カーテンの向こう、あれだけ轟とどろ　いていた拍手が波のように退いていく。７番目のヒロが終わった今、開いてないボックスは一つだけ。ショーコの居るここだけだ。

喉が渇いた。グロスとルージュを念入りに塗りたくられた唇はしっとり濡れているのに、干上がっている気がする。手も足も、身体中が、熱い。


『さあ、例年ならこれで終わりの出場者ですが、十周年の今年に限ってもう一組います。エントリーナンバー・エイトは本命か大穴か、おまちかね、Lemon　のヒデミ！』

見えない客席から湧き上がる歓声は雷か地鳴りのようだ。波動を感じる。後ろのカーテンをめくってここから逃げ出してしまいたい。今ならまだ間に合う。強烈な誘惑にショーコは一歩退いたが。


『この舞台に、もう一度立てるとは正直思ってなかった』

ヒデミの声が逃げ場を封じた。鼓動が高鳴る。ドクンドクン。


『あたしがここにいるのは彼女に出会ったから。ビフォアを』

ざわざわと寄せくる囁き。スクリーンには今頃、変哲もない今朝のショーコが映し出されているはずだ。ドクンドクンと鳴り続ける胸の音。そう、まるで変わり映えしないのにどうして、ヒデミさんは。変わらなきゃ意味がないのに。


『彼女が髪を切るのはすごく勇気の要ることだった。だからこそあたしは彼女と、他の誰でもない彼女とここに出たいと思った』

ドクンドクンドクンドクン。胸がきっと破れてしまう。


『今日のシザーズはあたしの挑戦であると同時に』

流れ出したミュージックは軽やかなポップスだ。気づけばショーコはカーテンの合わせ目をつかんでいた。自分で開けなきゃならない。できるわけないじゃん。いっそここに立て籠もって。


『彼女の挑戦です。タイトルは』

ショーコの意志にはお構いなく、というよりも意志を完璧に裏切って、手はヒデミの声に反応した。握りしめた布を引きちぎらんばかりの勢いで開ければ、津波のように襲いかかってくるライトと音。

なぎ倒されそうになったショーコを支えたのは、何百ものカボチャの群れから見分けてしまった、後ろに立ってるサングラス。
こんちくしょう。


『　”ショーコ”　』

後は野となれ山となれ。
踏み出したショーコはもうためらわなかった。



タイトルは「ショーコ」と確かにそう聞こえた。どういう意味だ。キングが考える前にボックスから飛び出した人影。スポットライトを浴びる彼女に、客席が一瞬静まりかえる。


「なんじゃいありゃあ」

宝円の素っ頓狂なつぶやきは、珍しくキングの内心と一致していた。
なんだあれは。


思い切り派手で、思い切りちぐはぐだった。不思議な色合いに染まった髪。いくつも垂れているお下げは地毛かエクステなのか。漆黒のサングラスはマトリックスのエージェントモデル風。着ているのは浅草の土産物屋で売っているような薄っぺらい生地のキモノで、しかも右前にあわせ太いガンベルトで締めてある。

いかにも模造品ぽいパールのロングネックレスが胸元に一結び、どこのお嬢様向けと見えるオーソドックスなバッグを腕に提げ、キモノの裾からのぞくジーンズの足元は高いピンヒールだ。とどめが頭のてっぺんできらめくティアラ。おまけに頬には鮮やかなキスマークときている。

キングが思い出したのはカラスの寓話だった。一番美しい鳥を王様に決める日、カラスは他の鳥の羽を手当たり次第に刺して行く。きらびやかな姿に皆幻惑されるが、すぐにその偽装はばれ、美しい羽がとられてしまえばただの真っ黒なカラスだった、という話。


「なにあれ」
「ていうか、ショーコって何の話のヒロイン？」
「知らないよねぇ」

徐々に高まる会場のざわめきだが、ショーコが歩き始めると再び静まりかえった。

姿勢がいい。背筋がのびている。足取りがヒールに負けてない。短いレッスンではあれだけエヴァを嘆かせたのに、やっぱり本番に強いタイプだとひとりごちるキングの耳に、ヒデミの声。


『女の子はいつも心のどこかで変身を求めてる。いろんなアイテムにも助けられる。きれいな服、素敵なアクセサリー、靴にバックに。ハッピーになれれば何でもあり、でもほんとはアイテムがなくても、ヒロインになれる。なれるの。見て！』

