眼を開けたら、どこにいるのかわからない。
ちょっと前にもこんなことあったっけ？

やたらと寝心地のいいゴージャスなベッドの上で毛布を抱え、ショーコは眉を八の字に寄せた。そうだ、あの時はヒデミの店、Lemon　だった。じゃあここは？　

答えはすぐ。キングの部屋だ。



ヒロの部屋から荷物ごとまさしく放り出され、精も根も尽き果てそうだった。でも。散々恥をかいたあとだ。キングの前でこれ以上の醜態を晒すことはプライドが許さず、虚勢でも胸を張って立ち去ろうとしたのに。彼はお見通しだったらしい。

「休みたいのは俺も同じだが、君を置いていくのは寝覚めが悪そうだ」
「有り得ないよ。そんなタマじゃないでしょ」

自分で言っておいてずいぶんはすっぱな言い方だと恥ずかしくなった。なのに彼と来たら軽蔑でもなく呆れもしない、それどころか温かく包み込むような笑み。こんな、心ごとつかみ取られるような深い声は知らない。

「乗りかかった船って言うだろ」
「毒をくらわばって方じゃない？」
キングの笑いがさらに大きくなる。
「食ったりしないから安心しろ」

どうしてあの時、彼を怖いと思わなかったのだろう。


とりあえずと連れてこられたマンション。部屋が上等すぎて怯んだけれど、そっと触れたベッドのスプリングは柔らかく、沈みシーツの心地よさが格別で。横たわったとたんにぐっすり眠り込んだらしい。ショーコの携帯はすでにＰＭ表示の時刻だ。着いたのが朝だったとはいえ日曜で良かった。

ゆっくり周囲を見回す。好きに使えと通されたここはゲストルームだと言っていたが、そんじょそこらの安ホテルじゃ太刀打ちできない。部屋までキングに似ている気がする。静かで落ち着いていて、ゴージャス。あんな人もいるんだとため息が出た。これまでのショーコの人生にはいなかった人種だ。


東京に出てきて３年になる。田舎は特急で２時間ほどの距離だ。母は変わらず小さなスナックで働いているだろう。人生の初めから居なかった父のことはそういうものだと思っていた。あまり悩んだこともなかった。あの時まで…やめよう。昔より今だ。考えなきゃならないことはたくさんある。たとえば新しい部屋探しとか。


ドアが開いて足音がした。キングも起きたのだろうか。ベッドから飛び降りたショーコはくたびれたキャリーバッグをあけて着替えを探した。Ｔシャツとカットオフパンツ。バスルームまでついたゴージャスな部屋に不釣り合いすぎていっそ笑える気がした。



ドアを開けたら目が眩んだ。シンプルな照明なのにやけに明るい。猫の鳴き声がする。導かれるようにペタペタとフローリングを素足で進むと、広いリビングの向こうにキッチンが見えた。

アイランド型のシンクを取り囲むようにコンロや冷蔵庫、オーブンや電子レンジが並ぶ調理台。本格的だ。コンロの前に大きな背中が見える。ジーンズの足元にすり寄る猫も。
「こら、ジン。危ないって言ってるだろう」
彼の声にショーコは胸を押さえた。跳ね上がる動悸が解せない。

うっとり甘えるように鳴いていた猫がこっちへ鋭く視線を投げた。のぞき見していたのをとがめるみたいだ。キングも振り返るが彼は驚いては見えない。やっぱりサングラス。

「眠れたか？」
こくりと頷くショーコをカウンターへと促した。
「腹が減ったろう」
「うん、えっと、あの」
「遠慮はいらない」
先生に諭される小学生みたいと自分で思う。

仕方なく座ったショーコの前に、トレーに乗せて運ばれたのは素麺だった。綺麗な彩りは冷やし中華みたいだ。ハム、錦糸卵、キュウリ、海苔。ミョウガまでのせた麺の横に薬味の小皿とつけ汁の入った小鉢。どれもそれなりの器で、箸置きに塗り箸まで置かれる徹底ぶり。行ったことなどないが、料亭というのはこんな感じだろうか。

「好き嫌いがあるか？」
ぼーっと見ていたら横に立ったキングに問われて、あわててショーコは首を振った。
「ううん」
「なら残さず食べてくれ」

ニコッと笑った彼は、また足元で鳴いていた猫を抱き上げる。
「ジン。おまえは食い過ぎだ。もう少し待ってろ」
かまってもらうのが嬉しくてしょうがないとばかりに首っ玉に齧り付いていく猫。一人と一匹の様子がショーコを何故か落ち着かせた。今さら空腹に気づいて箸を取った。





肩から落ちるほど襟ぐりがくりぬかれているＴシャツ。下は黄色のタンクトップ。カットオフの短パンは本当にはきつぶしたジーンズを切ったのか裾がほつれている。素足の爪はピンクのペディキュア。シャワーを浴びたらしい髪は例によってバレッタで無造作に上げてある。

ゆうべは二十一と言っていたけれど十代にしか見えない格好で、なのに箸使いは綺麗だった。肘もつかず音もあまりたてず。美味しそうに素麺を平らげていくショーコをキングは目の端で見守った。抱きかかえているジンが、日頃は立てない爪を立ててくるのは、キングの意識が自分から逸れるのが気に入らないからだろうか。

拾った時は小さな仔猫だったのにすっかり大人の、へたをすれば「デブ猫」と言われかねない体格になっている。爪の立て方にしても性格にしても妙に人間くさくピリッと刺激的なところから、「ジンジャー（ショウガ）」と名付けたキングだが、最近はさらに短く省略しがちだ。
「ジン、ヤキモチか？　おまえも女だったんだな」

