝円ほうえん　の問いにショーコはあっさり返答した。
「大丈夫。こないだみたいに積み上げた一番下ってわけじゃないから」
「そりゃ重畳ちょうじょう　」
ぴたりを動きを止めたショーコは一転、不機嫌な顔で彼を見下ろす。

「ねぇマスター。重畳ってどういう意味だっけ」
「うん？　よかったとか好都合とか。どうしてだい？」
記憶を凝こ　らす。キングがそう言ったのはゆうべ、自分がぶち切れて啖呵たんか　を切った直後だった。　よかったとか好都合とか？　あとの意味が合ってそうだ。余計にしかめっ面になる。

「ショーコ？」
下から心配そうな声がして我に返った。
「ごめん大丈夫。今取るから」
仕事中に気を逸らすのは自分らしくない。ショーコは目の前、山積みの本の中から取るべき一冊に手を伸ばした。



古書店『珍品堂』の存在はこのあたりの人にも謎だ。こんな場所で古書なんて商売になるのか。疑われてもしょうがない。雑居ビルに左右を挟まれた上、どちらのビルも周囲もスナックや居酒屋やバー、飲食店ばかりだ。一応鉄筋とはいえ、谷間の小さな二階屋が生き残っているのは繁華街の七不思議のひとつと言っていい。

場所柄のせいか『珍品堂』なんて名前のせいか、別の類たぐい　と勘違いして入ってくる客も少なくない。戸を開けた途端　「え”」と背を向けるのは卑猥ひわい　なおもちゃを期待したのか。生憎現れるのは森の如く積み上げられた本の山だ。どこに何があるのか判っているのは店主・若水宝円わかみずほうえん　だけ。彼が坊主というのも胡散臭いが嘘ではないらしい。頼まれて読経をあげに出かけることもある。それにしてもよく潰れないものだと最初はショーコもそう思ったが。


珍品堂は名前の通りいわゆる稀覯本きこうぼん　や研究書を取り扱っている。年齢をものともせずパソコンに通じている宝円はインターネットにホームページを作り、他の古書店ともネットワークを作って依頼を受けた本を探したりもする。珍しい本や研究書は値が張る場合が多く収支もそれなりにまかなえるらしい。侮れない坊主なのだ。

「マスター。パソコンどこで習ったの？」
そう尋ねるショーコに宝円はカラカラと笑った。しゃちこばった言葉遣いはいらないと言われ、最初こそ気にしたが今はすっかりタメ口だ。
「ショーコの年じゃパソコンは産まれた時からあったろうなぁ」
「うん」
「わしらはパソコンを作った世代じゃから」

「…作るの？」
「秋葉原がメイド喫茶なんぞに席巻されるずっと前の話じゃ」
「アキバ？　マスターがアキバに行くの？」
「もう滅多に行かんなぁ」
「ふぅん」
「習う気になったか？」
「だから。あたしじゃ無理」

老眼鏡をひねりながらマウスを動かす宝円の横で、ショーコはせっせと本の手入れをしている。今風の全てを綺麗にする古本屋とは違って、ここでは古さをそのまま維持するのが大事だから扱いはいやが上にも慎重になる。古書独特の手触りや匂いはショーコにとっては流行りのアロマテラピーと同じ効果がある。落ちつく香りだ。


ショーコがここに雇われたのには経緯がある。宝円曰く　「わしがショーコに眼ぇつけたんじゃろ」　間違ってはいないがちょっと危ない言い方だ。

家から飛び出すようにして出てきたショーコは東京にツテなんかなかった。特技や資格もなかった。オマケに化粧も男も駄目となると出来る仕事は限られる。清掃でも弁当屋でもコンビニでも特に厭わずやったけれど、あまり長続きする仕事がないまま２年が過ぎる。

何度目かに雇われたコンビニで、夕方になると顔を出す老人がいた。いつも弁当と缶ビールとつまみを買って帰っていく。店長は近所の常連だと言う。ある日その人が勘定をすませたレジに文庫本を忘れていった。三島由紀夫の「仮面の告白」。バイトの相方に断って、走って追いかけるとすぐ先のクリーニング屋の前だった。
「忘れ物です」
「お、お。こりゃすまないね」

いくつぐらいだろう。白いあごひげが仙人みたいだと思うショーコ。落ちくぼんだ目が細くて優しげだ。差し出す本を受け取りながら。
「お嬢ちゃんには興味ない本だねぇ」
そう言われ答えた自分に驚いた。
「’金閣寺’と’潮騒’は読んだんです。でも苦手かな」
「ほぉ？」
一瞬目付きが鋭くなったが、気のせいだったかもしれない。
「ありがとう。また寄らせてもらうよ」
「はい。毎度」
言い慣れた挨拶を返して店に戻ったショーコだったが。


それから三日後。老人はまた本を忘れた。夏目漱石の「こころ」。追いかけたショーコにかれは聞いた。
「漱石はどうだね？」
戸惑いながらショーコは本を差し出す。
「’我が輩は猫である’は何回読んでも寝ちゃうんです。’虞美人草’は面白かったけど」
「ふっふっふ」
不気味な笑いをもらした老人はありがとうと受け取った。


５日後が三度目だった。今度は村上春樹の「ノルウェイの森」。わざとだとわかっていたが、毎日来るお客さんだしコンビニの店長も笑って届けてと言うのでショーコはまた走った。老人はクリーニング屋の前で待っていた。
「’ノルウェイの森’はすごくいいです。でも」
聞かれる前にショーコは老人に告げる。
「でも？」
「’世界の終わり’の方が好き」
「はーっはっは」
老人は大笑いになった。ショーコが心配するくらい。それから言った。
「なぁお嬢さん。わしのところで働いてみんかね？」