ヒデミが舞台のショーコを指さしたまさにその時。

くるりとターンしたショーコは突然、バッグを後ろへ放り投げた。

言葉にならない驚きが客席のあちこちから湧く。構わずまたターン。宙に舞ったのはお下げが何本か。ネックレスが引きちぎられてパールが飛び散る。

刺していた羽を自ら引き抜いていくカラスよろしく、身につけているものを次々と投げ捨てていく様に、誰もが驚き呆然としている。司会者の友川も言葉が見つからないようで、「え、あ？　その、えっと？」わけのわからぬ声だけがマイクから漏れている。


腰のベルトを引き抜くと打ち合わせていたキモノの前が開いた。まさか。場内の驚きがさらに増す中、化繊だろう薄っぺらのキモノはひらりと脱ぎ捨てられて舞台の上にわだかまった。下に着ていたのは左スクリーンのビフォアと同じ、シャツにジーンズ。

彼女の足はまだ止まっていない。残りのお下げがまとめて飛ぶ。キングがハッとする。見慣れた長さだった髪が。


「……ばっさりいったな」

放り投げた付け毛のせいで、たった今ハサミで切り落とされたような錯覚にとらわれる。ショートボブ。さえぎるもののなくなった首筋、晒されたうなじに潔さすら覚える。


「ほう、きれいな首じゃのう」

宝円の言に今日はいちいち賛同だ。キングが苦笑する間もティアラが宙を舞う。あろうことかヒールが一足ずつ蹴り飛ばされる。舞台中央に戻ってきたショーコは最後にサングラスを投げ捨て、審査員席を見据えた。


その全身が右スクリーンにも投影される。一見して左と何も変わって見えなかった。同じ服装。裸足と髪が短くなっただけ。そのはずなのに。マイクは友川の慌て気味の声を拾う。


『ヒデミさん、タイトルの「ショーコ」というのは』
『彼女よ』
『モデルさんの？名前？　ヒロインは？』
『あたしのヒロインはね』

ヒデミはマイクをぐっと握り直した。


『今日はショーコ、でも言ってしまえばお客さんひとりひとり。あなたかもしれないし別の誰かかもしれない。結局生きてる限り、誰もがいつだってヒロインで、ヒーローなの』

ヒデミのなめらかな声が客席を撫でざわめきを靡かせる。彼女が語る間中、ショーコは怯むことなくポーズをとり続け、決して客席から眼を背けなかった。昨夜とは打って変わった強気と意地に、キングは背筋がゾクゾクするのを感じる。


『変わるのは自分自身。他の誰かになる必要なんてない。自分がヒロインなんだから。そうでしょう？』

言い切ったヒデミは満足げにショーコを振り返る。キングは観客と同じ冷静な目で二つのスクリーンを見比べた。


出会った当初薄いブラウンだった髪はビフォアですでにカラーリングを施され、大げさに言えば光の加減で七色にも見える色に変わっていた。

カットの長さはベリーショート。ポーズを変えるたび露わに見える、くりぬかれた耳の形から肩までのライン。横顔の美しさに驚かされた。ショーコはこんな顔をしていただろうか。前髪のアシメトリーなカットで軽さと明るさが与えられている。

さらにメイクだ。元々太目のはっきりした眉は削られてきれいな弧に整えられ、添うように目尻にむかってきつめのアイラインが足されていた。涼しげなブルーのシャドーがまぶたを彩る。

唇がいい。ショーコの口はどちらかというと上下とも大きめでたっぷりしているのを生かして、ラインをはっきりグロスをたっぷり、夏らしいオレンジのルージュがこれまではなかった色気を生んでいた。同じ顔で初めて見る表情。そのせいかお陰か、頬のキスマークまで洒落て見えてくる。

ビフォアではごく普通に見えた藍色のシャツは麻が入っているのか。襟を立てボタンを一つはずして深いＶゾーンを胸元に作っただけで、短く切った髪や、きれいな首筋が引き立つ着こなしになった。長袖の手首が無造作に折り返してある。短めのジーンズの裾も前に広く後ろに狭く折ったことで、素足の白さと足首の細さが目立つ。