毛並みを撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らす。猫にしては愛想がいい方だと思っていたが、やっぱり相手は見るらしい。ソファに座るキングの膝に丸くなったジンの耳がフッと立った。一緒に見あげればショーコが居る。

「ごちそうさま。あの、美味しかった」
キングが目を遣るとカウンターのトレーはすでに片づけてあった。
「洗ってもいいのかわからなかったから。流しに置いただけ」
「十分だ」
キングを見るショーコの顔に緊張が見える。

「あの。部屋のことなんだけど」
「提案がある」
先手必勝。機先を制したキングには、さらに強まるショーコの警戒心も一興だった。





「ヒデのモデルを引き受けてくれないか」
キングの申し出にショーコはゴクリと唾を飲み下した。予想しなかったわけではないが、言われれば戸惑いとためらいで黙る。すでに断れないと感じていても。

「言ったとおりあいつは１０年前の初代チャンピオンだ。だがいろいろあってあまりいい状態じゃない。月日が経って実力を疑う奴もいる。俺はあいつに力相応の日の目を見させたい」
サングラスで目は見えないが、声音や言葉から真剣さは伝わってくる。

「受けてくれるなら、コンテストまではもちろん、君が納得のいく部屋をみつけるまでここを使ってくれて構わない」
思いもしないほどの気前の良さにショーコの目が大きくなった。
「期限も切らないの？」
「必要ないだろう」
どういう意味なのか迷う。

「あたしが手が届く部屋なんて、どれだけいい物件でもここよりずーっと落ちるよ。居座っちゃったらどうするの」
「それも面白いんじゃないか」
眼を丸くしたショーコを見てクックッとキングは笑う。ついでに猫まで喉を鳴らすのはどうよ。普通ならからかわれてるとしか思えないが、コンテストがらみだから本気だろう。でも。


「どうしてあたしなんか」
「ヒデミが選んだ。あいつの眼は確かだ」
「そんなのわかんないでしょ」
うつむいてしまう理由はたっぷりだ。
「もったいつけて嫌がってるんじゃないよ。ホントに髪は触られるの苦手なんだ。　…男の人は特に」
理由を問われるだろうと内心身構えていたショーコだが、キングの問いはまるで違う方向だった。

「ヒデミをどう思う」
「どう、って」
「嫌いか？」
とんでもないと首を振る。

「女装のゲイでも？」
「言われなきゃわかんなかった。美人だし。ゲイは別に…好きでも嫌いでもないよ」
「ならなんとかなるんじゃないか」
キングはソファに背を預けてショーコをみた。彼の膝で猫が。ジンが、ミャアと鳴く。

「何が？　ゲイってことは男だよ」
「どのくらい深刻なんだ」
ズバリ切り込まれてショーコが息を呑んだ。
「ただ苦手とかイヤとか、それですむ話じゃなさそうだな」
鋭く指摘されては言わないわけにもいかない。

「……美容院で大騒ぎになったことがある」
「大騒ぎって」
「冷や汗かいて震えて呼吸ができなくなって……気絶」
驚かれるだろうと思ったが、キングは淡々と聞いている。

「最近でも？」
「ヒロが…無理に切ろうとして……倒れた」
ショーコの口がさらに重くなる。
「だから。多分ヒロだけが悪いんじゃないんだ。別れ話になったのは」
今度こそ理由を、原因を聞かれると覚悟したが、キングは再びあさっての質問を投げた。

「金はあるのか？」
意味がわからなくてショーコはただ見返す。
「新しい部屋を探すのは物いりだ。資金は」
ショーコの頭は上下して左右する。
「越したばかりだったのに彼と住みたくて前のところ出ちゃって。理由が理由だから敷金も礼金もパー。それが３月前。ヒロんとこでも家賃は半分出してたし。余裕なんか全然」

「なら、金は要るだろう」
うんと渋い顔で頷く。
「モデルをやってくれるなら賞金とは関係なくバイト代を払うし。うまく勝てれば賞金は折半だ」
ショーコの反応を見るように続けられる言葉。

「そりゃお金は欲しいけど、でもやっぱり」
「自信は欲しくないか？　トラウマを吹っ飛ばすくらいの自信」
何一つ聞かない彼に言い切られて、ショーコは思わず虚勢を張る。
「トラウマなんかない」

言った途端、サングラス越しのみえない眼が温度を下げた気がした。思わず一歩退く。彼は猫にかまうフリでさりげなく横を向いた。
「男にもろくでなしにもトラウマにも。負けっ放しだな」

言い捨てるようなそれは独り言だったかもしれないが、侮蔑を受けたようで、頬が熱くなり頭に血が上った。

「なにそれ。そんなこと言われる筋合いない」
「そうか？　そうも思えないが」
「人のことでしょ。ほっといてよ」
「逃げるわけだ」
「だから」
「ずっと。一生そうやってるつもりか」

瞳が見開いた。追いつめられた手負いの獣。だらりと下ろした両手を拳に握りしめ震わせたショーコは、意外にも逆襲に出た。

「…やるよ。やればいいんでしょ。やってやる。負け犬なんて言わせるもんか！」

言い切ると膝の上のジンと眼を合わせる。フーッと毛を逆立てるジンと真っ向からにらみ合う様は獣同士のケンカだ。バチバチと火花。
「そりゃ重畳」
眺めるキングはそう呟き、口笛を吹くのを辛うじて堪えた。


弱いだけの人間は好きではない。
好きでなければ距離を置くのが常なのに。

自分の守り方も知らず傷ついてばかりかと思えば、水際で突然反撃へと転じる。ショーコの矛盾はやっぱりキングを惹きつけ、新しい展開へと導いていった。

運任せのダイスのように。