足元にじゃれつくジンは、さっきとは比べものにならぬ勢いだった。キングが抱きかかえているショーコに向かって飛びつかんばかり。
「こらジン、やめろって」
それでなくとも両手がふさがっている。うっとうしいと思う一方で、やっぱりショーコの異変を訴えていたのかと悟る。この騒ぎはジンなりの喜びの表現なのだろう。
カバーをはぎとり、寝かしつけたショーコに上掛けをかけてやると、心得たジンはひょいと飛び乗り足元にうずくまった。花束は水につけようかと迷ったが、Man Hall での剣幕を考えればそばに置いておく方が良さそうだ。いくらなんでも靴ははかせておけないし。
ベッドサイドに立って見下ろす顔は女よりも子ども、子どもよりも赤ん坊に見える。涙を拭った頬の柔らかな弾力。
矛盾だ。
めまぐるしい一日だった。振り回され突き動かされたらしくない日。みゃあとジンが鳴く。いい大人が何をやってる、そんな風に聞こえる。
泣きながら叫んだショーコ。涙でぐちゃぐちゃの、あれは女の顔だった。あのショーコを欲しいと思ったのは確かだが、今は別人だ。幼さと色香のパラドックスにまた迷いが湧く。こんな時はさっぱりしてから酒に限る。ジンにショーコを任せてキングはシャワーに向かった。
バスルームでサングラスをはずしてみると、果汁のシミやら細かな傷やら。笑いが漏れる。
「……退屈だけはしないなたぶん」
熱めの強いシャワーは朝の好みだ。眠る前はもう少し低めで柔らくするのだが、今夜はすぐには寝付けそうにない。熱くした湯で全身を叩かれながら自分の行動を思い返す。コックを閉めるとしずくが数滴。濡れた指で前髪をかきあげる。鏡の中からオッドアイが見返してきた。
良かったのか本当に。
自分はともかくショーコにとって。
ぶるっと頭を振る。ずぶ濡れの犬のように飛沫しぶき を払うと、蒸気でいっぱいのバスルームから逃れた。
白いタオルは毛足が長く肌触りがいい分、扱いには気を遣う。掃除も洗濯も嫌いではないが何分時間が足りず、週に一度ハウスキーパーを頼んでいる。プライバシーを侵さないきちんとした仕事をしてくれるので、いつも快適だ。
タオルに水気を吸われた肌がリビングのひんやりした空気を喜ぶ。冷蔵庫から取り出したペリエを飲み干し、分別してあるゴミ箱に投げ入れる。シングルモルトをグラスに注いだキングはキッチンの照明を消した。
手にしたグラスの中で氷がカラリと崩れる。指先が濡れる感触は、さっきぬぐったショーコの涙を思い出させた。
眼が覚めて起き上がると薄暗い部屋。太陽が昇るまできっともうじき、そんな闇。
ショーコが最初に思ったのは 「あ、夢だった」 ということだ。怒濤の一日は強烈すぎてショーコの許容量を越えるもの。あり得ないと夢にする方が楽だった。あのキングが自分の想いを受け入れてくれるなんてほんと、図々しい。
クスッと笑った拍子、闇に慣れた眼に色とりどりの花が映った。ぼうっとした頭にはただの花束だったが、記憶が泡立つと疑問も付いてくる。同じ物をキングにもらった。でもあれは夢だった。まだ夢の中にいるんだろうか。もしかしたら
親指と人差し指で頬をつねってみる。爪までたててギューッと。
「……痛い」
夢じゃない現実だ。
本物だ。
てことはつまり。
跳ねるようにベッドから飛び降りたショーコはドアに突進した。ニャッと抗議の声を聞いた気がするが構っていられない。駆け込んだリビングはしかし真っ暗。途方に暮れた。夢と現実の狭間に迷い込んだような。全ての輪郭がうすれてぼやける。
あたしは誰。ここはどこ。
あの出来事は夢なの。
現実なの。
足元の鳴き声に声をのんだ。柔らかな身体をすり寄せてくるジン。さっきの抗議の正体に思い当たった。さいわい怒っている様子はない。しゃがみ込んだショーコはその背をなでてやる。
「ごめんね驚かせて。あたし、何が何だかわかんなくなっちゃって」
心細さに抱き上げようとするショーコを軽くかわし、音もなく歩き始めたジンはすぐ立ち止まる。おもむろに頭を回し見上げてくる顔が、ぴんとたてた尻尾が、ついてこいとショーコを誘う。
「どこいくの?」
