自分が今、どんな格好をしているのかわからないのは不安だ。

ヒデミを信頼し信用している。全部預けたことに後悔などないショーコだが、それとは別物。このあと、ステージを歩くときは一人きりだと思うと余計に不安は増すばかり。


残り５分のアナウンスに、大方の準備を終えたヒデミはショーコの全身に注意を這わせていた。声をかけようとしてうまく出なくてパクパク口を開けたり閉めたりしている自分。てるてる坊主、マネキンの首ときて最後は金魚だろうか。今、確実に酸素が足りない。


「よっしゃ、いいかも」
「ヒ、デミさ、ん」

ショーコのか細く情けない声にヒデミが見下ろす。


「手順、覚えてる？」
「う、ん」
「あたしがしゃべって音楽で、出る。歩いて回って最後にコメント」
「う、ん」
「こけたら起きればいいの。マイク持ってるからフォローは任して」
「う、ん」
「ショーコ？」

同じ応えしか返せないショーコに、ヒデミが身をかがめる。


「ねえ、あたしのこと信じてる？」

こくこくとためらわぬショーコの頷きにヒデミがニコッと笑む。


「なら最後まで信じなさい。ぜーったいあんたはうまくやれる」

そこだけは頷けない馬鹿正直さ。ヒデミはくるりと眼を回す。


「じゃ、おまじない」

きれいにメイクアップしたショーコの顔、その頬に突然ぶちゅっとヒデミがキスをした。あまりの唐突さ、脈絡のなさにショーコはただ唖然と瞬きを繰り返すだけ。


「これからあんたは、無敵になるの」
『あと１０秒。出場者はボックスから出てください。７，６，５…』

カウントダウンが迫る。

「ショウタイムよ。ファイト、ショーコ」


はっと伸ばした指の先でヒデミはするりと外へ消え去った。ボックスにはショーコだけ残される。

『競技終了！』


否応なく迫り来る正念場。今度こそ腹を括らねばならない。全身を小刻みにふるわせるのは怯えなのか恐怖なのか。武者震いだと自分に言い聞かせながら、ボックスを仕切るカーテンの向こうをショーコはひたすら睨んでいた。





東京は今や世界が認めるモードの発信地だが、さらに細かく流行の発信源を探すとしたらどこになるだろう。

ひと口で東京といっても広い。お洒落な街と言われて思い浮かべる地名といえば、渋谷原宿六本木、麻布白金銀座に自由が丘などなど。しかし。都心で誰もが知っているターミナル駅にもかかわらずなかなか名前が出てこない、ブルフェスの地元はそんな街だった。

人の出入りが激しく夜の店とデパートが繁華街を二分し、最先端といかがわしさが折衷している。決して流行に遅れはとらないのにモードを牽引できない、表舞台にたてぬ不満がここで生業を営む若者には少なからずあった。


シザーズはそんなマイナスエネルギーをプラスへ変えた。中でも美容師たちにとっては毎年オリンピックが開催されるようなものだ。この街で頑張っている者だけが立てる舞台は彼らの意識とプライドを引き上げ、同時に技術も向上させた。誇れるものを持つ素晴らしさ。この十年のシザーズがそれを物語っている。


『レディス　アーンド　ジェントルメン！　ウエルカム　トゥー　カリスマシザーズ！』

第1会場で近末が、第２会場で友川が、シンクロして叫ぶ。ワーッと歓声がこだましウエーブしていく。第１会場の舞台の巨大スクリーンは第２会場を映し出している。第２会場にも左右に大きなスクリーンが作られ、遠くからでも見えるように舞台を映す作りになっていた。

別プログラムで動いていた二つの会場がひとつになって、シザーズの見せ場、アピールタイムと会場審査がようやく始まろうとしている。


観客が急増したのを受け、５年前から会場審査員はハガキで選出されることになった。抽選で選ばれると舞台真ん前、特別審査員のうしろに席が用意される。会場審査員１４０名、当日の欠席を見越して予備２０名、計１６０名分の一階席前列はいろいろな意味で羨望の的だった。

