「何しに来たの!」
叫ぶショーコ自身にも疑問は湧いていた。
全力疾走直後並みにバクバク動悸を打つ胸。息が苦しい。涙は勝手に流れ続ける。濡れた視界の向こうには黒いサングラス。あの下の瞳も今は夢に思える。
自分はここで何してるんだろう。恥の上塗り? お客さんのためのショータイム? 逃げ出したい。会わないよう逃げたのにわざわざ来るなんて。そりゃあここはキングの店だけど…… そう、キングの店だ。
もしかしたら自分はホストクラブに行こうと思ったんじゃなくて、Man Hall に来たかっただけだろうか。ヒデやエヴァに、宝円にまで聞かされて憧れたつもりだったけれど、そうじゃなくて。ひょっとしたらキングに会えるかもしれないってそう思ってた?
会いたくないのに会いたかった。
愚かで嘘つき。矛盾だらけだ。どうしてあたしは。
キングは?
「よく、わからん」
長い沈黙の挙げ句、返答がこれだ。がっくりして涙も止まった。蹴ってやろうか。腰に手をあて思案投げ首の彼が無駄にかっこいいから、余計に腹立たしい。まだ果物は残ってたはず。ショーコの視線が後ろへ泳ぎかける。
「散々探した。大慌てで走って」
「……探して、走った?」
「ほっとけなかったらしい」
彼の顔を見直した。自分を探してキングが走る? 想像しがたい。信じられない。一体何故。
「人を想うのは、心で花を育てるのに似てる」
明後日あさって の方角へ飛んだ話に、ショーコはまだ濡れているまつげをしばたいた。周囲は息を潜め声一つない。ふたりだけ、そんな錯覚に襲われる。低くて深いビロードの声は耳に優しく、でも毒だ。
「朝咲く花があれば夕べに咲く花もある。一夜にして咲く花もあれば季節をふたつみっつかけて開く花もある」
色恋沙汰は経験値が低いショーコにも、ぴんと張った空気が昼間の告白の続きであるのはなんとなくわかる。あのときとは違う、逃げていないキングのまなざし。
聞かれてもいないのに自分の胸元を確かめた。見えるのは平均よりも平らで小さめの、見栄えのしない身体のみ。けれど。
見えないここに花は在る。咲いている。
彼を想って。
「俺の胸にまだ、花はない」
淡々とした声音が感情の高ぶりに水をかけた。ずしりと落ちてきた重石に必死でショーコは耐える。話は途中だ。
「花はないが、何か有る」
大きな手のひらで彼は左胸を覆ってみせた。包みこむように。
「息吹を感じる。芽をもたげてる。育つかもしれない。だが枯れるかもしれない。保証はない。可能性だけだ」
キングの言葉が信じがたくて、でも信じたくて。震えが起きる。じわりとまた涙がにじみかける。
「試してみるか?」
「そんなんじゃわかんない」
間髪を容れずにショーコは、刃物のような鋭さでキングに突き入った。
「あたしの気持ちは言ったよ。キングはどうしたいの。どう思ってるの? 全部あたしにおっかぶせるのはずるい。そんなの許さないんだから!」
狡いのはお互いさまかもしれなくても、これだけは譲れなかった。期待して間違ったら今度こそ立ち直れない。
「保証なんていらない。先のことなんて誰にもわからない。今のキングの気持ちが聞きたいの。言ってよ!」
サングラスの上、キングの太い眉が上がってなだらかに緩む。口元がほどけて笑みになる。骨張った指が自分の胸をさしてハートを描いた。
「俺のここに、花を咲かせてみろ」
この気障野郎と、言えたらどんなに気持ちいいか。生憎彼には似合いすぎる。泣けるくらいダンディな彼が、ほんとに?
「ショーコ」
名前を呼ばれるだけで心が震える。唇をかみしめてショーコは大きく頷いた。何度も何度も首振り人形みたいに繰り返し、とうとう溢れた涙に顔を覆う。文句も連ねながら。
「キ、っングのっ、バカっ、ぐっ、ふっ、ひーん」
「泣くか怒るかどっちかにしろ」
呆れた声と、抱き寄せ囲われた腕の優しさ。奇妙な取り合わせが涙に拍車をかける。ショーコはとうとう大きな声を放った。Man Hall に似つかわしくない子どものような泣き方だった。
見守っていたホストたちは驚きとあきれ顔。レディーたちに至っては茫然自失。キングが落ちた? あり得ない。そんな雰囲気。テルが含みのある声でキングとショーコを交互に見遣る。
「なるほど。ショーコ、か」
トオルに背を抱かれていた寿々絵は長いため息を吐くと、夢から醒めたように言った。
「キングったら。相手にもしないと思ったら実は振り回されてたの。あたしが馬鹿みたいじゃない。トオル、飲み直すわよ」
「了解」
トオルもまた含みのある表情で笑うと、寿々絵をいざなった。いつのまにか泣き声は聞こえなくなっている。
「ショーコ」
「ほら靴も」
ヨウジが花を、フジが靴を、持ってきてくれたというのに返事がない。顔を見合わせたふたりにキングが告げる。
「寝てる」
「は?」
「マジ?」
よくよく見ればキングの胸にもたれかかった状態で、ショーコはすやすや寝息をたてていた。舞台と告白、とどめがMan Hall だ。さすがに精も根も尽き果てたらしい。わかりはするが。
「……大物だ。彩芽と張るかも」
「誰それ」
ヨウジがもらした感想にフジは首を傾げ、キングは口元を歪める。
「似て非なる、だな。彩芽はサプライズ。ショーコはパラドックス。ふたりがここでそろうことがないよう祈るよ」
そう言いながらキングはショーコを抱き上げた。靴は手に、花は彼女の胸に乗せてもらう。ケイが穏やかな声を足した。
「後はお任せを」
「ショーコの荷物があったろう? 預かっといてくれ」
「承知しました」
余計なことは言わないのがケイの長所だ。満足げに頷いたキングが付け加える。
「騒がせて悪かったな」
「とんでもありません。プラチナチケットでも見られませんよ、今夜のオーナーは」
「言ってくれる」
キングが珍しく声を立てて笑えばケイも倣なら った。
出ていくふたりを追いかける視線には、妬みや憎しみと同じくらい驚きや憧れ、切望が見えた。夢を求めてやってくるなら夢物語は決して嫌いではあるまい。今宵Man Hall の逸話に加わったシンデレラ・ストーリーは、尾ひれ背びれに金銀塗って、末永く語り継がれそうだ。さらに客を呼ぶかもしれない。
エントランスの外までふたりを見送って、ケイはやれやれとひとりごちた。いろいろなことが起きる場所だが、今夜は一段と派手だった。くっきり涼しげに空を飾る半円の美しさ。
猥雑わいざつ な街だが、月もあれば花もある。
目の当たりにした事実がケイはひどく嬉しかった。
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