リビングの端、キッチンと反対側の壁に天井から床までタペストリーがかけてあった。外国の風景画。知識のないショーコに詳しいことはわからないが、そびえる山と広い草原の中央に建つ寺院。突き抜けた濃紺の空に浮かび上がるようだと、見るたび思っていた。
まっすぐそこへたどり着いたジンがタペストリーに身をすりつける。押されてタペストリーが縦ふたつに割れた。
「え」
ドアが隠れていた。カリカリと爪を立てチラッとショーコを見るジンは、なにかを企む人間の顔つき。
「そこに入るの?」
まだ半分夢の中にいる心持ちだった。気分はアリス。案内人がウサギでなく猫なだけ。あれこれ考えることをせずタペストリーに近づいたショーコは、ジンに乞われるまま隠されていたドアノブを探り当てて、ひねった。
「ジンか?」
かなり広い部屋だった。手前に机。向こうにベッド。どちらも部屋同様ゆったり大きい。つきあたり、間口一杯設けられたサッシ。カーテンも寄せられた窓の向こう、繁華街のネオンは暁に溶けかけている。
その前で振り向いた男ひと を瞬間、誰と思った。羽織ったシャツに短パン。サイドテーブルに空のグラス。彫像のような身体は大人の男そのもの。また心拍数があがる。
こっちへ向けられたオッドアイが猫の目のように細くなった。機嫌が悪いんだろうか、でも。今捕まえなきゃ消えてしまう。さっきから募っていた焦燥がショーコの背中を押した。
キングも思った。誰と。
入り交じる夜と朝。彼は誰時 かはたれどき は人の姿まで朧おぼろ にする。眼を細めたのはぼんやりした彼女のラインを捉えようとしたからだ。次の瞬間、ドンと全身に衝撃がかかった。ついさっき抱き上げていたショーコが今度は抱きついている。
子どもと思うのに、意識の片側では確かに欲しがっている。こうしているだけで身の内に起きてくる熱を自覚した上で、キングは素知らぬ表情を作る。
「よくわかったなここが」
「ジンが教えてくれて」
「ジンが?」
部屋の中にジンの姿は見えない。猫の道案内かと可笑しくなるが、ショーコは笑うどころでないらしい。
「今夜のこと。夢じゃない、よね?」
「どう思う」
「わかんなくなったから聞いてるんじゃん」
「なら、なかったことにするか」
「駄目!」
甲高い否定にキングは笑い出した。ふくれる顔は強気と弱気が代わりばんこしている。幾度もなめる下唇の丸み。右に左に首を傾け、ためらってから出てきたのは困惑しきった声だ。
「やだもう。色仕掛けってどうやったらいいの」
シャツを握りしめ、懸命にキングの注視に耐えるショーコの、男の生理を知らない挙動に、困惑が感染うつ る。すでにやってると言ったらどんな顔をするのやら。
「まだ俺に花はないぞ。いいのか」
「それ、は」
「テクに自信ありとか」
「あるわけないじゃん知ってるくせに。マグロって言われたんだよ?」
ヒロの顔が思い浮かぶのは、さすがにあまり気分よくない。
「逆だよ幻滅されそう。あたしsexを好きだって思ったことないし」
「なら」
「でも、キングなら違うのかなって」
必死な眼が訴える。
「ちっとも現実味がないんだもん。キングの一番近くに行きたい。自信が要るの。他に方法がわかんない」
猟師に鉄砲、オオカミに牙。無意識で無防備な赤ずきんに笑うのをやめ、キングはもう一度念を押した。
「夢じゃなくて、いいんだな?」
「夢に、しないで」
自分のオッドアイがどんな風にみえるのか知らないが、これまでの相手は怯むか媚びるかだった。一度目も二度目の今夜も、ショーコはためらわず怖じず対等に見入ってくる。それがどれだけ心地良いか。
「一番近く、か」
すべらかな頬に触れて包み込む。ゆっくり近づける顔。みひらく瞳。額を、鼻先をこすり合わせると吐息が漏れる。軽くひとつ。なだめるようにもう一つ。ついに深く合わせる唇。
キングの、常に幾重にも巻いている自制、まとわり続けた逡巡さえ薄れて消えていったのはたぶん、夢が現うつつ に混じる、彼は誰時 かはたれどき だったからかもしれない。
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