あてもなく歩いたはずが、気づいたらLemon　の前だった。「準備中」の札の向こう、まだ灯りはあるけれど、いくらなんでも彼女に泣きつくわけにも。きびすを返そうとしたショーコだが。


「やぁだショーコ、忘れ物？」

しゃべるより前にひっぱられ、ショーコは再びヒデミと店内にいた。


「どうしたの」

ものすごく情けない顔をしていたんだろう。いつもの椅子に座らせたショーコをまじまじとのぞき込んだヒデミは、疲れているのに優しい顔。

堰せき　が切れた。
ぶわっと溢れだす涙にヒデミが眼を丸くする。


「っ、デミさん、あたし自信ない。自信ないよお」

このごろ泣いてばっかりだ。ずっと、感情を抑え込んで平静を保ってきたっていうのに。人生は運と同じでどこか、差し引きゼロになるようにできてるんだろうか。どうでもいいことが過よ　ぎって消える。


「ちょっとちょっと」
「キ、グが、ならやめ、ばって。エヴァだ、て全然不満そ、ったし」
「ショーコったら」
「も、あた、のせ、で負、たら」
「ハイハイ落ち着いて。ほら明日のために泣かないでよ」

そうだ。モデルやるのに泣いちゃまずいんだ。やりたくないと駄々をこねてる最中なのにそんなことを気にする自分もいて、ショーコはますます混乱する。とりあえず抱きしめてくれるヒデミの胸が温かかった。

ひらべったいけど。

泣きベソをかきながらもクスッと笑えた。頭に一部に風穴があいて、渦を巻き上げた気持ちがゆるやかに着地していく。ずずっと鼻をすすり上げるショーコをのぞきこんでヒデミは口をすぼめる。


「あぁまずい。アイピローとってくるから」

持ってきたのは眼を冷やすためのアイスノンとでもいうのか。


「のっけて冷やす。早く」

座っている椅子の背を傾けられてショーコはおとなしく眼を閉じた。薄手のガーゼの上からヒヤッとした冷たさと重みが加わって、詰めていた息をふーっと吐いた。

閉じたまぶたの裏を見つめようとすると却かえ　って闇になる。夜の底。深海のような静けさにエアコンの音だけクリアだ。積もり積もった不安やキングに突き放された動揺をショーコにしては穏やかに訴えて、また沈黙になった。


「あたしね、キングにはひとかたならず世話になってんのよ」

ゆったりしたヒデミの声が波紋のように届く。


「知り合った時、キングはまだホストやってたわ。もちろんトップでガンガン稼ぎまくってた。凄かったのよ。肩で風切っちゃって、あんまりとりまきが多いからここらを仕切るヤクザににらまれたこともあったわね」
「こわ」
「ところが逆に気に入られて若頭にせまられたとか」
「せまられたぁ？」
「ヤクザ屋さんはゲイやバイも多いから」

うわぁと悲鳴は心中におさめる。


「ヒデミさんとは？」
「あたしが雇われた美容室がキングの行きつけだったの。最初は気に入らなくて。そりゃあたしより年上であたしの何百倍稼いでたけど、何千倍も傲岸不遜ごうがんふそん　だったんだから」
「へー」

傲岸不遜。今とは少しイメージが違いそうだ。昔のキングをショーコは想像してみる。


「それを隠す気もなかったからお互い角つきあわせてたのよ。或る日、キングの担当が急にやめちゃってね。そしたらキング、あたしを指名したの。信じられる？」
「それは」
「絶対嫌がらせだと思った。殺意持ってハサミ構えたわよ。文句言ったらバリカンかけてやる気満々で」

思い出しているらしい。ヒデミは楽しげだ。


「切ってる間中キングも凄い顔でにらみつけてたし」
「それで？」

先を促すショーコにヒデミは笑いを含んだ声。。


「終わった途端にあいつ、整えてやったばかりの髪を両手でぐしゃにしたのよ」
「は？」
「それを手櫛でまた左右に流して、挙げ句に笑ったの。いい腕だ。気に入った、って」
「えっと」

「やられちゃった。言葉じゃなくてベタだけど『百万ドルの笑顔』？　テレビのアイドルも俳優も目じゃない。美容師なんていちころ。男にうるさいヒデミさんが降参だもの。客に恋したのはあいつだけよ」

しみじみしたヒデミに一瞬聞き逃した言葉。アイピローをつかんでショーコが飛び起きる。


「え？ええ？　ヒデミさんもキングが好きなの？」
きょとんとしたヒデミが吹き出した。
「もって何よ。も？　わっかりやすい娘ねぇ」
あわわと赤くなったり蒼くなったり白くなったり。ショーコの顔はまるで信号機か三色旗だ。


「そりゃ好きよ。言ったでしょ。すごく世話になってるの」
ひとしきり笑い転げたヒデミがふっと真顔になった。

「何しろ命の恩人だもの」


え、とその言葉をショーコは声ごと呑み込む。
「いのち、って」
「あー、のど乾いた。待ってて」


奥へ消えたヒデミはカップをふたつ持って現れた。ヒデミの好きなハーブティーの香りが流れてくる。ひとつをショーコへ差し出すと、ゆっくりと自分も口を付ける。冷房の効いた店内での熱いお茶はほっとする。


「自殺未遂、やったのよ。みっともないでしょ」

ぐっとむせかけた。こらえはしたが紅茶の熱さにのどを焼かれる。ぐほげほとわけのわからぬ音を発しつつなんとかくぐらせた。痛みに咳払いしながら問う。


「どう、して？」
「せっかく始めた店を借金のカタにとられちゃって。まぁなんていうか」
ヒデミは肩を竦めてカップを抱える。

「男運が悪いんだわ、あたしって」


諦めたような声音が切なく響いた。