スクリーンの左と右。ちょっと見は髪が短くなっただけ。でも違う。でも間違いなく本人。ヒデミの高らかな宣言。


『これがあたしの、”ヒロイン”よ』

拍手は漣さざなみ　のようだった。どこからともなく湧き上がり、まばらなそれらが膨らんで、ついには会場全体から押し寄せ割れんばかりだ。歓声があちこちから飛ぶ。ショーコの強いまなざしに初めて、揺れと戸惑いが映り込むのをキングは見留める。

もぞもぞする隣にキングがふりむくと、宝円がはずした老眼鏡を、首にかけていた手ぬぐいで拭いている。


「どうしたじいさん」
「また老眼が進んだらしいわ。ショーコが美人に見えるわい」

ぐっと笑いをかみ殺しながら、キングは尚もショーコを見守った。





視界を客席が横切るたびにサングラスを探した。見えるだけで舞台を歩き続ける勇気が湧いた。でも、そろそろ限界。


『いやあすごい歓声ですねぇ。ショーコさん、こちらへどうぞ』

友川に呼ばれ、足元を気にしながら鏡の前に立ったショーコは必死でモデルとしての表情を保っていた。もう一生分の度胸を使い果たした気がする。鼓動で胸が破れてないのが奇跡だ。なのにまだ終わってないなんて。最後に鏡なんて拷問だ。

ばっと覆いをとられても、そこに居るのが誰なのかわからなかった。脳が理解を拒否している。首をかしげてみれば相手も傾げる。反対も然り。のろのろと追いつく理解。まさか。確かにこの顔。でもやっぱり。

認識はそれこそ晴れた日の雷のように落ちてきて、ショーコが保っていた仮面を割った。手のひらで頬に、髪に触れてみる。ほんとうに？


『いかがですか、自分を見て』

向けられたマイクにうろたえ、ショーコは隣にいたヒデミを探した。言葉はいらない。伸ばした手を握りしめる手。気持ちは頭でせめぎ合っても、出てくるのはたいした言葉じゃない。


『あっ、たし、ずっと自分が、嫌い、だった。自分に、価値なんかないって、ゴミや、虫けらと同じだって』

幾度も幾度もこみあげるものを飲み下して、ショーコは続ける。


『きょう、今、初めて思った。そんなに悪くないじゃんて。もしかしたら、あたし、きれいじゃんって。そう思えた自分が信じらんない』

ぽんぽんとヒデミがショーコの背中を叩く。


『ここに映ってるのが他の誰かじゃなくて、どっかのヒロインじゃなくて、あたしだってことがすごく、嬉しい。あたしが……あたしだってヒロインになれるってこと。教えてくれたのはヒデミさん。ヒデミさんと、エヴァと、それから……あ、りがとう。みんな、ありがとう』

泣きそうで泣くのが嫌で泣くのを拒んで、最後までしゃべりきったショーコは、ヒデミに抱きついてそれから、笑った。スクリーンに大写しされた笑みに、たくさんの人が見惚れたことなぞ気づきもしないで。

歓声は間違いなく、これまでで一番大きかった。誇らしく思いながら拍手していた宝円は、ふとキングを見上げ腹をこづいた。


「どうした。おまえさん、もう時間じゃろうが」
「……そうだな。じいさん、また後で」

それだけで人ごみをすり抜けていくキング。見送った宝円が首をすくめる。


「なんじゃいありゃ」

つぶやきに、マイクの音が被さる。司会の友川もヒデミとショーコのアピールに感動して言葉に詰まり気味だ。


『いやすみません、私までなんだか。こほん。では皆さん、これが最終審査です。どうか心してください。Lemonのヒデミさん、まず技術点は』

スクリーンがパッとめくれて数字が出る。湧き上がる悲鳴。


『２４０点！　おぉ高いです。スタイル、檜垣さんの２６０点には及びませんが第二位！　続いてアピール審査、これで最後です。十年目のシザーズ、記念すべき今年のカリスマは一体誰！　審査員の皆さん、投票をお願いします！』


頑張れショーコ。
神様仏様、新井薬師に親鸞聖人。

手ぬぐいと一緒に両手をこすり合わせた宝円は、前の座席の若者がいぶかしげな迷惑げな顔で見上げてくるのもお構いなしに、南妙法蓮華経と小声で繰り返していた。