本が好きなショーコだったが惹かれたのは金額よりも仕事よりも、この人とならうまくやっていけそうだと思ったから。期待は裏切られることなく、ショーコが珍品堂の店員となってぼつぼつ１年が経とうとしていた。


「そういや、おとといの晩ショーコをみかけたって人がいたぞ」
ギクリとショーコが固まる。おとといの晩。
「えらい立ち回りをやったそうじゃないか」
商店街の最古参である彼は、インターネットに劣らず情報網がすごい。どこからともなく町中の噂を集めてくる。しらばっくれることもできずにショーコは頷いた。
「ヒロと、別れ話になっちゃって」
「ほぉ。そりゃあ…大変じゃったなぁ」
宝円にはヒロとのことを特に隠しもせず聞かれるままに話してきた。それでも余計なことを言わないのは年の功だ。年寄りによくあるわかりきった説教を宝円はしないから有り難い。

「それじゃ部屋は変わるのかい？」
「もう追い出されちゃった」
「追い出されたぁ？」
横を向いた宝円が口の中で呟いているのは悪態に違いない。昔気質むかしかたぎ　の彼は、女の子に聞かせるべきではないと主張するいくつかがあり律儀にそれを守る人でもあった。ひとしきブツブツ言ったあとで聞いてくる。
「金が入り用じゃろ。用立ててやろうか？」

遠回しに言わないのも彼らしかった。口先だけでなく頼めば本気で貸してくれる人だ。
「ううん。実は短期のバイトをすることになって」
「バイト？　ずいぶん手回しのいい」
「あ、ここの仕事には迷惑かけないから」
「そんなこと心配しとらんよ。何のバイトだい？」
「えっと」

何しろ自分だって降って湧いたような話だ。どこからどう説明すればいいのだろう。首を傾げ思案した時だった。そうそう開かない引き戸がガラッと音を立てた。奥にいるふたりには姿が見えない。すぐ出て行くだろう。予想に反してカツカツと足音は迷いなく近づく。現れた男をショーコはポカンと見上げた。
「キングじゃないか」
ギョッと見返るとそう言ったのは確かに宝円だ。キングを知ってる？

「久しぶりだなじいさん。まだ隠居してないのか」
「隠居して誰が養ってくれる」
「それで若いのを雇ったのか？　若すぎる気がするが」
「刺激になるからのう」
「生臭坊主」
「おまえに言われとうはない」
「俺は坊主じゃない」
「おまえにゃなれん」

放っておくと延々と続きそうだ。互いに顔見知りなのは間違いないが、仲がいいのか悪いのか。キングはいつものサングラスにあの笑みだし、宝円はというと笑みの欠片もない仏頂面なのに、いつもの倍のペースでしゃべっている。

「ショーコ。これはな、色々と危ない男だ。ここらに居着いてまだ１０年にしかならんのに、羽振りがようてすっかり顔じゃ。気をつけるんだぞ」
「え、っと」
「じいさん。泥棒が入ってから戸締まりしろって言ってるようなものだ。だろうショーコ」
珍しく心底驚いた顔になった宝円が、ショーコとキングを見比べた。ショーコはショーコで宝円とキングを見比べ焦る。

「なんじゃとキング。おまえまさかこんな小娘に」
「こむすめ？」
聞き捨てならぬとばかりのショーコの声音に宝円がさらにあわてる。
「ショーコ、揚げ足をとっちゃいかん。わしが言いたいのはそういうことじゃのうて」
「何だって？　俺がこんな小娘をどうするって？」
繰り返すキングの楽しげな様子に歯ぎしりしているのはどちらか。宝円が激怒しかける。

「おまえは！　他の連中に比べりゃ分別もモラルも持っとるかと思うとったのに！」
「そりゃ知らなかった。意外に評価してくれてるんだな、じいさん」
「うるさい！　それもこれまでじゃ！」
「俺の評価が下がるのは一向に構わないが、彼女の評価まで下げるのはどうなんだ」
「マスターってば一体、何の話？」

苛立ってショーコが聞く。宝円が怯むのに対しキングはきょとんとした。
「マスター？　誰が？」
「…わしのことだ」
ブッと、思い切り吹き出したキングがそのまま笑い転げたので、ショーコはもちろん宝円まで唖然とした。

「じっ、じいさん、まさか自分の店をメイド喫茶にするつもりじゃないだろうな？」
さっき秋葉原の話題がでたばかりだ。ありえないと知りつつパッと振り向くショーコに、宝円がまたあわてふためく。
「ばっ、キング！　おまえは言っていいことと悪いことが！」
「マスター？」
「あーっはっはっは！」

赤くなったり青くなったり白くまでなる宝円と、高らかに笑い飛ばすキングに挟まれて、ショーコは全身脱力するほどの疲れを覚えたけれど。このままではラチがあかない。仕方なく気力を振り絞った声は低いぶっきらぼうな響きになる。
「キング。何か用だったんじゃ」
「……っ、あ、あ。ヒデミに頼まれたんだ。仕事、何時に終わる？」
「８時、だけど」
「ヒデミの店まで送るから。まぁ逃げようにも帰るのは俺のところだが」
「なんじゃとぉ！」


再び叫ぶ宝円にショーコは頭痛がしてきた。笑いは収めたようでもサングラスで見えないキングの瞳はまだ笑っている気がしてむかつく。なのに胸が騒ぐ。説明の付かない感情を持てあましながら、ショーコは宝円にすべき説明をどこから始めようかと悩んでいた。