子どもの頃から度胸があると言われたことなど一度もない。
唐突にショーコは思った。
臆病で恐がりだとは母に何度も揶揄やゆ された。獣として産まれたならウサギとかの草食動物だったろう。可愛いくても弱々しく、穴からなかなか出られない。そんな草食動物の生存本能からすれば、今は間違いなく引っ込むべきなのに。
白いビニールテープで床に切られた1メートル余りの正方形の中。
生憎、ここには穴がない。
逃げも隠れもできない舞台の上で一体何をしてるのやら。カット用のいすに座り黒いクロスで首から下を覆って座っている姿は、観客席の後ろからみればきっと吊す紐がないだけのてるてる坊主か。
広い舞台にジグザグ並んだ8つのてるてる坊主の俯瞰図ふかんず が、ぱっと脳裏に浮かんだ。思わず吹き出しそうになったショーコはあわてて口を押さえる。今笑おうものならきっと、ヒステリーを起こしてしまう。
鼓動で胸が破れそうと思ったとたんだった。ショーコにすれば最後の頼みの綱、観客席と舞台を遮ってくれていた緞帳どんちょう がするすると上がりはじめる。容赦なく注がれるのはライトと歓声の集中砲火だ。舞台ほぼ中央に位置するショーコはあまりのまぶしさと音で、目も耳もふさがれたような錯覚にとらわれた。
流れ出す音楽。ショーコの前を横切って現れたのは、さっきリハーサルでも見た背の高い司会者。スーツにネクタイ、めがねにマイク。いかにもステレオタイプの外見を声も裏切らない。
「ウエルカム、トゥ、シザーズ! こちらは第2会場、といってもブルフェスのメインはシザーズですのでこっちがメイン会場といってもいいですよね。司会を務める友川努ともかわつとむ です。よろしくお願いします。シザーズは5年目、しかも10周年。いやー僕も楽しみにしてました」
カッチリしたしゃべりでよどみない。間近で見るプロのしゃべりを他人事みたいにぽかんと眺めていたショーコだが。
「では改めてご紹介しましょう。今年のシザーズを争う8人の出場者の登場です!」
声と共に両サイドからずらりと現れた背中を見て、一気に心拍数が上がった。順番に紹介されていく美容師たち。右端の二人にショーコの目は吸い付く。
「エントリーナンバー、セブン。スタイルの檜垣芳弘」
両手を後ろに組んで深くお辞儀をした彼は、ヒローとあがる声援に応えようとする手が強ばっている。ショーコに気をやる余裕はさらにあるまい。ぎゅっと握りめたこぶしがかすかに震えて見える。ショーコにも震えが襲う。
「そしてスペシャルエントリー、Lemonのヒデミ!」
ピンスポットがヒロからヒデミに移る。浮かび上がった後ろ姿にはぁとショーコは嘆声を漏らした。
実に自然体だ。この数日間エヴァに言われ続けた理想の姿勢がここにある。身体のどこにも余分な力は入れず、そのくせ背筋はぴんと伸びている。くだけた足元はヒールの高いミュールなのにまるで、フラットシューズを履いているような安定感だ。首をかしげにこやかに手を振るヒデミに、会場からはどよめきと歓声が二分している。
「さて、お集まりの皆さんはよくご承知と思いますが、毎年このシザーズにはテーマがあります。参加者は決められたテーマに沿って自分のモデルを変身させる。会場審査員の皆さんはどのモデルがテーマにもっとも合っているのかを審査基準にしてください」
テーマと聞いて、ショーコは身震いした。散々反対したけれど、ヒデミは一貫して自分の主張を貫き通し、ショーコは受け入れるしかなかったものの。ほんとにあれでいいんだろうか。
「出場者にはすでに伝えてありました今年のテーマ、発表しましょう。十周年のシザーズ。テーマは 『 ヒロイン 』!」
ざわざわと客席がざわめく。大方は初めて知る者ばかりだから。
「物語でも映画でもおとぎ話でもその他、解釈は自由です。さあ、どんなヒロインがこの舞台に現れるのか」
しゃべり続ける友松に気を取られていたショーコだが、いつのまにか傍らにはヒデミが立っていた。他のモデルのそばにも出場者がついている。いよいよ始まるのだ。
ヒデミはやっぱりいつもとかわらぬ横顔。ショーコに片目でウィンクをよこした他は、観客席をゆったり見返すだけ。
「ごたくをならべるのはやめましょう。勝負のはじまりです。まずはカット競技。全員スタンバイはOKですね? ではみなさん、一緒にカウントダウンを。11,10,9」
つられるように客席から声があがる。後ろに回ったヒデミにショーコは両肩をクロスの上からぎゅっとつかまれた。
「6,5」
ヒデミの手に指先で軽く触れるショーコの前、握りしめたショーコの右手が、親指を突き出す。
「3,2」
聞き慣れた声が囁く。
「行くわよ」
頷いたショーコはあごをひき、初めてまともに広い観客席をみすえた。エヴァの口癖を唱える。観客は全部カボチャ、うんカボチャ。そしたら何故かサングラスをかけたカボチャが浮かんで来て、なにくそと思う。
負けるもんか。
「GO!」
高らかに響く号令。歓声があがると同時に、舞台をシャキシャキと軽く細かいはさみの音が満たしていった。
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