ヒデミが語ったところに寄れば、ホストをやめたキングが自力でMan　Hall　を開いた時は、そこら中が上を下への大騒ぎだったらしい。さもありなん。全て即金だったというから彼の稼ぎッぷりが想像できる。

遅れること２年でヒデミも自分の美容室を手に入れた。キングとは違ってあちこちに借金しなければならなかったものの自分の店だ。喜びと誇りを胸に昼夜を問わず働いたが経営は楽ではなかった。キングがサマー・ブルー・フェスティバルを立ち上げたのはその翌年だという。


「シザーズをやるぞって。声かけられて嬉しかったしありがたかった」

それはヒデミのためであると同時にキング自身のためでもあった。初めての催しを成功させるために、ヒデミがいれば優勝大本命・最強の駒となる。フィフティの関係だからこそヒデミも乗った。


「凄い、ですね」
「うん？」
「優勝のつもりで参加して、実際勝っちゃうんだから」

今のショーコがのどから手が出るほど欲しい自信と実力を、ヒデミもキングも備えている。


「あのねショーコ。そのためにどれだけ泣いてきたと思ってんの？」

ヒデミが呆れたように見た。


「素質があってもそれだけじゃだめ。なんでもそうだけど美容師の技術はたゆまぬ訓練と経験で成り立つの。あたしは加えてゲイがばれないように必死だったのよ。お客さんは今でも気味悪がる人がいるし、仕事仲間はゲイなんかゴミと同じに思う奴が珍しくないんだから」

考えも及ばなかったヒデミの現実をショーコは言われて知る。


「でも。有り難いことに仕事は腕次第・自分次第。だから死にものぐるいで接客術とスキルを上げたの。今なら仕事は誰にも負けない。胸はって言える。エヴァもそうよ」

はっとした。ヒデミの強くないまなざしがなんだか痛い。


「世の中にはやりもしないで口ばっかりの人間も多いけど、エヴァが口にしたことは全部、自分がやってきたことだからね」

言われて項垂れてしまうショーコにヒデミは口調を和らげた。


「なんてお説教も今だからよねぇ。シザーズに優勝したおかげで賞金もゲットしたし名前もちょっとは売れたし。店も繁盛するようになったのに。あたし、ろくでなしに引っかかったの」

冷めたお茶をぐっと飲み干し、カップを置いてヒデミは立ち上がる。明日の準備なのか、ブラシや櫛を何種類もトレーから物色し始める。口は止まらない。


「惚れっぽいのは昔っから。なのに男見る眼なくて」

同じセンテンスをちょっと前にも聞いたなと思い出す。忠犬アダムの声が重なる。


「ろくでなしはバーテンでさ、シザーズの前からつきあってたんだけど。金がない時はそうでもなかったのに、シザーズに勝って店もうまくいくようになったとたんに、金せびるようになって。果ては知らない間に店を担保にサラ金に手を出して」

サラリと話している内容が凄い。ちょっとびびる。


「あたしもね。恋してる最中は周りがみえなくなるから。気づいたら相手はドロンしてるわ取り立て屋がくるわでボロボロ。追いつめられてテンパって、発作的に……やっちゃった」

じっと、ヒデミが眼を落としているのは自分の左手首だった。そういえば彼女のそこはいつも、綺麗なラインストーンがブレスレットみたいに巻き付けられている。お洒落なヒデミらしいと思っていたその下にまさか。


「キングがいなかったらとっくにあの世ね。病院で目が覚めてつくづく自分が馬鹿だと思った。エヴァったらおんおん泣いてたくせに起きたとたん鬼みたいに怒るのよ？　死にかけた人間つかまえて非道いでしょ」

ショーコはうらやましかった。いざというとき助けてくれたり鬼のように怒ってくれたり、そんな友達のいるヒデミが。


「良かったですね。助かって」
「一度ならそうも言ってもらえるんだけど」
「は？」

ブラシ類の次は小物やヘアピンらしい。口はともかく手は準備に余念無いヒデミだ。


「自殺未遂はそれっきりよ。でもほんと男運悪くて。ストーカーやらヒモやらＤＶやら。ゲイでもまともな人は世の中いっぱいいるのに、なんであたしばっかり」

話すうちに妙な怒りが湧いたようだ。ダンと足を鳴らされショーコがビクッと身を退く。


「ヒデミさん？」
「あぁごめんね。とにかく。あたしははずればっかり引いて、そのたびエヴァやキングに心配かけてきたわけよ」
「はぁ」
「最初のシザーズのあとずっと。ここはようやく持った二度目の自分の店なの。いい加減あたしも腰据えなきゃって思って。キングやエヴァに愛想尽かされる前にね」

最後に声音が真面目になる。


「あのふたりから借りっぱなしのお金も返したいし。他から借りるくらいならって言うけど、今時無期限無利子なんて有り得ないでしょ」
「すごい」
「不思議よね。あたしずっと面倒しかかけてないのに」

自嘲するヒデミにショーコはすぐ首を振った。言葉にするのは難しいけれど、ヒデミには人を惹きつける、心を浮き立たせてくれる雰囲気がある。辛いことをたくさん経験しているからこその優しさや明るさを、彼らは好いているのだろう。だからこそ。


「キングもエヴァも、ヒデミさんのことがとても大事なんですよ」
「あんたもそうだと思うわよ？」

思いがけぬ言葉にショーコが目を瞬く。


「エヴァは半信半疑かもしれないけど。キングは信じてる。あんたがちゃんとやってのけるって」

なにか言おうとしてショーコの唇はぽかりとあき、また閉じる。


「そのためにはあんたが自力で頑張らなきゃだめなの。他人がどれだけお膳立てしてくれたって最後は自分次第。ショーコが覚悟を決めて初めて、周りも助けられるんだから。頼ったり縋すが　ったり甘えたりしないで」

キンと、ショーコの心が弾かれ悟った。

さっきキングに電話をかけた自分は頼って縋って、甘えていた。怖いから、恐ろしいから逃げようとしたのだ。田舎をとびだした時みたいに。


黙り込んだショーコの額を、ヒデミの人差し指がパチンと弾いた。
「いたっ」
思わず叫んで鏡を見たショーコの、額に出来た赤い痕を指してヒデミが真顔で告げる。
「そんなものよ」

「なに？」
「もし失敗したって、せいぜいそんなもの。明日の舞台がこけてもショーコもあたしも死ぬ訳じゃない。怖がることないの。結果は大事だけどそれより大事なものもある、……って話であたしはいつもエヴァと意見が分かれちゃうんだけどさ」

ヒデミは一度伏せた眼をまたあげる。


「死のうとしたあたしが生き延びてショーコに逢えたんだから。一緒になにか作りたいのよ。シザーズに出ろってキングに言われてずっと迷ってたのに。あんたを見て思ったんだもの」

ヒデミが、笑った。


「生きてて良かったなぁって」


百万ドルが日本円でいくらか知らないけれど。ショーコにとってヒデミの笑顔は百億円を下らぬ価値があった。泣きたくなるけど泣いちゃいけない。今はまだ。


「あたしも」


ヒデミに逢えて。キングに逢えた。
あの過去があるからこそ、現在いま　がある。


「あたしやる。シザーズ、頑張る」
「そうこなくっちゃ。勝つわよ？」
「え。結果はいいんじゃ」
「勝つ気でやらなくてどうすんの」
「えー？」


軽口をたたき合いながら握りしめる手と手。
意地でもなければ勢いでもなく、やけでもない。それはふたりだけの厳おごそ　かな約束だった。