気づくと外は薄明るくなっている。あらとヒデミはため息を一つ。
「ひとねむりしなきゃね」
シザーズ本番は１０時開始。ステージ入りは９時だ。今からでも３時間は眠れるだろう。

強いノック音がした。スモークの硝子越しに影が見える。

「キング。どうしたの」
「おまえ、ちょっとは寝た方がいいぞ」


忙しい身だというのにわざわざとヒデミが顔を緩ませる。こういう気遣いが彼をそこらにはいない男にしている大きな要素だと思う。


「わかってる。ショーコもついさっき帰ったのよ。寝られればいいけど」
「…そうか。自覚があれば眠るさ」

含みのある口ぶりにキングの顔色をうかがったヒデミは、予想を確信に変えた。


「わざとでしょ」
「何が」
「電話。わざとショーコを突き放したのね？」

黒いサングラスの向こうで、彼の眼は悪戯っぽく踊っているはず。


「どうしてそう思う」
「あのね。長いつきあいなんだから」

そう言うヒデミに否定も肯定もせず、キングはただ笑んだ。この笑みがどれだけ曲者なのかも嫌と言うほど知っている。


「久しぶりだな。おまえが表舞台に立つのは」

案の定、話は飛ぶ。じっとみつめられてヒデミはドキリとする。


「おまえとショーコがどんなものを作り上げるのか、楽しみだ」
「期待してちょうだい」
「ああ。シザーズで逢おう」

立ち去っていく男を眼で追いながら、ヒデミは胸の鼓動をなだめた。


『ヒデミさんもキングが好きなの？』

当たらずとも遠からず。あの通り極上の男なのだ。ヒデミもかつて仄かな恋心はあった。つみ取ったのは自分の手に負えないと悟ったから。正しかったと思う。恋の代わりにどんな時も変わることのない友情を得て、ヒデミの今がある。

わかっていても時々、掻き立てられてしまう残り火。


「しょうがないわよね。いい男だもん」

ひとりものの今、名残を惜しんで愚痴るくらいは許されるはず。クスと笑う。あの男は彼女にとって果てしなく高いハードルだろう。普通に考えれば勝率はコンマ以下に思えるけれど。


「頑張れショーコ」

大きな背中はいつのまにか消えていた。ドアを閉めたヒデミは短い眠りをとろうと奥の部屋でソファに寝転んだ。

決戦の朝日が熱気と共に空を染め上げ昇りつつあった。





『サマー・ブルー・フェスティバル』は今年で１０年目を迎える。二桁を数えるほど続こうとは誰も期待してなかったのではないか。年を追うごとに人が集まり、７年目からはニュースでも取り上げられるようになった。１０年目の今年は一層の人出が予想されている。


ここまで育った理由はいくつかあるが、繁華街という土地柄を逆手にとったのが大きい。目玉イベント「シザーズ」からしてそうだった。地元の美容院が出場すると聞いて、ホストやホステスたちが客相手に贔屓ひいき　の美容師とサロンをなにかと話題にした。初めは冗談半分だった出場者も、口コミで客に広まると煽られて本気になった。舞台の上も外も熱を帯びた相乗効果で、期待をはるかに上回る結果へとつながったのだ。


朝６時からの通行止めは一日だけ許可を得ている。路上に突貫で組み上げたステージ。その上に周囲を見渡しながらキングが立つ。


通りの両側にはずらりと出店が軒を連ね、オープニング前にもかかわらず早々に集まり始めた客たちを楽しませている。この頃は昔と違って出店もどこかこぎれいだ。昔から暴力団がシマをとりあうこの辺りは、なにかと騒ぎになりやすい。警察に睨まれるのは面倒だ。露天商と元締め連中も穏便を装うのが最近の風潮だ。

繁華街に構える店は表でも裏でも暴力団と依存しあうところが大方だが、キング自身は対等に共存を保ってきた。遡れば戦前から根を張ってきた彼らを簡単には排除できるものではない。だからといって呑み込まれるのもよしとしない。共存と互いの不可侵がキングの選んだ形というわけだ。

必要悪と割り切れば利用できることも多い。油断すると呑み込まれるので常に自分を律し緊張を保つことが重要だった。同じ姿勢をこのフェスティバルでも貫いている。


「第一会場はＯＫだ。そっちは」

インカムを通したキングの問いにクリアな答えが返る。


「もうちょいだ。出場者とモデルはそろった。ビフォアーの撮影に入ってる。ゲスト審査員もぼつぼつ集まってきたぞ」

時計は９時。祭りのオープニングセレモニーは１０時開始だ。


「最終チェックに入ってくれ」
「了解」

連絡を終えたキングはひらりとステージから飛び降りた。舞台すぐ下にはテレビ局がカメラをスタンバイさせているし、音響スタッフ、照明スタッフ、進行スタッフ。誰も彼もとびまわりトラブルがないよう神経をとがらせている。全てを統括するのが彼だ。


「作業急げ。司会者はどこにいる？　チラシは配布してるな。整理券のスタンバイは？　会場整理のバイトを全員集合させろ」

いかにも命令に慣れている彼に誰も異議をはさまず従うのみだ。さながら指揮官の下、タイムリミットに向けて闘う小さな戦場と化していた。





ドンドンドンと花火があがる。一日限りの祭りが始まる合図だ。いつからか夏の先駆けと言われるようになった催しは雨に降られたことがない。短時間でがっちりと作り上げられたステージの上で、セレモニーを取り仕切る司会者に誘いざな　われ、実行委員長と副委員長がマイクに近づくのを、舞台裏からキングは見ていた。

祭りを立ち上げた当人であり実質のトップでありながら、彼が委員長の座についたのは１年目だけだ。表に立つことをキングは嫌う。美意識としても都合上も、裏で全てを掌握する方が性分だ。


また上がる花火が、青い空に煙だけ残して残響する。形はなくても心に残るもの。ショーコはこの花火を聞いているだろうかと考える。いや、彼女がいるのは屋内だ。たとえ屋外でも緊張でそれどころではないきっと。口の端を上げるキング。

「第１０回、サマーブルーフェスティバルの開催をここに宣します」

ステージのマイクから会場全体に野太い声が響き渡る。男ふたりの色気のない宣言に、口笛が鳴り拍手が湧き歓声が飛ぶ。

「次、いくぞ」


日射しが今日も強い。インカムのマイクスイッチを握って低く指示を出すキングの、額が汗で濡れていた。