当選ハガキと引き替えにもらえる指定席のパス。そこに座った客たちは優越感や期待感で頬を紅潮させ、今年はどんな変身が見られるかとさざめいている。これが漫画ならきっと、ドキドキワクワクといった擬態語でそこら中埋め尽くされているだろう。それもなんだか。


「気持ち悪いわよねぇ」
「何。エヴァ、なんて言った」

でかい図体を屈ませてのぞき込んでくる忠犬。エヴァのつぶやきが何より気になるという態度は今に始まったことではないが。


「アダムったらぁ。あたしの一言一句も聞き逃すまいとしてるのぉ？」

からかい半分の言葉にも全く動じない。


「もちろん。で、何」

まじめに追求してくる彼は、日頃の自分の好みとは真反対のはずが、そばにいるようになって４年。これまでつきあった誰よりも長いから不思議だ。


「エヴァ？」
「なんでもないのよぉ。ただぁ、こんな狭いところでぎゅうぎゅう詰めでおとなしく始まりを待ってる自分がぁ、らしくないからおかしくなっただけぇ。そうでしょぉ？」
「嫌なら出りゃいい」

あっさり言うアダムに今度は呆れる。


「あんたねぇ、のるかそるかヒデの大勝負なのにぃ？　ぜぇーったい見るわよぉ」

滅多なことでは動じないエヴァはその実、仲間や友人のこととなると世話焼きの心配性に変わる。


「それもこれも子猫ちゃん次第と思うとぉ、胃が痛くなりそうだわぁ」

かすかにしわが寄った眉間に温かい唇が触れてきた。上目遣いの視線と見下ろす視線が出会う。アダムのエヴァへのスキンシップは時も場所も選ばずためらわず。そこも気に入っている。

こんな狭い空間でいちゃいちゃするとさすがにひんしゅくを買いそうだが、エヴァとアダムの周囲はブーケのスタッフやヒデミの友人知り合いで固められているから誰も気にせず驚かず。


「それにしてもぉ。仲間うちでひとりも審査員に当たらないなんてぇ」
「今年は応募が一万通越えたっていうぜ」
「シザーズってほんとぉ、コネが効かないんだからぁ」

うんうんと誰もがこぞって頷く間に、舞台では審査方法と得点についての説明が続けられていた。会場審査からテレビ中継も入っていて、生中継を円滑に進めるためスタッフはおおわらわで走り回っている。


『というわけで、審査員ひとりひとりの一票がシザーズを決めることになります。記念すべき１０年目のカリスマは誰か。このあと、いよいよアピールタイムです』


テレビのためのコマーシャルが入ると同時に照明が落ち、下ろされていた中幕がしずしずと上がり始めた。会場を静けさが覆う。無造作に場内をサーチするライト。徐々に暗さに眼が慣れてくると、デパートの試着室そっくりのカーテンで仕切られたボックスが８つ、浮かび上がって見えた。

じっとみつめるエヴァ。


もう何年も観客として見るだけだったシザーズを、またこんな気持ちで迎えるなんて心臓に悪い。年かもしれない。十年前も舞台にはヒデミがいた。持ったばかりの店を軌道に乗せようと必死だった。優勝でまさかあんな風に転がり落ちるなんて。わかっていたら。

握りしめた指にふわり、手がかぶせられる。心配するなと言いたそうなアダムだが無理な相談だ。ヒデミはともかくあの娘はほんと。

トチったら首締めてやる。
気合い入れれば、どいつもこいつもカボチャよ！


舞台中央、ショーコが隠れているはずのボックス。ここぞとばかりにエヴァがにらみつけた途端、現れたスポットライトが友川をとらえる。


「アピールタイム、開始です！」


マイクがキーとノイズをきしらせる。消せぬ不安に同調するような音に耳を塞ぎたくなるのを堪え、エヴァはまだ念じ続けていた。