Man　Hall　のオフィス。
メールの処理に没頭していたキングの携帯が鳴った。
「トッカータとフーガ」
良くも悪くもなにかを起こしそうな彼女のイメージ。設定はしたもののかかってきたのは初めてだ。


「どうした」

かけてきたくせにあっさりつながったことに驚いたのか、相手は沈黙している。


「ショーコ？」
『あ、うん。あたし』
「わかってる。用は」
『あの』

多分必死で言葉を探しているのだろう。本屋のバイトを選ぶくらいだ。読書量はそれなりにあるようだが、そのわりに語彙が足りないのは今時の若者だからなのかとキングは考える。


『今夜、帰ってくる？』

眉間がよじれた。選りに選って居候が家主に携帯で聞くことか。反面ショーコの不安や心許なさが透ける。舌打ちを堪えたキングは淡々と言う。


「たぶん無理だな。朝イチから会場設営だ。準備の確認もある」
『ええ？　でも』
「ほっといたって明日、じゃない。今日の昼には会うだろう？」

電波の向こうの焦り顔が見えそうだ。


『い、ま。店なの？　ホストクラブ、だっけ』
「どうして」
『行ったら、ちょっとだけでも会える？』
「何故」

時には辻説法並みにまくしたてることもある彼女が、なんとも切れ切れの会話だ。


「用なら今言え」

ショーコが怯むのは承知の上だった。





さっき、アダムにあった場所から十数メートル。コンビニの前で携帯を耳に当てているショーコの、背中は汗で濡れている。深夜になってもアスファルトがため込んだ熱気は放出をやめず、空気は冷えない。電波の向こう、快適な室内にいるはずのキングが苛立ったのを感じる。


『ショーコ？』
「あ、あたし。明日のステージ自信がなくて」

我ながら情けない声だが取り繕うこともできない。


「髪だけ切られればいいと思ってたんだ。モデルみたいなことなんか無理。聞いてないし。もし勝てなかったらそれってあたしのせいなの？」
『ショーコ』
「そんなの困る。やだよ。人が多いところに立って切られるだけで一杯一杯だもん。急になんだかんだ言われても身に付くわけないじゃん。できっこない」

『やめるのか』
「ムチャ……え？」
『いやならやめればいい』

言い出したらとまらなくなった愚痴の奔流は、短く鋭い返事にぶっつり途絶えた。

やめれば？


「あ、の」
『やめるか』
「だ、だってもう明日、じゃない今日だよ。いまさら」

『ヒデのモデルだ。やりたい奴はごまんといる。うちのスタッフだって何割かはあいつにやってもらってるんだ。顔だって売れる。嫌とは言わない』
「でもだけど、あの、準備とか色抜いたり」
『準備だけのやる気がないモデルと、準備なしでもやる気満々のモデル。どっちがいいかなんてバカでもわかる』

言葉を見失った。

ずっと、ショーコをフォローし続けてくれたキングが、まさかそんな風に。簡単に交替を口にするなんて思いもしなかった。期待していたのは違う言葉だ。

期待？


『やるのかやらないのか、どっちだ』

そんな二者択一を即座に迫るなんて、うそだ。
だって、あたしは。


『はっきりしろ』
「やる！」

気づけばそう言っていた。
携帯にしがみつくようにして、怒鳴るほどの大声で。


「あたしがやる。他の誰かなんて探さないで」
『ほんとか？　本気でやるんだな？　これが逃げるラストチャンスだぞ』


「やるったらやる！　見てなさいよっ！」


ぶちっと切った画面。バックライトが映し出す通話時間を見て、ようやく我に返る。

やっちゃった？

携帯を握ったまましゃがみ込む。頭を抱えたショーコへコンビニから出てきた高校生が不審なまなざしを向けるけれど、それどころじゃない。何のためになけなしの勇気をふりしぼったんだか。かけない方がましだったかも。


強気で怒鳴った返答とは裏腹に、コンビニのガラスに映る情けない顔。
追いつめられたショーコは今まさに、崖っぷちに立っていた。